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難病などで外出困難な人に出会いを、不登校だった研究者が生涯をかける「孤独の解消」

週刊女性PRIME / 2021年10月2日 13時0分

ロボットコミュニケーター吉藤オリィさん 撮影/齋藤周造

 小学5年から中学2年までの3年半、不登校に苦しんだ。「居場所」をなくした少年は母親の言葉に救われ、ロボットに目覚める。科学の世界大会で栄冠に輝いた高校生のとき、高齢者からのSOSの電話で「孤独の解消」に生涯をかけようと決めた。取材中、「出会い」という言葉を何度も口にした研究者が叶えたかった“誰も除外されない世界”とは──。

ロボットが働くカフェ

 東京、日本橋の交差点。角に立つビルの1階におしゃれなカフェがある。

 店の名は「分身ロボットカフェDAWN ver.β(ドーン バージョンベータ)」。木目調の内装、グリーンを多く配置した落ち着いた雰囲気の店内に入ると、大小さまざまなサイズのロボットと数人の店員が一緒に働く不思議な光景が目に飛び込んでくる。

 8つあるテーブル席の卓上には片手で持てそうな白い小さなロボットが設置され、オーダーをとっていた。

「いらっしゃいませ。ご注文は何にいたしますか?」

 丸みを帯びたフォルムのロボットから聞こえるのは、機械的な音声ではなく、人の声。それぞれのロボットを遠隔で操縦する“パイロット”が客との会話を楽しみながら接客を行っている。

「このロボットは、『OriHime(オリヒメ)』と名づけました。初号機ができたのは2010年6月です。人工知能はなく、パイロットが遠隔で操作をしています。病気や障害、子育てや介護など、何らかの理由で外出ができない人たちも、自宅に居ながら、カフェで接客業をすることができる。それは、『出会いと発見』の提供にもつながると考えています

 そう教えてくれたのは、このカフェを運営する株式会社オリィ研究所の共同創設者であり代表取締役CEOでもある吉藤オリィさん(33)。

 パイロットたちはボタン操作で、オリヒメの小さな腕や首を動かしながら、客の話にリアクションしている。母親に連れられてきた幼い女の子は、その様子をじっと見つめ、小さな声でこう言った。

「かわいいね」

 店内をすり足で歩くようにドリンクを運んでいたのは、自走型分身ロボットのオリヒメD。近くを通り過ぎるとき、腕を上げ、「こんにちは。楽しんでいらっしゃいますか?」と声をかけてくれた。時に身動きがとれなくなり、スタッフに救出されるオリヒメDもいたが、客たちはみなその様子をにこやかに見つめている。

「ここは、カフェという名の実験場です。私たちが提供しているのは“世界初の失敗”。そして、お客さんもみんな“見習い研究員”なんですよ。アンケートに答えていただくことで、研究に参加することができます」

 吉藤さんの目的は、ロボットの最新技術を競い、開発することではない。

 このカフェは、私たち誰もが抱える人生の大きな課題、「孤独を解消する」ための実験場であり、研究所なのだ。

 2018年からこれまで、オリィ研究所はオリヒメとオリヒメDを使い、期間限定の分身ロボットカフェを4回にわたって実施してきた。今回は満を持しての常設店オープン。当初10名だったパイロット登録は50名以上になった。

 パイロットには、ALS(筋萎縮性側索硬化症)や脊髄性筋萎縮症、筋ジストロフィーなどの難病、事故による頸椎損傷、心の病により外出が難しい人や、東京から遠く離れた名古屋や広島、秋田などの遠隔地、海外から参加している人もいる。

 コーヒーを淹れるバリスタロボットのパイロット・さえちゃんは、身体表現性障害だという。光や音の刺激や精神的なストレスで吐き気やめまいを催し、外出困難に陥る。

「私は期間限定の第1期から参加していますが、その前は10年ぐらい家の中だけで過ごしていました。話す人も家族かお医者さんくらい。でも、オリヒメを通して世界は一気に広がりました。いろんな人たちと接する機会をいただいて、今はとても楽しい」

 パイロットのゆうさん(49)は、小脳が萎縮していく難病、脊髄小脳変性症で歩行障害がある。2年間、障害者雇用で企業に勤務し、つらい経験をした。分身ロボットカフェのパイロット募集を見て、「これだ!」と応募を決めたという。

「人と接する仕事が大好きだけど、障害者雇用ではやりたい仕事をさせていただくことは難しかった。データ入力しか仕事がない会社もありましたし、いじめもありました。

 実は私、タロット占いができるんです。ここでは、注文をいただいてからお料理が届くまで、お客様と会話をしながら、希望があれば占うこともあって、新しい出会いに毎日ワクワクしています」

 出会いの機会を手にするのは客も同じだ。

 友人のすすめで吉藤さんの書籍を読んでカフェに足を運んだサカイアカネさんは、

「オリィさんの大ファン!」と満面の笑みを浮かべる。

「今日はメルボルンにお住まいのパイロットさんとまったく違和感なくスムーズにお話しできて、とても驚きました」

 女子美術大学のアートデザイン表現学科の教授と講師、4人で訪れたグループは、オリィ研究所が常設店設営のために実施していたクラウドファンディングに支援したと話す。

「写真だけ見ると顔が少し怖いかと思ったけど、目が合うとドキッとするし、手や首の動きで感情が伝わってきます。ロボットの向こうにいる人と心をつないでくれるデザインで、まるでここにいるかのよう。大学でもオリヒメで講義したいくらいです」

有名な問題児から不登校へ

 目を開けると、自分の部屋の天井が見える。吉藤さんは、時間を刻む時計の針の音を聞きながら、何時間もただじっとその天井を見つめていた。

「こうして何もせずに過ごしているだけの自分を必要としてくれる人なんて誰もいない。僕が生きていることは迷惑なんじゃないか」

 小学校5年生から中学校2年生の途中までの3年半。1人で家にいると、時間は永遠に続くように感じられた。

 中学生のころ、夢遊病のようにもなった。夜中、気がつくと村の神社の池の前に立っていたこともある。

「やばい俺、死にたがってる」

 死にたくない。なんとか生きなきゃ。そう思っても身体は重い。将来のことを考える余裕もない。あたりに充満するカエルの鳴き声。月明かりに照らされた田んぼの脇を、ジャージ姿でふらふらと家に帰る。そんなときも、父がそっと後ろからついてきて、声もかけず見守ってくれた。

 幼いころから風邪をよくひいた。胃腸炎や副鼻腔炎、お腹が痛くなることも多かった。学校は嫌いではなかったが、体育も勉強も苦手。休み時間のドッジボールも、制服も嫌だった。

 小学校のころは何も考えず本能のままに動いていた。授業がつまらないとじっと座っていられず、立ち歩くと副担任に手をつかまれる。それを振り払って窓から逃げる。そこからは先生との鬼ごっこやかくれんぼだ。運動場の側溝に隠れたこともある。職員室でも有名な問題児だった。

「吉藤は、ハサミと紙とテープを渡しておけば大丈夫」

 机の上でジオラマを作ってさえいれば、授業中、静かに席に座っていることができた。

「低学年のころは祖父母に教わった折り紙や工作が得意で、それを面白がってくれる友達がいたんです。『ワクワクさん』や『博士くん』と呼ばれて慕われていた時期もありました」

 高学年になるにつれ、一緒に遊んでくれたクラスメートは思春期に入り、どんどん成長していった。教室で折り紙やロボットを作っても誰も興味を持たなくなり、いじめられるようになった。

 素手ではかなわない。武力がないから武器を使ってやり返し、わざと大ごとにした。大ごとにすれば職員会議が開かれ、自分の言い分も聞いてもらえる。父と母はそのたびに頭を下げて回った。

 不登校の大きなきっかけは小学校5年生のとき。原因不明の腹痛の検査入院で、ほんの数日入院したことだった。

「今考えればストレス性の腹痛ですが、当時はストレスによる体調不良を認められる時代ではありませんでした。運の悪いことに、その入院直前、一緒に住んでいた大好きだった祖父ががんで亡くなった。さらに、私が検査入院をしたことで、学校行事で唯一活躍できるお楽しみ会にも参加できなくなってしまった。学校に戻りづらくなったんです」

 両親は、そんな吉藤さんにどう接していいかわからなかった。暮らしていたのは父の地元、奈良の小さな村。父は中学校の教員だった。嫁いできた母は肩身が狭かっただろうと吉藤さんは振り返る。

「担任の先生が家に来て、こたつに隠れている私をパジャマのまま担ぎ出し、車に乗せて学校に連れていかれた時期もありました」

 保健室や職員室に登校していたことも、資料室で折り紙を折っていたこともある。それはそれで居心地がよかった。でも、それを許さない先生に教室に引っ張り出された。教室では、クラスメートに「あれ、なんで吉藤いるの?」と言われた。そこに自分の居場所はなかった。以来、学校に行かない日が増えていく──。

不登校の息子を変えた母の言葉

 中学に入ると、魂が抜けたように天井を眺め続ける吉藤さんを見かね、母が言った。

「いい成績をとってくれとは言わない。学校にも行かなくていい。毎日楽しそうに目を輝かせてくれたら十分だから」

 それ以来、母は吉藤さんに何も言わなくなった。

「父も母も、私を見捨てなかった。過度に関わるわけでもなく、向き合い続けてくれました。好きなことを見つけられるようにといろいろなことをやらせてくれた。それは感謝しています」

 ピアノ、ミニバスケット、絵の教室、どれも長くは続かない。指示されたことはやりたくない。父がボーイスカウトの隊長で、キャンプやバードウォッチング、きのこ採集にもよく行った。でも、鳥もきのこも興味は持てなかった。

 ある夏、10連泊のキャンプに参加すると、ロープワークを褒められた。メンバーに「すごい」と重宝され、小さな居場所を得ることができた。

「工作もロープワークもそうだけど、必要性や機能性を発揮することで私は居場所を確保できた。それは、誰かの役に立つこと。喜んでもらえること。何もないところから人との関係性をつくるのは難しいけど、役割があって居場所を確保することで、関係性が生まれていくんだってわかった。これは、カフェの大きなヒントになっています」

 不登校の時期によく出かけて楽しかった場所は、奈良県の橿原市立かしはら万葉ホールだった。大きな図書館があり、地下にあるこども科学館では、光の三原色の仕組みや音の伝わりを実験できた。

 中1の夏、そこで開催されたロボット大会に母のすすめで参加。迷路をロボットで進み、2回ゴールをしてタイムを競い合う。ところが、2回ともゴールできたのは吉藤さんだけ。結果は優勝だった。

「ほかの人はみんな頭がよさそうだった。頭の中でとことん考えてから作る。私はプログラミングを1行書いては走らせ、失敗してはまたその場で書き直して調整した。自分は勉強もできないし頭も悪いと思っていたから、とにかく、トライ&エラーで試行回数を増やしたんです。これは、今の私にも続く研究スタイル。このときに手応えをつかんだんだと思います」

 翌年、大阪で開催された『ロボフェスタ関西2001』の最終日、「虫型ロボット競技大会グランドチャンピオンシップ」大会では準優勝した。

「頑張ったことは報われると思ったし、それでも1位になれなかった悔しさを味わった。でも、そのことよりも、自分で憧れの対象を見つけることができたことが大きかったと思う」

 展示されていた中でも、ひときわ大きな“一輪車で自走するロボット”がいた。そのロボットを作った久保田憲司先生に興味を持った。

「本田(HONDA)さんが8億円かけて作ったアシモ(ロボット)は1歳児でもできる二足歩行や。俺は工業高校の生徒と一緒に一輪車に乗れるロボットを作った。一輪車乗るほうが歩くより大変やろ。俺らのほうがすごいぞ」

 そう言って笑っていた久保田先生は、奈良県立王寺工業高校の先生だった。

 この工業高校に行こう。吉藤さんに目標ができた。

車いすの研究で世界大会へ

「自分は理由がないと頑張れない。なんで勉強しなきゃいけないのか。なんで制服を着なきゃいけないのか。なんで毎日決まった時間に食事をしなきゃいけないのか。誰も答えてくれない。たまに学校に行ってテストを受けても壊滅的。5教科合計で100点にも満たない。衝動的に飛び降りて楽になりたいと思うから、バルコニーには近づかないようにしてました」

 そんな吉藤さんにとって、久保田先生がいる高校に入ってロボットを作るという目標は、頑張る理由になった。得意ではない勉強にも少しずつ向かえるようになった。

「これまで、人との出会いと憧れが、私の人生を変えてきました。自分を傷つけるのも人だけど、自分が何かをしたいと思ったり、自分とまったく違う価値観や気づきを与えてくれたりするのは、やっぱり人との出会いだった」

 奈良県立王寺工業高校に入学し、久保田先生を師匠としてものづくりに没頭するようになった高校2年生。さらに大きな転機が訪れる。

 自由研究のコンテスト『JSEC2004(高校生科学技術チャレンジ)』に車いすの研究で出場し、特別賞と優勝の同時受賞。さらに、アメリカのアリゾナ州で開催された科学のオリンピックとも呼ばれる世界大会『ISEF(インテル国際学生科学技術フェア)』でも3位に入賞した。

 授賞式後の交流会で折り紙を披露し仲よくなったファイナリストと研究について話をしているときのことだ。

「俺はこの研究をするためにこの世に生をうけた。そして死ぬ瞬間までこの研究を続けるつもりだ」

 目を輝かせてそう話す外国の高校生。そんな学生に、日本で出会ったことはなかった。

「車いすの研究は一生をかけてやりたいことだと思えなかった。でも、彼のように思うことができれば、生きる理由に悩まなくてすむ。自分は一体、何をしたいんだろう。自分が死なないための理由を知りたい。自問自答しながら日本に帰ってきました」

高校生に頼るしかない世の中

「世界は広かったなあ」

 研究に人生を懸けようとしている同年代の存在に触れ、何かが吉藤さんの中で動き始めていた。

 世界3位となって以降、取材が殺到。テレビや新聞で紹介されると、道具や車いすを作ってほしいという相談の電話が王寺工業高校に相次いだ。

「足腰が弱いので家の中で自由に移動できる車いすを作ってほしい」

「娘に頼りたいけど、迷惑なんじゃないかと思って電話もできない」

「大企業に電話しても作ってくれない。高校生なら作ってくれるんじゃないかと思った」

 どの相談からも、高齢者の孤独のつらさが伝わってきた。吉藤さんはその声を聞いて、不登校だったころの自分の苦しさが自分のものだけではないと知ったという。

「それまで、世の中はわりと完璧にできていて、自分は人様に迷惑をかけないようにほそぼそと生きていくしかないと思ってた。そもそも、自分が世の中のために何かできるなんてまったく思っていなかった。だけど、おばあちゃんが高校生に頼るしかない世の中なら、もしかしたら自分にも何かできるかもと考え始めた」

 高齢になれば、あのおばあちゃんのようにまた孤独を感じるかもしれない。そこで1つの問いが明確に浮かんだ。

「孤独ってどうやったら解消できるんだろう」

 17歳のとき、「孤独の解消」に生涯をかけようと決めた。そして、自分の生涯があと何年あるかを考えた。

「体調は相変わらず不安定だったから、30歳までは生きようと設定しました。いつ終わるかわからない持久走よりも、あと1周、あそこの電柱まで、と思ったほうがなんとか走れる。そんな思いで自分の人生の30年計画を立てました」

 その後、30歳までの13年を振り返ってみれば計画どおりにはまったく進んでいない。でも、終わりを決め、死を意識することで、1日1日を悔いなく生きることができた。

「私の友人や後輩には、30歳まで生きられなかった人もいます。でも私は幸い30歳まで生きた。今は、人生40年だと思って、あと7年で何をするかを考えています」

「心の車いす」を作りたい

 高校卒業後、吉藤さんは香川県の国立詫間電波工業高等専門学校(現・香川高専)4年生に編入。人工知能開発の勉強を始めたが、しっくりこない。研究は面白かったが、「話し相手になる人工知能を開発しても、孤独は解消できないのでは?」と疑問が湧いてきた。編入して半年ほどしかたっていないころだ。

 そんなとき、1本の電話で新しい道がひらく。JSECのプロデューサー、渡邊さんからの電話だった。

「JSECの歴代優勝者が早稲田大学のAO入試を受けられる制度ができた。吉藤くん、その制度の第1号にならないか。早稲田向いてると思うよ」

 大学進学など考えたことがないから一度は断ったが、もう一度電話があり、心は決まった。高専を1年足らずで中退して東京へ向かった。

 早稲田大学の面接の後、渡邊さんと『JSEC2006』を見学に行った。その年の優勝者は高校1年生。のちに株式会社オリィ研究所を起業するきっかけを作り、共同創設者となる結城明姫さん(30)だ。授賞式終了後、結城さんの前に吉藤さんが颯爽と現れた。異様な空気を醸し出し、全身黒ずくめの男性がまっすぐに近づいてくる。

「優勝おめでとうございます。JSECのOBで、2年前に車いすの研究をしていた者です。JSEC同窓会という形でOBやOGが集まる場を企画していますので、よかったら入ってくださいね」

 結城さんは女子校育ち。吉藤さんのいでたちのインパクトの強さに驚いた。

「紫色のタートルネックに、初代“黒い白衣”をなびかせて、怪しさ満点でした。JSECは個性の強い人がたくさん集まっていますが、その中でも飛び抜けていましたね。あれは確か冬だったけれど、その後も吉藤は一年中あの“黒い白衣”を着ています(笑)」

「黒い白衣」は吉藤さんのオリジナルデザインで、今やトレードマークとなっている。

 結城さんも優勝後、世界大会に出場予定だった。しかし、世界大会前の強化合宿直前に結核が判明。3か月間、結核専門病院に隔離された。

「日常生活は一変しました。世界大会はもちろん、学校にも行けない。何より家にも帰れない。友人もお見舞いに来られない。本当に孤独な時間でした」(結城さん)

 翌年、結城さんは再びJSECで優勝。JSEC同窓会にも所属し、定例となる屋久島キャンプ運営の主要なメンバーとなっていった。

 2009年、夏の屋久島。海辺のキャンプ場で天体観測をしながら、吉藤さんは結城さんを含む仲間たちに分身ロボットのコンセプトを話した。

「コンセプトは『心の車いす』。病気やけがで身体を運ぶことができない人が、実際にそこにいるような感覚を本人も周りの人も味わえるような、分身ロボットを作りたいんだ」

 それまで、誰にも理解を得られなかったが、結城さんは誰よりも強い関心を示した。

「それ、私が入院中に欲しかった。結核で療養中、分身ロボットがあればできることがたくさんあった。私と同じ思いをしている子どもたちにとっても、いつか私がまた病気になって入院したときも、すごく意味がある。その研究開発、一緒にやっていきたい!」

 見上げると、頭上には今にも降りだしそうな星空が広がっていた。肉眼で天の川がはっきりと見えていた。

 ロボットの名前は、「OriHime」。織姫と彦星が天の川を挟んで会うように、「離れていても会いたい人に会えるように」という願いを込めた。

20年寝たきりの男性と出会って

 吉藤さんが早稲田大学で研究室を立ち上げ研究を進めていた2010年。大学在学中の結城さんは、大学でビジネスプランの講義を受けた後、吉藤さんに電話をかけた。

「オリヒメの研究を持続可能にするには起業したほうがいい。吉藤さん、30歳で死ぬんでしょ? 自分が死んだ後も維持されていく仕組みを作るには、会社にしなきゃダメ」

 それ以来、ビジネスコンテストに応募するようになり、いくつもの賞を受賞した。

「ビジコンで賞金や栄光は手にしましたが、それらはいっときのもので、お金は使えばなくなるし、栄光は時間とともに消えます。でも、いい出会いは、後の人生をずっと豊かにしてくれる」

 オリヒメ第1号ユーザーとなる株式会社リバネスの丸幸弘社長も、支援してくれた東京都職員も、総合病院の小児科でのテスト使用の実現も、コンテストで得た新たな出会いからつながった。

 屋久島キャンプから3年。2012年9月、コンテストで集めた資金をもとに起業。研究にはお金がかかる。1年半は平均月6万円ほどの給料でみんな働いた。このままでは食べていけないと思いかけたとき、『みんなの夢アワード』という大会で優勝した。

「武道館で8000人を前にプレゼンし、優勝したことで2000万円の融資が受けられました。そしてその大会をきっかけに、のちに親友となる番田雄太からメッセージが届いたんです」

 番田さんは、4歳で交通事故に遭い、寝たきりになった。あごを使ってパソコンを操作してメールを送ってきた。

「夢を共有させてください。もし夢が同じならば、力を合わせたいです」

 吉藤さんは、彼の熱烈でパッションあふれるメッセージに惹かれ会いに行った。

 番田さんはこう言った。

「俺は4歳からどこにも行けていない。オリヒメがあっても行きたい場所もなければ会いたい人もいない。オリヒメには足りないところがたくさんあると思う。私を仲間に入れてほしい」

 それまで吉藤さんは、「行きたいところに行けない人」について考えてきたが、番田さんは「行きたい場所や会いたい人を想像することすらできない」状況で20年を過ごしていた。そんな人たちがどうすれば自分の居場所を獲得できるのかを考えれば、高齢者や障害者、外出困難な人たちすべてが出会いや居場所を手にし、友達をつくることができるのではないか。

 オリヒメに腕が必要だと提案したのも番田さんだった。

「番田は交通事故以来、自分の腕を動かせませんでした。『腕がないと人間じゃなくなっちゃうんだ』と言いました。腕をつけて動かしてみると、コミュニケーションは円滑になり、周囲を和ませる力がオリヒメに宿ったんです。番田を講演パートナー兼秘書として2人で全国を飛び回り、1年後には契約社員として給料を払えるようになりました」

外出困難な人に「出会い」を

 その後もたくさんの仲間が吉藤さんのもとに集まり、企業との連携や投資も増えた。

 ALSの患者でもあり、一般社団法人WITH ALS代表理事である武藤将胤さん(35)も大切な仲間の1人だ。2016年に出会って意気投合。ALSなどの患者がたとえ気管切開をして声を失っても自分の声でコミュニケーションを続けられる技術を、オリィ研究所、東芝デジタルソリューションズ(現コエステーション)、WITH ALSの3社共同で開発してきた。

「分身ロボットオリヒメを活用して講演やイベントなどの活動をしてきましたが、最もその人の自分らしさが出るのは、「声」だと思うのです。

 僕は2019年にALSの進行によって肺炎で繰り返し入院し、翌年1月に喉頭気管分離手術を行ったことで完全に自身の声を失いました。そんなとき、真っ先に彼が僕の近況や思いをSNSで代弁してくれた。人の痛みに寄り添って、当事者の状況を自分事にできるのが、彼のすごさです。僕が彼を信頼しているいちばんの理由でもあります」

 武藤さんは今、ラジオ番組やイベントなどでも、この共同開発したシステムを使って、自分の声で活動している。

 2017年9月、吉藤さんの親友でありパートナーでもあった番田さんは28歳で亡くなった。これまでに出会い、話を聞かせてくれた患者さんたちが何人も亡くなっていった。

「『このままでは無駄に死んでしまう。こんな身体だからこそ、生きた証を残したい』と番田は言っていました。番田は出会ったとき、すでに呼吸器をつけていました。ALSの患者も呼吸器をつけるかどうかを選ばなくてはならない。日本で呼吸器をつけることを選ぶ人はたった3割です。死なない理由を見つけた人しか生きることを選べない。それは私が、死なない理由を探していたことと重なります」

 家族や友人から「ただ生きてくれていれば」と言われるだけでなく、自分の「役割」を得て、誰かに必要とされていることが自覚できることで生きる意味は大きく変わる。「偶発的な出会い」を生み出す「仕事」をテレワークで実現することは、その一歩となる。だからこそ、オリヒメが働く場として分身ロボットカフェを実現したかった。

 最初から秘書として働いたり、講演をしたりできる番田さんのような人はそう多くない。高校生にもできる仕事から始めて経験を重ね、そこでの出会いや自分のよさを生かして、より専門的で知的な仕事に変わっていく。すべての人がそんなプロセスを手に入れられるように吉藤さんたちは日々研究を重ねる。

「家から出られない人も、どんどん人と出会える仕事をつくりたかったのです。役割だけでなく、人との出会いや関係性を生み出すことのできる仕事、その1つが分身ロボットカフェでした。私たちは、外出できなくなったとしても、生きがいや役割を見つけ、死ぬ瞬間まで誰かに必要とされながら人生を謳歌することができるか。そこへの挑戦です」

 番田さんは生前こんな言葉を残していた。

「外に出ることのできないつらさは、出会いと発見がないこと」

 今、コロナ禍で人との距離を保つ必要が生まれた世の中で、その思いを世界中が感じ始めている。オリィ研究所の挑戦はすべての人に共通の希望となった。病気やけが、障害や高齢化は他人事ではない。私たちの日常と地続きだったことを改めて思い知らされる。

「分身ロボットカフェDAWN ver.β(ドーン バージョンベータ)」の「DAWN」の意味は「夜明け」。分身ロボットカフェで自信をつけたパイロットたちは、スカウトを受け、ほかの企業へ転職もできる。

 神奈川県庁や東京都港区役所、モスバーガーの実店舗での設置、自治体や企業などオリヒメの活躍の場は広がっている。入院中で学校に行けない子どもたちが家族や友人と過ごし、遠隔で授業を受ける運用実績も増えている。

 パラリンピックで来日したフランスの障害者担当副大臣もカフェに視察に来て絶賛した。世界への発信は目前だ。

 新しい社会の夜明けは、もう始まっている。

(取材・文/太田美由紀)

おおた・みゆき 大阪府生まれ。フリーライター、編集者。育児、教育、福祉、医療など「生きる」を軸に多数の雑誌、書籍に関わる。2017年保育士免許取得。Web版フォーブスジャパンにて教育コラム連載中。著書『新しい時代の共生のカタチ 地域の寄り合い所 また明日』(風鳴舎)

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