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「死んでいてくれないかな」松島トモ子、100歳で看取った母の介護と77歳で人生初のひとり暮らし

週刊女性PRIME / 2024年6月29日 16時0分

女優、歌手、タレント・松島トモ子(78)撮影/廣瀬靖士

 都内某所の、高級賃貸マンションの一室─。

「えっ、あれまあ!“バナナの皮”さん、あなたはどうしてここにいらっしゃるの!?」

女優・歌手の松島トモ子の一人暮らし

 キッチンのゴミ箱の中のバナナの皮に、そう声をかけたのは、女優にして歌手、タレントの松島トモ子(78)だ。

 さかのぼること3年前の2021年10月、レビー小体型認知症を患っていた母・志奈枝さんを5年間の自宅介護ののち失った。最愛の母を見送って昨年から、齢77歳にして初めての一人暮らし。

 わずか4歳で芸能界デビュー。以来、大勢の大人たちに囲まれて生きてきた。

 家に帰れば、家事全般はすべてお手伝いさんがやってくれる。何より“一卵性母子”と呼ばれた志奈枝さんが影のように付き添い、仕事から生活までを献身的にサポートしてくれていた。家事は今でも週5回、お手伝いさんが担ってくれている。不自由なことは、まったくない。 

 だが、バナナを食べてゴミ箱に皮を捨てれば、お手伝いさんが収集に出してくれるまで、皮はずっとそのままだ。ゴミ箱の中なんぞ、覗いたこともなかったこの人には、それがたまらなくおかしい。

「“あなた(バナナの皮)は私が捨てに行かないとダメなんですか?”そう声に出して会話してしまうの(笑)」

 浅草寺の豆まきに共にゲストとして招かれ、以来一緒に食事に行く仲の“お兄ちゃん”こと陸上競技指導者の瀬古利彦さんがこの人を評してこう言う。

「上品で独特の雰囲気がある人なんだけど、ふわふわとして何をしゃべり出すかわからない。目がものすごく大きいからかなあ、ちょっと宇宙人みたいなところがある人ですよ(笑)」

 その“宇宙人”が、大きな目を輝かせながらこんなふうに言う。

「一人暮らしって、やってみるとおもしろい。だって初めてやることばかりだから」

 もう数十年の付き合いで、松島のコンサートの演出を務める室町あかねさんが、

「家事は一切しなかったから、包丁をどこで買うか、どう使うかも知らなかった人。引っ越して大変だろうとカップ麺を持参したときには、“お湯は沸かせる?”と尋ねたほど。“沸かせるわよ!”との返事が来ましたけどね(笑)。

 お高くとまったところなんてまったくない人ですけれど、今どきでいうタレントじゃなくてスター。大河内傳次郎とか、俳優・女優が雲の上の存在だった時代の“昭和の大スター”として生きてきた人なんです」

 昭和の大スターには最近の風呂だって新鮮だ。

「お風呂がしゃべるということも初めて知ったの。

 女性の声で“もうすぐお風呂が沸きます”“お風呂が沸きました”って言うでしょ?  だから“わかってる! もう、うるさ~い”って。そうやってお風呂としゃべっているんです(笑)。そうした小さなことを楽しんじゃうのが、一人暮らしのコツかしらね」

壮絶だった自宅介護と一人暮らしの理由

 それまで暮らしていた目黒の家を手放して一人暮らしを始めたのは、壮絶だった自宅介護と、その後のギャップに耐えられなかったから。

「“(母が亡くなって)ご臨終です”と言われたそのときから家に誰も来なくなって。それまでは朝9時に“ピンポーン”と玄関のベルが鳴ると、週で50人以上の介護関係者が家に出入りしていたんです。それが、臨終の瞬間から誰も来ない。コロナ禍で仕事の関係者とは外で会うようにしていたから、本当に、誰も来なくなっちゃった。広い家がしーんとして、精神的にまいってしまった。それで引っ越しを考え始めたの」

 自宅介護で肉親を見送った人が口にする、介護中の戦争のような毎日と、その後の身にしみるような静けさ。

 そのギャップに戸惑うのは、“雲の上の大スター”も決して例外ではなかった─。

 始まりは2016年5月。

「母は中国生まれだったので中華料理が大好き。それで、母と親しい人たちだけで、少し豪華な中華レストランで誕生パーティーをしたんです」

 志奈枝さんは好奇心旺盛な人で、人の話を聞くのが大好き。それなのに、そのときはどうしたことか、目の前の料理をガツガツと食べるばかりで、人の話を一切聞こうともしない。

「それでたしなめようとしたら、母のスカートが濡れていた。失禁していたんです」

 そのあと自分がどう振る舞い、集まってくれた人たちにどう言い繕って帰宅したのか、松島は覚えていない。

「数日たって気を取り直してからも、“母をどうしてあげよう”とか“かわいそうに”とかは一切頭から飛んでしまっていた。“どうやってこの状態から逃げようか?”。そればかり考えていました」

 不安に震える娘をよそに、以降は志奈枝さんの症状はつるべ落としの状態だった。

上品な母が罵詈雑言を吐き夜中になると飛び出す

 商社勤めで香港に赴任していた父親のもと、現地のイギリス系女学校に通い、ペニンシュラホテルで社交界デビューをしたという志奈枝さんは、95歳のあの瞬間まで、絵に描いたようなレディだった、と松島は言う。

「家では母を“お母さま”と呼び、敬語で話すのが当然。“親に口答えなんてとんでもない”といった感じの母子でした。その母が、“こんな言葉、なんで知っているんだろう?”と思うような汚い言葉を吐いては、物を投げるようになったんです」

 “娘は私に何も食べさせない!”“こんな年寄りをいじめて楽しいのか!?”と怒り狂う。夜中になると家を飛び出しては、人目もはばからず“人殺し!”と叫ぶ。

「それが“徘徊”なんてレベルじゃなくて、“遁走”でした。母はマラソンの選手だったから足がメチャクチャ速いの。夜中だと私もよく見えないから、本当に危なくて」

 映画『エクソシスト』の悪魔にとりつかれた少女を思わせる形相で家具を押し倒しては、イスを投げつけた。

 当然、松島も公的支援を受けるべく介護要請をした。ところがやって来た認定士が下した判定は、最も軽い「要介護1」。

 介護認定のその日、志奈枝さんがソファに腰かけ、松島はその後ろに控えていた。認定士からの質問に志奈枝さんが、“お買い物にも自分が行く。お料理だって自分でできます”とすまして答える。

「後ろで聞いていて“ウソばっかり”と思うんだけど、母に口答えなんてできない私はさえぎったりできません。不思議なもので、相談員のような人が来ると、認知症の人ってシャンとするのね(笑)」

 “最も軽い認知症”と判定されてしまったから、治療薬もごく穏やかな漢方薬が処方されるだけ。志奈枝さんがレビー小体型認知症であると正しく判定、「要介護4」であると認定されたのは、しびれを切らした松島が医師の交代を申し出たからだった。

「ホッとしたし、よく効く薬もたくさん出たけど、今度は本人が薬を飲んでくれない。薬を飲んでくれるようになるまで1年半かかりました」

 認知症のなんとも切ない特徴に“最も近くで必死になってケアしてくれる人を憎む”というものがある。母一人、子一人の松島親子にとって、志奈枝さんの憎しみの対象は言うまでもなく松島だった。

「薬を飲ませようとすると、“毒を飲ませる!”と言って噛みつかれました」

 毎朝5時に起きては志奈枝さんのおむつを替える生活に、罵詈雑言と“遁走”、それに暴力が重なる。ストレスのあまり松島は過呼吸になって体重は7キロも減り、たった33キロになってしまった。ライオンの襲撃にも負けなかった、あの松島トモ子が、である。

 当然、周囲は心配し、ケアマネジャーも志奈枝さんの施設への入居をすすめた。だが松島はそれでも自宅介護の道を選ぶ。

「母が“施設には絶対に入らない! 施設に入れられるほど私は悪いことをしていない!”と断固、拒否しましたから。母がそこまで嫌だと言うならしょうがない」

 志奈枝さんにそう言われてしまうと、受け入れざるを得なかった。松島にはこの母に、返したくても返し切れない大きな恩があったからだった。

母娘二人で満州から決死の逃避行

「母の部屋に行くまでにドアが2つあって。母は『要介護4』から『要介護5』とどんどんひどくなっていきましたから、ドアを開けるまでの間に、“ああ、死んでいてくれないかな”と。何度そう思ったかわかりません」

 だが松島が今あるのは、そんな母が命がけで自分を守ってくれたからだった。

 1945年8月15日、太平洋戦争が終結。志奈枝さんは三井物産に勤務していた夫・高橋健さんの仕事の関係で、旧満州の奉天(現・瀋陽)で終戦を迎えた。

 松島はその直前の7月に誕生。父・健さんは同年5月に召集され、行方知れずになっていた。

 ソ連が日ソ不可侵条約を破棄して同年8月8日には、対日参戦。翌9日に満州に進駐を始めてからは、志奈枝さんら満州の日本人の毎日は凄惨を極めた。日本への帰還に命懸けになる日本人に、ソ連兵たちは横暴の限りを尽くしたからだ。

「そんな目を覆うばかりの状況の中、母はカーテンで袋を作って私を入れ、その袋を自分の身体の前に回して、さながらカンガルーの親子のような姿で日本に連れて帰ってくれたんです。私を前で抱いたのは、おんぶだと死んでもそれがわからないから」

 母カンガルーの背中には、荷物を詰め込んだリュックサック。そして両手には食料を入れたバケツ。そんな母親に中国の人たちが、「奥さん、赤ちゃんを置いていきなさい! 死んでしまうから!」と声をかける。

「どうせ生きては帰れない。みんな善かれと思って声をかけ、日本人は子どもを置いていったんです。それでも母は私を手放しませんでした」

 引き揚げ船には満足な食料もないし、嗜眠性脳炎が流行。子どもたちはバタバタと亡くなっていった。

「そんな中でも、母は私に精いっぱいの笑顔で接し、耳元で美しい声の子守歌を歌ってくれた。わずか10か月でしたから覚えているわけがないんですけれど、私は覚えていると思っています」

 引き揚げ船の中で生き残った乳飲み子は、松島を含めてわずか2人だけ。

 どれほどケアマネジャーにすすめられても、母の部屋に行くまでにどれほど“死んでいてくれたら……”と思っても、そんな母を、本人の意に反して施設に入れるなど、松島にはできなかった。

帰り着いた日本で映画界にスカウト

 決死の覚悟で日本にたどり着いた母娘を待っていたのは、思いがけない出来事だった。

 当時、映画館では上演前にニュース映画を流していた。3歳の松島がバレエを踊る様子が「小さな豆バレリーナ」と題されて上映。その姿に当時のビッグスター・阪妻こと阪東妻三郎が目を留めた。次回作の子役としてスカウトしたのだ。

 松島がバレエを習っていたのには理由があった。

「旧満州で日本人の女性が避難しているとわかるとソ連兵から暴行を受けかねない。だから窓ガラスに黒い紙を張って、暮らしていました。10か月、日光を浴びられない状態で私は育っていたの。だから、『くる病』っていうんですか、右脚が曲がっていたんです。その脚の矯正のために、バレエを習ったんです」

 そのバレエが、3歳だった少女のその後の人生を決定づけることとなった。

 4歳で阪妻の『獅子の罠』に出演、事件の鍵を握るつぶらな瞳の少女、下條美也子という役名で映画デビューを飾ったのだ。

「タイトルが獅子でしょ。あのころから不思議とライオンと縁があるの(笑)」

 それ以降は、まさにとんとん拍子だった。当時は映画の黄金期。阪妻と並ぶ大スター、アラカンこと嵐寛寿郎の『鞍馬天狗 御用盗異変』(1956年)の杉作を演じれば、同年作の実写版『サザエさん』でワカメちゃんを演じた。

たった一人で表紙のカバーガール

 1953年には歌手デビュー。映画に歌にと活躍する美少女を、出版界も放っておかない。光文社発行の雑誌『少女』で10年もの間、たった一人で表紙のカバーガールを務めた。

 ところが今だったら羨望ものの活躍ぶりも、松島家では大不評だった。

「“子役になるなんて……”と親戚中に泣かれました。女性の社会進出も少ない時代。小さい女の子を働かせるなんて“落ちぶれた”っていう意味です。スカウトされて大喜びするなんてとんでもない! でも、しょうがないじゃないですか。父はシベリアで生死不明で、働き手がいないんですから」

 当時の映画界は深夜ロケも当たり前。子役とて例外ではない。子ども時代の思い出といえば、仕事だけ。仕事、仕事の毎日しか記憶にない。

「5歳から15歳ぐらいまで、私は確かに芸能界の頂点にいたようです。

 小学校に入るときにはすでに有名人でしたから、上級生が覗きに来るし、同い年の子とは遊んだことがない。学校は出席日数を稼ぐために行くところで、授業を終えたらすぐに撮影所で大人が相手。ですから、同世代と話したくても話が合わないの。私、今だにジャンケンができないんですよ」

 スターという栄光と引き換えに失った子ども時代。それでもスターでなければできなかったことは確かにあった。

「敗戦で日本中が貧しく、沈んでいた。でも私には、“そんな日本のおばさんやおじさんを喜ばせて、元気にしてあげているんだ”という自負がありましたね」

 1950年、あの巣鴨プリズンで踊ったのは今もよく覚えている。当時、太平洋戦争敗戦で戦犯とされた人たちが巣鴨に収容されていた。5歳だった松島が慰問に招かれ、法被姿で『かわいい魚屋さん』を踊ったのだ。

 父・健さんが奉天で召集を受けた後、シベリアで生死不明に(のちに強制収容所での死亡が判明)。命からがら母とともに帰国した少女の踊りに、1000人の収容者たちは涙を流し、何度もアンコールを要求したという。

「アンコールされても1曲しか知らない。同じ曲を繰り返して踊ったのを覚えています。後に絞首刑になったA級戦犯の人たちも、おそらくいらしただろうと思います」

 そんな松島の傍らには、常に志奈枝さんの姿があった。3歳で初めて、日比谷公会堂で踊ったときのことだ。

「日比谷公会堂って大きくて、袖から舞台のセンターまで遠いの。子どもにとってはなおさら遠い。今と違ってセンターに印も明かりもないから、目安がなくて、どこがセンターなのかわからない。だから母がセンターの何列目かの客席に座って、ハンカチを振ってくれたんです。私はそれを目印にして、センター目がけて走っていって踊りました」

 松島が中学生時代、女性の自動車免許取得など珍しかった時代に、志奈枝さんは免許を取得している。松島の送り迎えのためだ。もちろん専属のドライバーはいた。だが、それだと母娘で自由に話すことができない。仕事場ではスタッフが、自宅にもお手伝いさんがいるので“二人だけの時間”がなかなかとれない。それを気にした志奈枝さんが、車内を二人きりの空間にしたのだ。

「それ以来、車の中が宿題したり、お昼寝したり、たわいのない話をしたり。まるで自宅の親子だけのリビングみたいに、何をしていてもOKな場所になりました」

 だが、そこまで娘を思い、大切にした母は同時に娘への嫉妬に燃える母でもあった。

 25歳の松島が恋をしたときのことだった。志奈枝さんがその結婚を、半狂乱になって反対したのだ。

「母は私が男の人に夢中になっているのを見るのが嫌なんです。他の子を可愛がる母に子どもの私が焼きもちを焼いたのと同じように、母もそうだったんじゃないですかね」

 母が賛成してくれていたら、あるいは母でなく恋人を選ぶ覚悟があったら、まったく違う人生を送っていたかもしれない。だが松島は、万感の思いを胸に秘め、さらりとこう語るにとどめる。

娘の腕の中で冷たくなって

 そんな一卵性母娘の別れは、3年前の2021年10月3日のことだった。

それまでは、せん妄を起こして“コワイものが見える”“ソ連兵が来る!”とか大騒ぎしていたんですけれど、亡くなる直前には、すごく穏やかになりました。かわいい犬とか猫とかが見えると言って。天使みたいになりました。

 最後の日も夜中、お人形さんみたいにパッチリ目を開けてて。“痛いの?”“苦しいの?”って聞いても“ううん”とだけ。“怖いの?”って聞いたら“うん”って言う。

 私たち母子は二人とも細いので、私、介護ベッドに潜り込んでよく一緒に寝ていたんです。だから横で寝て“トモ子ちゃんがここにいるから大丈夫よ”。そう言ったら、母が抱きついてきました」

 壮絶な5年に及ぶ介護は、実にあっけなく終わった。松島は起きているつもりだったが、つい眠り込んでしまった。ふと目を覚ますと、志奈枝さんの頬が冷たい。

「時計を見たら、朝の6時20分でしたね……」

 享年100、松島志奈枝さん逝去。娘をふところに抱え、決死の覚悟で日本に連れ帰った女性は、最期の瞬間をその最愛の娘の腕に抱かれて旅立った。一卵性母娘の二人三脚が、終了を告げた瞬間だった。

芸能生活今年で75周年を迎える

 思いも寄らない経緯で足を踏み入れた、思いも寄らない世界での生活も、今年で75周年を迎える。

「これまでにも“芸能界に入りたいんだけど”と私のもとに相談にいらした方はたくさんいます。でもその全員に“およしなさい”って。

 今になっていろいろなことが表に出始めていますけど、あれ、芸能界にはあること。芸能界って怖いところです。そう思いません?」

 こうは語るが、当のご本人は今も現役バリバリの芸能人。この7月19日には東京・成城ホールでの『心に残る歌の贈りもの』と題したコンサートが控えている。

 前出の室町さんが演出を担当、見どころはいっぱいだ。

「1部はトモ子さんのおしゃべりもあれば、引っ越しで出てきた写真のスライドショーあり、CMソングのメドレーありの、『松島トモ子の歴史集』って感じの楽しいショーになる予定。2部にはミュージカルも考えています」(室町さん)

母・志奈枝の色褪せない存在感

 志奈枝さんは旅立ったが、その存在感は今もなお、松島の周囲に色濃く残る。

 松島のマネジメントのサポートを請け負う『まむしプロダクション』社長・千葉潤一さんも語る。

「コンサートの楽屋には、今でも必ず額に入れた志奈枝さんの小さな写真立てを持ってこられる。二人三脚でやってきたお母さまを、今でも、それは大切に考えているんだと思います」

 競争の厳しい世界を75年生き抜き、今も現役を貫けるのは、芸能人としてのプロ根性ゆえ。室町さんいわく、

「写真を撮ると変な顔に写ったりするものですけど、トモ子さんはあの顔のまま。“カメラを向けられるとこういう顔になっちゃう”とか言って(笑)。プロとしての心構えが違うんですよ」

 プロ根性といえば、1986年、松島はテレビ番組の撮影でケニアに『野生のエルザ』原作者の夫であるジョージ・アダムソンのもとを訪ね、ライオンに襲われた。“松島トモ子といえばライオン”を印象づけた、あの有名な襲撃事件だ。

 首や太ももなどに全治10か月の大ケガを負ったが、そのわずか3日後には仕事を再開。別の野生動物保護区で今度はヒョウに襲われている。ヒョウに噛まれた位置があと1ミリずれていたら間違いなく死んでいた。生還は奇跡といわれた大事故だった。

「だってそのままで帰ったら、私はただライオンに噛まれに行っただけでしょう?

 撮影って、時間もお金もすごくかかっているんです。撮影隊は何か月も前に前乗りしていろいろ撮影なんかもして、私を待っていたわけですし。だったら行くしかないじゃないですか。

 またライオンのロケの依頼が来たら? ええ、やりますよ、私」

 コンサートに、猛獣相手のロケにと、怯むことを知らない松島を支えるのが、“与えられたことを楽しもう”という前向きな姿勢だ。

「この仕事って、瀬古さんしかり、ジョージ・アダムソンしかり、いろんな人と出会えるでしょ。だからおもしろいといえばおもしろい。芸能界って嫌なこと、理不尽なこともたくさんあるところだけど、みんな楽しんじゃおうと思っています」

 前出・千葉社長も言う。

「見られることで輝くのがタレント。ああいう人は辞めちゃうと老け込む。だから辞めちゃダメなんだと思います。あの年齢になっても仕事のオファーが来る。それって幸せなことだと思いませんか?」

 もちろん本人もたそがれるつもりなんてみじんもない。

「これからまだまだいろんなことがたくさんできそう。77歳で引っ越ししたら、これがとってもおもしろかった! だからあと数回はしてみたいわね(笑)」

 松島トモ子78歳、今なお現役。生涯現役。人生は山あり谷あり。でもトコトン楽しむものでもあるのだ。

 私たちも負けずに頑張らなくっちゃ─!

<取材・文/千羽ひとみ>

せんば・ひとみ フリーライター。神奈川県横浜市生まれ。人物ドキュメントから料理、ビジネス、児童書まで幅広い分野を手がける。近著の『キャラ絵で学ぶ!源氏物語図鑑』ほか、著書多数。

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