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「あ、今亡くなったんだ…と」長野智子、延命治療を拒んだ母の介護と在宅での看取り

週刊女性PRIME / 2024年6月22日 21時0分

長野智子さん

 23歳でフジテレビに入社し、今もなお第一線で活躍し続ける長野智子さん。57歳でメインキャスターの降板、私生活では身内を次々と見送るなどアラフィフからアラ還にかけて、激動の日々を過ごしたという―。

ずぶ濡れのまま3時半からの朝の番組の会議に行くことも

 長年ニュースキャスターを務め、“テレビ朝日の報道の顔”として活躍してきた長野智子さん(61)。知的で落ち着いた印象が強いが、実はバラエティー畑の出身だ。

 1985年、「楽しくなければテレビじゃない」のスローガンを掲げていた黄金期のフジテレビにアナウンサーとして入社。『笑っていいとも!』など数々の伝説的番組を手がけた名プロデューサーの横澤彪さんの指名で、新人ながら『オレたちひょうきん族』の3代目ひょうきんアナに抜擢され、人気を集めた。

ニュースを読むだけでなく、女子アナにタレント性が求められ始めた時代で、私も芸人さんと同じようなことをやらされていました(笑)」(長野さん、以下同)

 事件現場の最前線から情報を届けたいと報道を志望していたが、毎週25%の視聴率をたたき出す『ひょうきん族』の一員として、必死に頑張っていたという。

報道をやりたい気持ちはありつつ、20代の私にとってはスタッフの方々が私を指名してくださったことが光栄で、その期待に応えたい気持ちが強かったんです

 当時は寝る暇もない忙しさだった。

月~金曜は朝の情報番組のキャスターをやっていた上に、水曜に『ひょうきん族』の収録があり、他にもドラマ出演や特番の司会の仕事があったりと、家に帰れない日が多かった。『ひょうきん族』の収録で、夜中の3時に罰ゲームで水をかぶって、ずぶ濡れのまま3時半からの朝の番組の会議に行くという生活を続けていました。今ならコンプライアンス的に絶対ダメな働き方ですね(笑)

 無我夢中で働いていたが、27歳で結婚と同時にフジテレビの退職を決意。自分のペースで働けるフリーアナウンサーの道を選んだ。『ひょうきん族』の活躍を評価されてバラエティーの司会を数多く任されたが、30歳を過ぎたころ壁にぶつかった。

バラエティーで結果を出そうと頑張るけれど、人生をかけて笑いにぶつかっている芸人さんと同じレベルでは挑めず、失敗した時には“本当にやりたいのは報道だから結果を残せなくても仕方ない”と逃げていました。かといって、報道の仕事をするための努力は何もしていない自分が嫌になってきて

 求められることとやりたいことの間で葛藤していた時に、夫の5年間のアメリカ転勤が決まる。

これが報道に向き合う最後のチャンスだと、私もジャーナリズムの本場であるアメリカに行って、大学院で一から学ぶことを決めました

 そして大学院卒業後の2000年、念願かなってテレビ朝日の報道番組『ザ・スクープ』のキャスターにと声がかかり、帰国。それから20年間、同局の報道番組に出演して国内外の取材も積極的に行った。'17年からは『サンデーステーション』のメインキャスターを務めたが、'20年に突然番組を降板することになる。57歳の時だった。

視聴率は良かったのですが、テレビ局側が若い人向けに番組をブラッシュアップしたいので、キャスターも若手に交代したいと。この番組に人生をかけていたので、それを聞いた時はやっぱりすごくショックで。でも、世間では定年退職になる年頃だとも思い、諦めもつきました

 降板後も自ら取材、発信をしていきたいと考えていた矢先。師と仰ぐ田原総一朗さんから「今後、ジャーナリストとして信念を持って取り組みたいことは何?」と問われ、自分がすべきことはキャスター時代から課題に感じていた女性国会議員を増やす活動だと気づいたという。

 そして勉強会を立ち上げ、取材や執筆をしていくうちに新しい道を切り開いていった。しかし、同時期に私生活でも困難が立ちはだかっていた。

テレビでできなかったことに挑戦している今が心から楽しい

 降板と前後して身内の不幸が続き、'19年に義父、'20年に義母、'21年に実母を見送った。母子家庭で育った長野さんにとって、母の敏子さんは特に大きな存在だった。

7歳の時に父が病気で亡くなったというのもあって、母が死んだら生きていけないと思っていました。シングルマザーで苦労した母を見て、学生時代は楽をさせてあげたいという思いが強かった

 就職、結婚で自立すると親子の距離は離れたが、晩年の敏子さんは長野さん夫婦と同じマンションの別棟で一人暮らしをしていた。

母はとにかく人に頼りたくない性格で、92歳で亡くなる直前まで毎日のように“絶対に病院で死にたくない、延命治療はしないでほしい”と言っていて。“わかった、そうするよ”と答えていました

 長野さんは毎朝電話をかけていたが、ある日、敏子さんが電話に出ないので家を訪ねると、リビングで倒れていた。救急車を呼べば、おそらくそのまま入院することになるため、敏子さんは意識が少し残る中で、救急車を拒否。

 困った長野さんは敏子さんが介護認定を取っていたことを思い出し、地域包括支援センターに連絡。すると往診の医師を紹介してくれた。

往診に来た先生が、母は重大な疾患はなく老衰で、1か月持つかどうかの状態だと。それなら私が在宅で看取りをしようと決めました

 長野さんは介護に専念し、外せない仕事がある時は夫に代わってもらった。そして1か月後、別れの時がくる。

老衰って食べるもの、飲むものを拒絶していって、枯れ枝のようになっていくんです。ついに危ない状態になったので夫に電話して、今晩はこっちに泊まると母の枕元で話したら、意識がなかったはずの母が、私の身体を足で小突くんですよ。これは“私は大丈夫だから、家に帰れ”という意味だと。最期まで自立を望んだんでしょうね。翌朝行くと、まだ息があったので安堵していたら、お昼ごろに呼吸が荒くなってきて。夫を呼んで、2人で母の手を握り泣きながら見守りましたが、しばらくして呼吸が止まって。あ、今亡くなったんだ……と

 つらい別れを、どう乗り越えていったのだろうか。

最期はどうしたいか母の希望をたくさん聞いて、母の望む形で最後まで看取れたという思いが、一番自分を救ってくれました。喪失感は埋められないですけど、親が先に亡くなるのは本来いいことだし、親孝行なわけですから

 60代を迎え、今年3月には国連の難民支援機関であるUNHCR協会の理事に就任。4月からはラジオで初の冠番組『長野智子アップデート』(文化放送)がスタートした。大人世代向けにその日起きたニュースを生放送で振り返る内容だ。

 長野さんは大学時代に文化放送の『ミスDJリクエストパレード』でDJを務めた経験があり、古巣への帰還となる。長年いたテレビ業界から離れたことで見えてきた景色もあった。

新しいことを始めてみると、テレビでいろんなことを扱っていたけれど意外と何も知らなかったなと気づくことが多い。テレビでできなかったことに挑戦している今が、心から楽しいんです

 長野さんの人生後半戦は、始まったばかりだ。

取材・文/小新井知子

1962年、米ニュージャージー州生まれ。上智大学卒業後、フジテレビに入社。'90年に退社してフリーになり、報道キャスター、番組司会など幅広く活躍。現在は文化放送のラジオ『長野智子アップデート』に出演中。

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