おニャン子クラブ、運命の日から35年。ブレイクして「壊したもの」と「残したもの」

週刊女性PRIME / 2020年8月29日 16時0分

全盛期のおニャン子クラブ

「お声の様子とか、みなさんのアクションは非常に若々しくてあどけないんですけれども、歌詞がすごいんですねぇ。今ごろこんな歌詞、みんな平気で歌っちゃうのかな?」

 
1985年8月29日に放送された音楽番組『ザ・ベストテン』(TBS系)で、司会の黒柳徹子が発したコメントである。それはこの日、初めてベストテン入りしたおニャン子クラブが、7位にランクインしたデビュー曲『セーラー服を脱がさないで』(作詞:秋元康、作曲・編曲:佐藤準)をスタジオで歌唱した直後に飛び出した。

 無理もない。《友達より早くエッチをしたい》とか《バージンじゃつまらない》といった際どい歌詞を、どこにでもいそうな少女たちが、あっけらかんと歌ったのだから。

 もちろん、少女の初体験をテーマにした歌謡曲はそれまでにも存在した。しかし、そのほとんどは隠喩的な表現で聴き手の想像力を刺激するもの。これほどまでに直截(ちょくせつ)的であけっぴろげな歌は、前代未聞だったのである。

オリコン初登場は34位にとどまったが…

 そのおニャン子クラブは、'85年4月にスタートしたフジテレビ系のバラエティ『夕やけニャンニャン』から誕生した。月曜~金曜の夕方5時から放送された通称『夕ニャン』は、同局の深夜番組で女子大生ブームを作った『オールナイトフジ』('83~'91年)の女子高生版、という位置づけだった。

 番組のコンセプトは“放課後のクラブ活動”で、開始当初の司会は片岡鶴太郎。当時、シングル『一気!』のヒットなどでブレイク中だったとんねるずがレギュラーだったこともあり、番組は中高生の間でたちまち評判を呼ぶ。

 そんな『夕ニャン』のマスコットガール的存在だったおニャン子クラブは女子高生を中心に11人で結成され、以後、番組内オーディション「アイドルを探せ」の合格者が次々と加入していく。すでに芸能事務所に所属しているメンバーもいたが、既成のタレントにはない親しみやすさと、素人然とした言動がウケて、同年7月5日に『セーラー服を脱がさないで』でレコードデビューするほどの人気を得る。

 とはいえ放送開始時は、フジテレビがカバーする関東地区以外は北海道、長野、愛知、三重、岐阜、岡山、広島、沖縄の8道県でしか放送されていなかったローカル番組(最終的に全国23局まで拡大)。人気はまだ限定的で、『セーラー服を~』もオリコン初登場34位にとどまった。

 だが、まもなく追い風が吹き始める。高校生メンバーが夏休みに入ると、グループは活動範囲を拡大。7月24日には『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ系)に初出演を果たすなど『夕ニャン』以外のメディアにも露出し始めたことが奏功し、『セーラー服~』は順調にランクを上げていった。

 そして冒頭の『ザ・ベストテン』である。当時、音楽番組の中で『紅白歌合戦』に次ぐ高視聴率を誇っていた『ザ・ベストテン』にランキングされることの意義は大きく、おニャン子クラブは全国区の知名度を獲得。この日を境に人気は社会現象級のブームへと過熱していく。それは歌謡史において、アイドルのあり方を根本から変える“事件”でもあった。

 8月29日はその転換点となった日から35年。その節目に、おニャン子クラブが歌謡界やアイドルシーンに与えた影響について、功罪両面から検証したい。が、その前にまず、ブームの大きさを確認しておこう。

『ザ・ベストテン』出演の3日後、9月1日に『涙の茉莉花LOVE』でソロデビューした河合その子以降、おニャン子クラブからはソロ名義で17人(B組の山崎真由美を含む)、ユニット名義で3組がデビュー。『夕ニャン』が終了した'87年8月末までの2年間で、71作ものシングル(グループ卒業後の作品も含む)がリリースされた。平均すると月に3作。驚異的なハイペースだが、それは「出せば売れた」からである。

 その71作のうちオリコンでTOP10入りしたシングルは65作、1位獲得は43作。ブームがピークを迎えた'86年は、年間52週のうち36週でおニャン子クラブ関連の作品が1位を占めた。アルバム(LP、カセット、CD)も含めた'86年の年間総売り上げ金額はグループ単体で23.7億円、ソロやユニットも含めると実に101.5億円。この年、1位に輝いた中森明菜が48.9億円だから、その旋風がいかにすさまじかったかが分かる。

 しかし、ブームは必ず収束する。過去に一世を風靡したGS(グループサウンズ)も、ピンク・レディーも、勢いがあったのは約2年間。おニャン子クラブも例外ではなく、『夕ニャン』が視聴率の低下とともに'87年8月で終了すると、同年9月20日の解散コンサートをもって、2年半の活動に終止符を打つ(ちなみに『夕ニャン』最終日にソロデビューしたのが工藤静香であった)。

 では、彼女たちが後世に与えた影響とは何だったのか。筆者は4点あると考える。

おニャン子に「私でもなれそう」

 第1は、ヒット曲の寿命を短くし、「初動がすべて」という風潮を作り上げたこと。おニャン子クラブはユニットやソロ作品も含めると、多いときは毎週シングルをリリースし、そのほとんどが初登場1位を記録した。帯番組の『夕ニャン』では新曲発売のたびに猛プッシュし、1位獲得を喧伝(けんでん)したが、すぐに次の新曲が発表されることもあって、2週目以降はチャートで急落することも珍しくなかった。

 かつては1位になるようなヒット曲は数週間にわたって上位にランキングされ、その間に広く浸透していったものだが、おニャン子以降は他のヒット曲も短命化が加速。その結果「1位をとったのに、ファン以外は知らない」曲が増えていく。それは複合チャート(CDセールス以外に配信やユーチューブの再生回数など、複数の指標を用いたヒットチャート)が定着する'10年代後半まで続いた現象であった。

 第2は、アイドルを発掘・育成する既成のシステムを破壊し、ファンとの距離を一気に縮めたこと。それまでのアイドル歌手は、第1号とされる南沙織以来、選ばれた人だけがなれる特別な存在で、誰でも応募ができたオーディション番組『スター誕生!』(日本テレビ系/'71~'83年)でさえ、プロによる厳しい審査を勝ち抜かなくてはならなかった。そして運よく合格したとしても、早くて半年、長い場合は1年以上かけてレッスンに励み、ようやくデビューというのが常道だったのである。

 だが、おニャン子クラブの成功でそのシステムは過去のものとなってしまった。実際には芸能活動を始めている応募者もいたとはいえ、表向きは昨日まで素人だった普通の少女たちが『夕ニャン』のゆるいオーディションに合格した途端、おニャン子に加入。特に秀でたスキルがなくても、すぐにその一員として活躍を始めたのだから、同世代の女性視聴者が「私でもなれそう」と思う一方、男性視聴者がクラスメイト的な親近感を持つのは当然と言えた。

アイドルは「通過点」でなく「目的」に

 第3は、メンバーの卒業と新加入をイベント化し、新陳代謝を重ねることでグループを維持していくビジネスを開拓したこと。今ではモーニング娘。やAKB48グループ、坂道シリーズなど、多くの“グループ型アイドル”に受け継がれているが、そのプロトタイプがおニャン子クラブだった。

 彼女たちの場合、“放課後のクラブ活動”という位置づけだったため、グループからの脱退を“卒業”と表現したわけだが、脱退につきまとう負のイメージ(メンバー間の不和や、事務所とのトラブルなど)を払拭(ふっしょく)したこの呼称はすぐに浸透。メンバー交代をポジティブなイメージに転換させた結果、グループのブランド価値を守りながら、鮮度も保つことが可能となったのである。'90年代以降、グループ型アイドルが主流となっていったのは、ソロのアイドルをゼロから育てるより、既存のグループを維持していくほうがリスクを回避できると運営側が判断するようになったからだろう。

 第4は、そうしたビジネスモデルの定着により、アイドルが「通過点」ではなく「目的」と化したこと。かつては「アイドルの旬はせいぜい3年」と言われていた。それはソロやメンバー固定のグループが中心だったため、キャリアを重ねて若さや鮮度を失うにつれ、大人の歌手への脱皮を余儀なくされていたからである。

 だが、メンバーの入れ替えが容易なグループ型アイドルの登場によって、事情は一変した。『スタ誕』出身歌手の作詞を数多く手がけた阿久悠は「岩崎宏美をどうやって成人させるかをいつも考えていた」と語っているが、世代交代をグループ内で行なえるようになると、そうした「成長」や「脱アイドル」は考える必要がなくなった。グループは同じような歌を歌い続け、メンバーは全力でアイドルを演じ続ける。アイドル文化を「可愛い少女を愛でるもの」と定義すると、そのほうがファンのニーズにも合致するからである。ただし、それはメンバー個人の成長を妨げ、卒業後の大成を難しくする負の側面もはらんでいることは指摘しておきたい。

 ことほど左様に、多くのレガシーを残したおニャン子クラブだが、その快進撃は黒柳徹子に衝撃を与えた35年前のあの日から始まった。幸い、いまは多くの楽曲が定額制のストリーミングサービスで配信されているので、この機会に聴いてみるのはどうだろう。きっとあの時代の息吹と、現在のアイドルに連なるDNAを感じとれるに違いない。

(取材・文/濱口 英樹)

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