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「今、苦しんでる子を救いたい」ゲイをカミングアウトした作家、虐待サバイバーの壮絶半生

週刊女性PRIME / 2024年6月22日 16時0分

作家・歌川たいじさん(58)

「三途の川まで行った感じがあったけど、ICUのナースがめっちゃイケメンで。“死んでる場合じゃない!”って」

 そう言って大笑いするのは、漫画や小説などの執筆業で多くのファンを持つ歌川たいじさん(58)。ゲイであることをカミングアウトし、40代で漫画家デビュー。パートナーとの日々をコミカルに描くブログ『♂♂ゲイです、ほぼ夫婦です』は1日10万アクセスを記録し、絶賛更新中だ。

作家・歌川たいじさんを襲った大病

 そんな彼を昨年、大動脈解離という大病が襲った。日曜の夜、自宅で作業していると突然、胸のあたりで“プチン”、それに続いて“ジョワン”という音がしたという。

「これはヤバいってすぐ気づいたので、激痛のなかで自分で救急車を呼んだんです」

 そのときトイレに入っていた、同居しているパートナーのツレちゃんが振り返る。「助けて」と呼ぶ声が聞こえて出ていくと、胸を押さえて床に転がっている歌川さんがいたという。

「保険証とか、必要なものを手に持って“救急車はもう呼んだから”って言って。でも、これ言うとみんな笑うんですけど、若い男性の救急隊の方が来たら、それまですごく痛そうだったのに、品定めするような目でしばらく見てました(笑)」(ツレちゃん)

 そして病院に到着するも、そこでは手術ができず、近辺の病院も軒並みNG。発症後すぐに危険な状態となり、1時間たつごとに10%ずつ致死率が上がるといわれている病気だけに、歌川さんも“もうダメかもしれない”と思ったという。

「でもそうなると、意外と腹が据わっちゃうものなのよ。で、“ああ、PCだけは小渕優子みたいにドリルで消しておきたかったけど、それはもう無理なのか”とか考えてました」(歌川さん)

 なんとか病院が見つかり、7時間に及ぶ大手術の末、無事生還。冒頭の言葉のように、麻酔からさめてイケメンナースとご対面、となった。

 こんな生死に関わる体験でも、カラッと明るい。周りの人すべてを笑顔にするその姿は、究極の陽キャに見える。だが実は、幼少~少年期に壮絶な虐待を受けた、虐待サバイバー。その体験を綴った、'13年発表のコミックエッセイ『母さんがどんなに僕を嫌いでも』は大きな反響を呼び、'18年には仲野太賀主演で映画化もされた。老若男女、セクシュアリティーを問わず多くの人々から支持される歌川さんが、現在、力を注いでいるのは講演。“逆境力”をテーマに、全国で自身の体験と、そこから得た知見などを語っている。

「いろんなことがあるから、凹むのはしょうがない。じゃあどうやって元に戻って、より強い自分になるか。そんな話をさせていただいてます。若者の聴講者の中には、今、実際に虐待やいじめを受けている子もいて。みんな、真剣に聞いてくれるんです。“南の島でもどこでもとにかく逃げて”みたいな無責任なことを言う大人もいるけど、私、頭にきちゃうんですよ。

 子どもが南の島なんか行けるか、って。逃げる場所は大人がつくらなきゃダメ。子どもができることは、『子供SOSダイヤル』とかに電話して大人につなげることくらいよ。大人じゃなきゃ解決できませんから。中学生なんか、まだ無力。でもあと4年たったら親から逃げられるから、とにかく生きなさい、という話をしたりしています

 時には、子どもの虐待について学びたいと、中学生が訪ねてくることもある。そのときも、「絶対断らないで熱を込めて語る」という歌川さん。それは、今も脳内に“あの日の母”がいるからこそ、と。現在、58歳の彼は、どのようにして過酷な日々を乗り越え、強さと幸せをつかんだのか。

家族というものが「原風景にない」幼少期

 1966年、東京都墨田区で町工場を営む父と母、3歳上の姉の4人家族の長男として生まれた歌川さん。今では東京スカイツリーがそびえ立つ観光スポットとなったが、当時はコンビニもファミレスもない、木造の家や小さな町工場が立ち並ぶだけの下町だった。住んでいたのは、工場の2階。20人ほどいた工場の従業員たちに可愛がられて育ったという。だからだろうか、いちばん古い記憶として浮かぶ情景も工場の人たちとの時間。

「3歳か4歳くらいかな。2階の家に工場の人たちが上がってきて、ぐずって泣いている僕を抱っこしてみんなであやしてくれている。人生の最初の記憶は、そんな感じですね」(歌川さん)

 だが、家族での楽しかった記憶はほとんどない。子どもの世話をまったくしない父と、町でも評判のカリスマ美人で、女優の丘みつ子に似ているといわれていた母。親戚と遊びに行ったり、母と(今振り返れば)不倫相手が遊園地に連れて行ってくれたなどの記憶はあるが、「家族そろってというものが原風景にない」という。

 虐待の最初の記憶は、火のついたタバコを手の甲に押しつけられたこと。今でも左手の甲に痕が残っている。

「5歳か6歳だったと思います。母の前に正座させられて、手を出しなさいと言われて、そこにジュッとタバコをつけられて。そのあと、1階の工場の柱に縛りつけられたんです。木のパレットがたくさん積んであったので木の匂いがすごくしたこととか、工場内の暗い感じを覚えてますね」

 これだけでも非常に衝撃的だが、歌川さんは「小さかったころは、まだ手加減があったのかな」と、サラリと語る。

「僕が11歳くらいになると身長が170cmほどになっていたので、もう手加減がいっさいなかった。刺身包丁で切りつけられそうになったことがあって、右腕でかばったので、その傷痕も残ってます。さすがにね、“殺そうとしたんだな”という感じはありました」

 さらに、小学校ではひどいいじめも受けた。太っていた歌川少年に、クラスメートたちは「デブ」「ブタ」などの言葉を浴びせ、殴る蹴るなどの暴力も振るったのだ。担任も「食べてばかりいるからでしょ」と言って助けることもせず、虐待の傷も見て見ぬふり。いじめ防止対策推進法や児童虐待防止法ができるのは、歌川さんが大人になってからのことだった。

たった1人の味方“ばあちゃん”の存在

 学校にも自宅にも居場所がない日々。そんな中でも生きられたのは、“ばあちゃん”のおかげだった。ばあちゃんとは、歌川さんが生まれる前から工場で働いていた年配の女性。

 母の虐待に気づき、「ばあちゃんが工場にいる間は、ばあちゃんのそばにいなさい」と守ってくれたり、歌川さんが描いた絵やお話を絵本のように綴じて「すごく上手だよ」とほめてくれたという。太っていることをクラスメートや担任に揶揄され傷ついた日に、「お砂糖をちょっとだけにしといたから太らないよ」と、蒸しパンを作ってくれたことも。血はつながっていないが、本当の孫のように可愛がり、愛情を注いでくれた。

「当時、僕がなよなよしているから、“オトコ女”って言われていじめられてたんです。先生からも“空手でも習え”“そんな話し方だからいじめられるんだ、男らしくしろ”と言われてた。だけど、ばあちゃんだけは、“ばあちゃんだって男みたいだよ”と言ってくれて。今でこそジェンダーフリーとか、そういうことが当たり前になってきたけど、ばあちゃんはその、はるか前からそういう考え方でした。男だからって外で遊ぶのが当然じゃないし、乱暴にしなきゃいけないわけじゃないんだよ、って」(歌川さん)

 その言葉は、歌川少年にとって大きな支えとなっただろう。だが、別れがやってきてしまう。11歳のとき、両親が離婚。歌川さんは姉とともに母に連れられ工場を去ることになる。家を出ていく日、ばあちゃんは「たいちゃんには、ばあちゃんがいるんだからね」と目を真っ赤にして言ってくれたが、再会までには長い道のりが続くこととなる。

いじめ、虐待、退学、家出先にある希望ー

 引っ越した先で、母は飲食店を始める。母の美貌が男性客を引きつけ、店は繁盛。だが虐待は続き、男性関係で不安定になったり荒んだりすると、言葉や暴力で歌川さんを傷つけていた。また、中学、高校でも続くいじめ。17歳のある日、ついにキレてしまった歌川さんは校内で暴れ、警察沙汰になってしまう。学校から自主退学を迫られ、高校を中退。その数日後、家出を決行する─。

「母の店を手伝っていたんですけど、不景気で、その日はお客さんが全然来なくて。母に“あんたのせいだ”と言われて、“冗談じゃないよ、こんなに一生懸命手伝ってるのに”って返したら逆上されて、ぶつかり合ってしまったんです。分が悪くなった母が出ていったので、その間に荷物をまとめてレジから“給料分です”と思いながらお金を取って、家を出ちゃいました」

 いつかは出ると思ってはいたが、こんな形は想定していなかった、突発的な家出。準備も何もしていない状態だったが、アルバイト誌を買って、まずは仕事探し。これまで家庭や学校で否定され続けてきたため、「“こんなブタを雇ってくれるところなんかあるのか”と、全部自信がなかったけれど、食肉市場の募集記事を見て、ここはいけるんじゃないかと」。

 年齢を偽り、なんとか潜り込んだ初めての職場。周りは集団就職で東京に出てきた人たちで、みんなが歌川さんを可愛がってくれた。当初、寝泊まりしていたのはサウナや新宿2丁目界隈の発展場。それまで、ゲイだからどこにも居場所がないと思っていたが、2丁目に巡り合い、居場所があると初めて思えたという。

「その当時、お風呂屋さんに行くと、胸があって下はついている人とかが男湯に来ていて。でも誰も気にしないんです。どんな事情がある人でも、新宿には居場所がある。そんな空気がすごく好きで、今でも新宿に住んでるんですよ」

ばあちゃんの消息

 しばらくすると、田舎に帰る食肉市場の同僚が、住んでいた家を貸してくれることに。生まれて初めて持った自分の城は、6畳の風呂なしアパートだった。

 そんな中、父の工場で働いていた人に偶然会い、ばあちゃんの消息を知る。73歳になったばあちゃんは、末期の膵臓がんで入院していた─。

「お見舞いに行ったら、骨と皮だけになっていて。でも“たいちゃん”と言ってくれたんです。この呼びかける声は、もうばあちゃんでしかない。で、泣いてはいけないと思ったんだけど……」

 そう言って、涙ぐむ歌川さん。今でも思い出すと泣いてしまうという。

 病院では、なんとかばあちゃんを笑わせようと、「ブタが食肉市場に勤めててさ」「全体的に人生がブタだから」と、自虐ネタを繰り返すが、ばあちゃんはまったく笑わない。そして幼いころに歌川さんが描いていた絵本のことを、「たいちゃんの描く物語は悪者をやっつけるんじゃなくて、最後は悪者と仲良くなってみんなが幸せになる。そういうお話をたくさん描いてたでしょ。ブタはそんなの描けないでしょ」と優しく語りかけてくれた。

「それでね、“僕はブタじゃない、って言って”って。ばあちゃんが僕に頼んだんです。でも最初、言えなくて。たったの9音、言いたくて喉まで出てきてるのに。“自分はブタだ”って完全に洗脳されていたから、ブタじゃなくなったら世界が崩壊しちゃう。どう生きていったらいいかわからないんです。それでも、時間がかかったけど、なんとか絞り出すようにこの9音を言ったら、ビッグバンが起こったみたいな感覚で」

 自分の人生は、“僕はブタじゃない”と口にする以前と以後に分けられる、と歌川さんは言う。自分だって将来を選んでいい、友達をつくっていい。そう思えるようになったのだ。彼にとって、ばあちゃんはまさに恩人。

「それから1か月くらいで亡くなってしまったので、何も恩返しができなかったんです。その分、今度は私がばあちゃんになって子どもたちに声を届けたい、力になりたいと思って、本を書いたり講演をやったりしているんですけど。でも73歳って、やっぱりちょっと早いですよね……」

初めてできた仲間は宝のコトバをくれた

 ばあちゃんによるビッグバン後、まず手をつけたのは勉強。通信教育の学校に入り、通学しなくてはいけない日数が多かったため、食肉市場を辞め、給料の高い荷役のバイトを始めた。

「食肉市場の仕事はけっこうラクだったけど、こっちはキツかった。船の中にある冷凍庫から1個20キロくらいあるイカのブロックを出して、外にあるパレットに積んでいくんです。冷凍庫の中はマイナス20度くらいで、真夏だと外は35度くらいあって。しかもどんどん積んでいくから、ぐずぐずしてると指が砕かれちゃう。ただ、いじめや虐待の経験に比べれば、屁でもないですけど(笑)」

 さて、ビッグバン後の次なるミッションは友達づくり。しかし、「虐待やいじめのトラウマをこじらせた自分が友達をつくることは、そうではない人が思うより100倍ハードルが高かった」と歌川さんは語る。

「要は、嫌なヤツになっちゃってたんです。目の前で起こるひどいことを目いっぱいインプットしているから、アウトプットが変わってしまう。また日常的に暴力を振るわれるので、それを避けるために常に身を守ろうとして、嘘をつくクセがついていた。あと、自分のことをかわいそうと思いながら生きてはいけないから、この世からかわいそうと思うものがなくなってしまう。

 例えば猫がいじめられていても“何がかわいそうなの?”と言ってしまったり。自分がブタとかデブとずっと言われてきたから、欠点を言うのがコミュニケーションだと勘違いして、いきなり相手の欠点をいじっちゃったり。20代いっぱいは本当にトライ&エラーのエラーばっかりでした

生涯の友との出会い

 そんなエラー続きの日々だったが、生涯の友との出会いが訪れる。漫画や映画にも登場する毒舌の友人・キミツ、そして歌川さんに仲間としての温もりを教えてくれたかなちゃん&大将夫婦だ。

 キミツこと清水利泰さん(60)との出会いは、『チャリティ学生ミュージカル』。同じ年頃の友達ができるかも、と受けたオーディションに合格し、そこでひときわ人気者だったのが清水さんだった。

「僕が20歳で、うたちゃんが19歳でした。彼はトゥーマッチというか(笑)、迫力があるので、どんな人か興味はあったけど、最初はちょっと遠巻きに見ていたんです。でもお互いそう思っていたのか、次第に打ち解けて」

 と、当時を振り返る清水さん。歌川さんも、

「キミツはお金持ちの家で育ったから、資産家ゆえの一族のゴタゴタというか、大人の世界をいっぱい見ちゃった子どもだったのね。だから“あんた、カタギじゃないでしょ”“おまえこそ”って、意思の疎通ができた」

 と、懐かしそうに語る。

 だが清水さんは「漫画に描かれているほど辛口じゃないですよ。毒舌なのは、うたちゃんの前だけ、のはず」と苦笑する。

 そんな清水さんに言われたことで、今でも思い出す言葉がある。チャリティ学生ミュージカルで、自身のそれまでの経験が足かせになり、どうしてもうまく歌えないときのこと。

「虐待やいじめの経験って、めったに人に話せない。“おまえも悪かったんじゃないの?”なんて言われたら、もう二度と心を開けなくなっちゃうので。でもキミツなら、と思って、話したんですよね。そうしたら、“親を憎んだり、いつか復讐してやると思っているのが、本当のうたちゃんとは思えない。もっと奥に、本当の本当のうたちゃんがいるんじゃない?”って」

 ばあちゃんを喜ばせたくて絵本を描いていたときの気持ち。母がネグレクトしたときに交代でごはんを食べさせてくれたりお風呂に入れてくれた工場の人たち。つらいことばかりじゃない、そんな楽しい思い出も確かにあったのだ。

「それまでは、恨んでいる自分が本当の自分だったけど、もっと奥がある。それは人間の本質であり素晴らしいものだ、って気づいたんです。大きな転換点でしたね」

リクルートのトップ営業マンへ

 時はバブルの平成元年。歌川さんはアルバイトとして入社したリクルートのトップ営業マンとなっていた。このとき、一つの大切な出会いがあった。先に紹介したかなちゃん・大将夫婦だ。かなちゃんは歌川さんの同僚女性、その彼氏が、歌川さんが大将と呼び慕う青木利人さん(55)だ。

 青木さんは歌川さんと出会った日のことを今でも鮮明に覚えているという。

「妻(当時は彼女)と地元を歩いていたら、うたちゃんとばったり会って。これから友達のところに行くというから2人でついて行ったら、その友達がキミツで、4人で一緒に飲んだんです。そのあとうちに来て、泊まることになって」(青木さん)

 そこから、バーベキューや海、スキーや横浜中華街など、毎週のように4人で遊ぶ日々が始まった。「私に青春というものがあるとしたら、この3人のおかげ」と、歌川さんは述懐する。

 青春の日々の中、青木さんやかなちゃんからも、歌川さんは大切な言葉をもらった。

「僕はどうしても自己評価が低いので、“自分のことが本当に嫌だ”って大将に言ったことがあって。そしたら、“うたちゃんって、なんでそんなに自分が嫌いなの? 俺、うたちゃん大好きだけどなー”と言ってくれた。かなちゃんも“うたちゃん、うちの子になりなよ”って。2人はすごくシンプルで素朴な言葉で、壁をぶち壊してくれましたね。なので今、2人の子になってます(笑)」

“ほぼ夫婦”として25年、共に暮らすパートナー

 歌川さんには最愛のパートナー、ツレちゃんがいる。同居を始めてから今年の11月で25周年、銀婚式を迎える“ほぼ夫婦”だ。歌川さんが当時所属していたダンスサークルに、ツレちゃんが入ってきて知り合った。

「新メンバー募集の告知に私の写真を載せていて、ツレちゃんはそれにつられたから、私のことがタイプだった。でもツレちゃんは“好き避け”をやっていて、1年くらいただのメンバー同士だったんです」

 と歌川さんは語るが、当のツレちゃんは真っ向否定。

「うたちゃん目当てじゃないですよー。ダンスがやりたくて入っただけ。でも一緒に活動していくうちに、人となりを知って好きになったんです。うたちゃんは面倒なことでも自分が損しても、みんなのために動いてくれる人。今でもずっと変わらないですね」(ツレちゃん)

 出会いから1年ほどたったころ、サークルで歌川さんの家に集まったときにツレちゃんが歌川さんに告白した。

「みんながボチボチ帰り始めても、ツレちゃんは帰らなくて。最後に1人だけ残ったときに告白されたんです。当時、私は手痛い失恋から立ち直ってなかったんだけど、すごく真っすぐガーッと告ってくるから、数日考えて、じゃあ付き合いますか、と。そしたらうちに来たまま帰らないんですよ。ずっと帰らなくて、2週間目に“親と会って”と言われて。早くない!?と思ったんだけど、“お世話になってるから挨拶したいって言ってる”って。で、行ったら“よろしくお願いします!!”と頭を下げられました(笑)」

 そこから現在に至るまでには、ツレちゃんがハードワークでうつ病になったり、リーマン・ショックで歌川さんがリストラされたり、さまざまなことがあった。そんな困難を一緒に乗り越えてきた2人。歌川さんが失業して漫画ブログを始めたときのことをツレちゃんは振り返る。

「やりたい夢があるなら、やればいいんじゃない?って。もしお金がなくなったら、自分が出せばいいと思ったし」

 漫画では、自由奔放で天然なツレちゃんとして面白おかしく描かれているが、実際は大きな愛と優しさで歌川さんを包んでいる。

「うたちゃんの魅力は、もう全部としか言いようがなくて。出会ったころのような熱烈なラブラブではないかもしれないけど、幸せにしたいし、別れるなんてことを想像したらすごく悲しくなってしまう。この間、友達がアプリでうたちゃんの写真をおじいちゃんに加工していたんです。それを見てたら、うたちゃんがおじいちゃんになってお金がなかったり困ってたらかわいそう、そんなことさせられないって、すごく思って。もしかしたら前世で私がお母さん、うたちゃんが子どもだったのかな、とか思ったりするんですよね」(ツレちゃん)

 25年の長きにわたり夫婦同然の生活を続けられた秘訣を、歌川さんは「だって猫とか捨てられないでしょ」と、冗談めかしてはぐらかす。だがそれは、きっと愛情の裏返し。法制化されたら、戸籍上でもツレちゃんと夫婦になりたいと考えているのだから。

「僕が先に逝くんだとしたら、作品の知的所有権とか貯金とか、ツレちゃんのものになってほしいですもん。あと生命保険もいまだにハードルが高いんです。ツレちゃんが僕を受取人にするとき、担当の人がすごく頑張って会社に掛け合ってくれて。長い間待たされたけど、やっと“できました!”って、泣きそうな感じで連絡をくれてね。で、“お相手の方にもご挨拶したいです”って。そのくらい珍しいんですよ、まだ。それにツレちゃんのお母さんのお葬式のときも、ご親族からやっぱり“帰ってちょうだい”って言われちゃったしね。本人たちは悲しくて何もできないからサポートしていただけなのに。結婚できないってこういうことだなって思った。だから同性婚って絶対意味があるんですよ」

恩讐の彼方に母とのけじめ

 ところで17歳で家出して以来、音信不通だった母との関係はどうなったのだろうか。話は、ツレちゃんと出会う前にさかのぼる。ちょうど小室哲哉サウンドが流行っていた
'90年代半ばのことだ。

「よく毒親本の帯に、“逃げていい”“捨てていい”って書いてあるでしょ。もちろんそれは正解なんです。私だって、逃げたからこそ生きてこられたわけだから。ただ、この地球上のどこかに実際にいる親からは逃げられても、親はこの頭の中にもいる。その親が脳内で“おまえにはできない”とか“おまえはこういう人間だ”って、ずっと言ってくるんです。だから逃げるだけでは不十分。それを克服するためには、いろんな方法があると思うんですが、私の場合はもう向き合うしかないと決心して」

 家族というものの価値がわからなかった歌川さん。だが、清水さんや青木さんカップルから、価値があるものだということを学んだ。だとしたら、自分もそれをつくり出してみたい─。そんな気持ちが歌川さんを突き動かした。

 「お母さんがかわいそうとか、そういう気持ちからではないんです。自分のために乗り越えてみせる、って。“自分がゲイということは変えられないから、それだけは認めてください。ほかは何ひとつ逆らいませんから”というスタンスで、もう行(ぎょう)のような感覚でやってました。でも2年間、それはそれは大変でしたね」

 約10年ぶりに会った母はうつ病や高血圧、またアルコールの摂取量も多くなっていた。不動産ブローカーの仕事をしていたので、時には「伊東の別荘の鍵をかけ忘れたからかけてきて」と言われ、片道3時間かけて到着すると鍵はかかっていた、ということも。生活面や健康管理、仕事のフォローなど、母のために粛々と動く歌川さんには、ひとつの確信があった。

「家族でも会社でも、その集団の中でいちばんパワーを出している人が、いちばん力を握るんです。だから、最終的には絶対に私が力を握る、と。そして、そのとおりになりました。“お酒飲んでもいい?”とか、何でも私に聞くようになったんです」

 そして、ついには「たいじがいてよかった」「たいじから教わることがいっぱいある」と言うまでになる。また、周りの人に息子のことを自慢するようにもなったのだ。そのとき、“勝利したな”と、歌川さんは感じたという。だが、その後しばらくして、母は事故で他界した。

「家族というものを築いた、といえるほどの時間を得るところまでは、いけなかったけれど、自分の中で解決した部分がすごく大きかったです。加害した側から“私が悪かった”とか“あなたがいてくれてよかった”と言われることは、すごく大きな意味があるって、わかりました。もちろん、やられてきたことはたぶん一生消えないですよ。でも“おまえはこうだから”っていう声が起動する回数は減るし、別のものに変わっていくんです」

 そして変わった結果が、執筆や講演などの活動につながっている。脳内に“あの日の母”がいるからこそ、自分と同じように虐待やいじめにあっている/あってきた子に対して、してあげられることがあるなら何でもしてあげたい。人ごとではなく、自分のことのように感じるのだ。親指と人さし指でマルをつくって頭に当て、「だから、これはアンインストールしません」とニコッと笑う歌川さんの顔には、乗り越えた者の強さがしっかりと刻まれていた。

今、苦しんでいる子どもたちに

 さて現在の歌川さんは、大動脈解離で九死に一生を得てから、ますます精力的に活動中だ。

 手術後の回復の早さにびっくりしたと語るのは清水さん。

「大手術で心配だったんですけど、その後お見舞いに行ったら普通に歩けてるから、やっぱり彼のトゥーマッチなところは生命力にもつながってるのかなと驚きました。そして、やっぱりまだまだ彼には使命があるんだなと。彼と知り合っていなかったら人生で笑った量が1割少なかったと思いますね」(清水さん)

 また、2年前に医療・介護施設のリノベーションなどを手がける『ヒーリング・デザイン』という会社を起こした青木さんは、歌川さんに仕事を手伝ってもらっている。

「うたちゃんはウェブ制作や動画などのスキルがすごいんです。会社のホームページも彼が作ってくれたし、僕にないものを持っている。彼がいないと成り立たないくらい、なくてはならない存在です」(青木さん)

 そして、とっておきの話を青木さんが教えてくれた。歌川さん、ツレちゃん、清水さん、そして娘さん2人を含む青木さん一家のグループLINEがあり、そのグループ名は“家族”。

「僕にとって、うたちゃんは本当に家族なんです」(青木さん)

「血のつながりもないし、会社の同僚でもない。友達やパートナーのつながりって、気持ちだけじゃないですか。だからこそ、時間の長さには意味があると思う。いろいろあったけど、自分はかけがえのないものをもらえたと感じるんです」

 と語る歌川さん。母や自分をいじめたクラスメート、黙認していた教師に対する今の気持ちを聞くと、「昔のこと、としか思わないよね」との返事が。

「虐待は絶対に許してはいけないことだけど、母個人のことはもう別にね。クラスメートや教師も、たとえ今、謝りにこられても面倒くさいとしか思わないな。それくらい年をとった。でも、今、生きている子どもたちが同じ目にあったら、私は怒り狂います。きっと当時の自分の怒りも相まって。だから、怒りは自分のためじゃなく、社会のものになりました」

 “人が好き”という歌川さん。最後にその源泉を尋ねると、

「持って生まれたものとしか言えないなあ。動物が好きな人、機械が好きな人、みんなそれぞれ好きなものがあるじゃない。私は人とコミュニケーションをとるのが楽しいから。あと、動物も好きだけど、やっぱりどうしても男の子のほうが好きだわ(笑)」

 強く、愛情深く、そしてサイコーにキュート。ポジティブパワー全開で日々を生きる歌川さんは、今日も元気に周囲を明るく照らしている。

<取材・文/今井ひとみ>

いまい・ひとみ ライター。エンタメ誌編集部、『週刊女性』編集部を経てフリーに。多くの著名人の取材、人物ルポをこなす。

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