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大林宣彦さん「お別れ会」ができぬまま一周忌、出演役者が明かす青春秘話

週刊女性PRIME / 2021年4月10日 11時0分

大林宣彦さん

 “アイドル映画の帝王”とも言われた大林宣彦監督。肺がんで亡くなって、4月10日で1年がたつ。

 コロナ禍で“お別れの会”もできない中、大林さんの友人で、アカデミー賞受賞作を含む70本以上の大林作品の脚本を書いてきた石森史郎さんに最近、未亡人の恭子さんから手紙が届いた。

「一周忌は身内のみで行い、コロナが落ち着いてきたころ『お別れの会』を開きたい」そんな内容だったという。

映画スタッフは“家族”同然

 もし一周忌を機にお別れの会が開かれていたら、大林作品に出演していた役者たちは、大林監督に何を伝えたかっただろうか……。

「いまだに実感がないですね。歴史上の人物になったけど、コロナ禍で人と会いにくい時代なので“実は監督は生きている”って言われても、あまり驚かないような気もしています」

 そう話すのは、'07年公開の映画『22才の別れ』に出演した窪塚俊介。以来、数々の大林作品に出演。大林さんの遺作となった'20年7月公開『海辺の映画館ーキネマの玉手箱』にも出演した。

「亡くなった翌日、僕はご遺体にお会いしました。“俊ちゃん、今回もよろしくね”っていう言葉がもう聞けない現実がつらすぎて、あまり思い出さないようにしています。でも、コロナが落ち着いたら改めて、お線香をあげに行きたいですね」

 大林さんは映画スタッフを“家族”同然に扱っていたと振り返る。

「とにかく愛の人ですね。人間愛、仲間愛、家族愛。その全部を見せてもらいました。現場ではハグに始まりハグに終わる。俳優に対して、とにかく優しい人でした。“大林組”ってよく言われますが、本当のファミリーでした」

 '81年の『ねらわれた学園』では薬師丸ひろ子、'83年『時をかける少女』で原田知世、そして'85年『さびしんぼう』の富田靖子と、多くの女優の魅力を若手のころから開花させた。出演した誰もが、大林さんの大きな柔らかい手に包まれる握手を覚えている。

 '85年の『姉妹坂』に出演した紺野美沙子もそのひとり。

「撮影に入るときと、終わったときに、いつも握手をしてくださるんです。そのときの大きくて優しい手が、今でも忘れられないです」

紺野が大林さんと初めて会ったのは、40年ほど前のこと。

「映画監督ってピリピリしている方が多かったのですが、大林監督は誰に対しても穏やか。身体が大きかったのですが、心も大きかった

 紺野が大事な思い出として記憶していることがある。

「デビュー作のプロデューサーが亡くなって、お葬式の帰り道で一緒になったとき“人は亡くなっても、残された人の中で生きているんだよ”と教えていただいた言葉は、今も私の中で大切にしています。当時の私は若かったから、それは大きな気づきになりました。実際に大林監督が、私の中でそうなりました」

 3歳にして、自宅の納戸にあった映写機で遊んでいたという大林さんの映画愛は“尋常”ではなかった。

「大林監督は映像オタクでした。もう、好きで好きでしょうがないのが伝わってくるんですよ」

 そう語るのは、'89年公開の映画『北京的西瓜(ペキンのすいか)』で主演を務めた大林組のひとり、ベンガルだ。

「酒もよく飲みましたし、ご飯もよく食べました。とにかくエネルギッシュ。当時の大林監督は60代でしたが、1日3時間も寝なかったそうです。どんなに遅くまで飲んでも、現場にはピチッと来ていました。移動中に草むらで大林監督が転んで倒れ込んだときがあったのですが、そのまま起きてこないで寝てしまった。それくらいの睡眠不足で、精神は強かったけど身体はきつかったんでしょうね」

 さらに気遣いの人でもあったと、ベンガルは続ける。

「特に新人に優しかったですね。ずっと褒めっぱなしですよ。スタッフが“この新人役者、大丈夫か?”と思うときでも“このシーンは君のためにあるんだよ”とか、うまいことを言う。人を操る術(すべ)がすごいんですよね」

 '86年のデビュー作『彼のオートバイ、彼女の島』から大林さんにお世話になったという竹内力は、さすがに監督の前では“コワモテ”にはなれなかったと明かす。

「俺はデビュー当時から“しかめっ面”だったから、大林監督には“君はタレ目なんだから、もっとかわいく笑って笑って”と言われて。監督がする表情をモノマネすることで、笑う演技を覚えました。でも、その後はやっぱり“しかめっ面”をする役が多くなったので、笑わなくてよくなっちゃったけど(笑)」

 最初が大林監督だったので、その後は苦労することも。

「大林監督が優しかったから、こんなに楽しい世界なら食っていけると安心していたら、その後は変なヤツが多くてね(笑)。大林監督は撮影も変幻自在。台本からは想像もつかないような画を撮るので、撮影中は何を撮っているのかわからない。仕上がった映像を見て“エーッ!”ってビックリするような編集でした。お別れの会があるなら、思い出話に花を咲かせて、明るく“監督、見てる?”って言いたいね。最近、俺は映画の製作もしているので、監督と一緒に、ぜひ映画づくりをしたかったですね」

戦時中、母親とあわや心中の記憶

 青春映画を大ヒットさせた大林さんだが、遺作となった『海辺の映画館』は戦争をテーマに選んだ。《あの戦争のいかがわしさを直接知った僕たちの世代が、ものを言わんといかんだろう》と、この作品を世に出すのが自分の責務だと語ってもいた。出演した窪塚が言う。

「大林監督のアイデンティティーはずっとそこなんです。戦時中に父親が軍医で出征、お母さんからは畳の上に短刀を出されて、米兵に殺される前に心中するっていう場面に遭遇する世界で育ってきた人だから、ただの“反戦”ではないんですよね

 ベンガルには、こんな思い出がある。

「『北京的西瓜』は中国での撮影が必要でしたが、ロケ直前に天安門事件が発生。中国政府からは“中国は安全だ”とアピールしに来てほしいと言われていましたが、監督は行きませんでした。北京のシーンはたくさんあったので、普通だったら撮影中止ですよ。その結果できたのが、37秒間の飛行機の音だけのシーン。画面は真っ白。監督は“映画としては失敗だ”と言っていましたが、ニューヨークの試写会ではスタンディングオベーションが起きて、監督も感動していました

 監督に伝えたい言葉もあるという。

「お礼とともに“もう1度、一緒に撮りましょうよ”って言いたい。もう1度、監督の“ヨーイ、スタート!”が聞きたい。大林組の俳優たちは、みんな口をそろえて言ってますよ。“もう1度、撮りたかった”って」

 スタッフを家族と見ていた大林さんを、自分にとっての“親”だと窪塚は言い切る。

「僕もかわいがっていただきましたが、常盤貴子さんは完全に“娘”でしたよ。僕も末っ子ぐらいにしていただけたらうれしいです。僕はありがたいことに、監督の晩年10年間、お世話になりましたが、監督にはその前に70年があったわけで、そこも見てみたくなりますね。出会えただけで、この仕事をしていてよかったと思える人でした」

 監督はかつて言った。

《それぞれの違いを理解し合い、許し合えば、ごほうびとしての『愛』がもらえる》

 来る大林さんのお別れの会は、きっと人々の愛にあふれる時間になるだろう。

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