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「3人の出会いは運命ではなく宿命」THE ALFEEが長く続いた理由は“ぬるま湯”、デビュー50年の軌跡

週刊女性PRIME / 2024年7月14日 21時0分

『THEALFEE』桜井賢(69)、坂崎幸之助(70)、高見沢俊彦(70)撮影/吉岡竜紀

 バンドの活動期間というものは思いのほか短い。

 世界中の誰もが知るザ・ビートルズ。多くのヒット曲や名盤と呼ばれるレコードを発表した彼らだが、実際の活動期間はわずか10年だった。

デビューから50年を迎えた『THE ALFEE』

 レッド・ツェッペリンなど大ヒットを飛ばしたバンドでも、活動期間はせいぜい10~15年で、解散後、再び再結成し、往年のヒット曲で世界ツアーを行うのが定番だった。そんなバンド界で、デビューから50年を迎えた稀有な存在が日本にいる─。「THE ALFEE」である。

 その名前を聞いただけで、あの3人のシルエットを誰もが思い出すだろう。

 メンバーは、ベースギターでボーカル、黒いサングラスが特徴でもある桜井賢(69)、アコースティックギター、ボーカル、メガネがトレードマークの坂崎幸之助(70)、エレクトリックギター、ボーカル、王子のような佇まいの高見沢俊彦(70)の3人組。

 1973年に結成され、'74年にシングルデビュー。もともとはフォークグループだったが、'80年代に入ると、ロックバンドとしての活動を始める。

 '83年の『メリーアン』のヒット以降、『星空のディスタンス』、『Promised Love』、『LOVE NEVER DIES』、『恋人達のペイヴメント』、『シンデレラは眠れない』、『サファイアの瞳』などなどTHE ALFEE名義で、すべてのシングルをチャートインさせている。これまでに発表したシングルは72枚、アルバムは60枚を超えるという驚異的な数である。

 テレビの音楽番組はもちろん、バラエティー番組にも数多く出演。テレビでも彼らの音楽性、そして3人の強烈な個性とお笑いのセンスは発揮されている。

 そしてTHE ALFEEといえば、圧倒的な動員数を叩き出すライブ、コンサートツアー。そんな50年という長きにわたって音楽シーンのトップにいるTHE ALFEEの魅力とはいったい何か─

 今年7月24日、THE ALFEE 50周年を記念して73枚目となるダブルA面シングル『KO.DA.MA.』(テレビ東京系テレビアニメ『シンカリオン チェンジ ザ ワールド』のエンディング主題歌)、『ロマンスが舞い降りて来た夜』がリリースされる。

『ロマンス〜』は、今年5月に放送された明石家さんま主演のフジテレビ開局65周年企画ドラマ『心はロンリー 気持ちは『…』FINAL』の主題歌として制作されたものだ。

明石家さんまが主役

高見沢「この楽曲は、さんまさんが主役なので、とにかく明るい曲をという思いで作りました。みなさんの心にある、明石家さんま像を楽曲にしているということもあります。ほぼ1発で決まりました」

 高見沢は、作詞・作曲、そしてプロデューサーとしてTHE ALFEEの音楽をまとめている。そこに桜井と坂崎が加わり、具体的な制作作業となる。
 

桜井「高見沢がプロデューサーとして枠を決めてくれているので、あとは作業的な感じで2人が入ります」

高見沢「ベースやアコギ、コーラスを音入れしていきます。3人とスタッフで仕上げていくという感じですね」

 コーラスが入ると、「おお、THE ALFEE」という雰囲気になる。その作業は大変じゃないのだろうか。

高見沢「そうでもないですよ。みんなわかっているから(コーラスの)下つけて、上ねとか。『ロマンス〜』は僕がメインボーカルだったんで、坂崎に上つけてもらって桜井はその3度下とか、3声のコーラスは50年間もう十分にやり尽くしてますんで(笑)。どんなメロディーでもある程度はすぐできるんですよ」

桜井「昔と違うのは、コーラスを1人ずつ録るようになったことですね。昔は“せーの!”で3人一緒に録ったんだけど、コロナ禍になって1人ずつブースに入ってのレコーディングになったんです。以前の僕らのスタイルは禁止になりました。まさに“3密”だったんで(笑)。そうしたら、こっちのほうがクリアに録れるし、音程もシビアになりましたね」

 THE ALFEEの、あの独特のコーラスワークは一体どこから生まれてきたものなのだろう。

高見沢「やっぱりビージーズ、ビートルズ、イーグルス、あとCSN&Y、サイモン&ガーファンクル、アメリカ、それにクイーンの影響を受けていますね。僕らが聴いてきた洋楽、ロックもフォークも。その要素のすべてが入ってますね。

 僕らずっとコピーしてきましたから、そういったコーラスのスイッチというのがあるんですよ。坂崎もアコースティックの名曲を全部コピーしてますから。“この音”というボタンを押すとそういう音が出てくる(笑)」

 録音したそれぞれのコーラスをミックスする作業は、高見沢の仕事だ。
 

高見沢「3人のそれぞれの声は違うので、その良さを楽曲で出せればと思っています。3人のボーカルの個性というのかな、そういうのを出せたらアルフィーらしさが出るなぁとね。3人スイッチのできるボーカリストがいるグループですから」

坂崎「3人リードボーカルというのは珍しいと言われますよ(笑)。それに楽器までやっちゃいますからね(笑)」

桜井「たまに踊りもあったりして(笑)」

アルフィー誕生前夜の出会い

 実は最近、初めて3人が出会ってライブをやった日がわかったという。

桜井「'73年の5月19日。場所は『キッド・アイラック・ホール』でしたね。ずっと日にちがわからなかったけど、最近になって偶然メモが出てきてわかったんです」
『キッド・アイラック・ホール』とは、東京・京王線の明大前にあった、'16年に閉館した美術・舞台芸術・ライブのホール。

 浅川マキ、寺山修司など当時先鋭的とされた芸術家たちが活躍した場所だった。

坂崎「その前日、高見沢と学校で会って、2人でビートルズとかハモったんだよね。高見沢は、生まれて初めて人とハモったんだよね(笑)」

高見沢「それで、僕は生まれて初めて“自分ってキーが高いんだ”と気づきましたよ(笑)」

 この当時、高見沢と桜井は、同じ明治学院高校の同級生。坂崎は、都立墨田川高校にいたのだが、高見沢とは顔見知りだったのだ。

桜井「で、ライブ会場に行ったら高見沢が来ていて“え? おまえなんでここにいるの?”と聞いたら“歌うんだよ”。“誰と?”“おまえたちとだよ”。“ええ?”となって。それからずっと一緒にいます(笑)」

坂崎「当時メンバーはもう1人いて、全部で4人。何かコピーものやったんだよね。ビージーズとか。あとちょっとしたオリジナルとか。GAROもやったかもしれない。『ロマンス』とか『君の誕生日』とか。GAROには憧れていましたよね。

 3声のハーモニー。アルフィーのファンがGAROを聴くとね、“アルフィーが傾倒してたのがわかる”と言うんですね」

 もともと、桜井は同級生とサイモン&ガーファンクルなどのコピーを歌うフォークグループ『コンフィデンス』を結成していた。'72年に楽器店で開催されたフォークコンテストに出場し優勝。その会場で、ソロで出場していた坂崎に出会った。

 このライブをきっかけに、コンフィデンスに坂崎が加入。そして、『キッド・アイラック・ホール』のライブで飛び入りした高見沢が加入、今のTHE ALFEEにつながる3人が顔をそろえた。

 ちなみにGAROは、'70年から'76年まで活動したフォーク&ロックグループで、'73年に『学生街の喫茶店』、『君の誕生日』、『ロマンス』などのヒットで知られる。メンバーは、堀内護さん、日高富明さん、大野真澄で、卓越したコーラステクニックとアコースティックギターのテクニックも評価されていた。

 後にアルフィーは、GAROと同じ事務所に所属することになるのだが、実はGAROのライブコンサートを、高見沢と坂崎は、警備員のバイトとして見ていたのだ。

坂崎「警備員なのに、観客のほうを向かないでステージをずっと見てましたね」

高見沢「それも最前列の前で(笑)」

桜井「お金も払わずに、逆にお金をもらって最前列のさらに前(笑)」

デビューしたが鳴かず飛ばず。その結果

 彼らは、3人とも明治学院大学に進学。坂崎と高見沢は文学部英文学科、桜井は法学部法律学科だった。3人ともそれぞれの事情で大学は中退したのだが、'14年3月、これまでの功績をたたえられ、明治学院大学から3人は「名誉学士」の称号が授与されている。

 '74年に「浪漫派アルフィー」のキャッチフレーズとともに、アイドルフォークバンドとしてシングル『夏しぐれ』でデビュー。このデビュー曲も第2弾シングルの『青春の記憶』もヒットには至らなかった。

 その後、'75年に現在の3人体制となり、3枚目のシングル『府中捕物控』が発売……、のはずだったが直前にレコード会社の意向で発売中止となる。これは、この曲が三億円事件のパロディーソングだったことが、会社の意向に沿わなかったためとされている。それをきっかけにレコード会社との契約は解除。

 そこから事務所の先輩であるかまやつひろしさんや研ナオコ、GAROのメンバーの大野真澄などのバックバンドを務めるようになり、ライブハウスで活動を続けることに。

 研ナオコやかまやつさんのツアーでは、THE ALFEEのコーナーを設けてもらい、この当時からコミカルなコントやトークで盛り上げていた。

 当時、THE ALFEEとツアーを共にしていた研ナオコは、彼らのハーモニーのすごさには驚いたという。

「すごいと思いましたね。あの子たちはずば抜けてましたよ。それに頑張り屋だから、ほかにはないグループになるな、とは思ってました」

 研ナオコは彼らにショーの手ほどきをした。

「ショーをやるとなると、パフォーマンスでお客さんを飽きさせない必要があるでしょ? だから、笑ってもらう必要がある。そのことを一緒に考えてやってましたよ」

 実は何年か前にアルフィーのライブに行ったとき、メンバーに「どうでした?」と聞かれたこともあったらしい。

「で、音楽はともかく、高見沢と桜井のやりとりにダメ出しをしちゃいましたよ(笑)」

先輩たちに可愛がられて

 高見沢はGAROの大野から憧れのアコースティックギター「マーチンD45」を譲り受けた。この「マーチンD45」は、'70年代のトップミュージシャンたちがこぞって使っていた、アコギマニア垂涎の高級ギターである。

坂崎「ずっと高見沢に、大野さんがそのマーチンを貸してたんですよ。それを買った」

高見沢「お互い近所だったから、よくお酒飲ませてもらってまして。で、酔っぱらった勢いだったと思うんだけど、大野さんが“おまえだったら売ってもいいよ”と言ったんです。“ホントですか?”と。それで何とかギター代をかき集めて、翌日持っていったんですよ」

桜井「大野さん、絶対集まるはずないと思ってたんだよ。だって、酒代もないようなヤツなんだもん(笑)」

高見沢「そう、でも、ホントに持ってきちゃってね(笑)。そしたら“俺、そんなこと言ったっけ”って言われたので“言いましたよ”って(笑)」

坂崎「それも現金で」

桜井「現金の強さ(笑)」

高見沢「40万円くらいだったかな。今は10倍くらいしますよ。まあ、後輩価格だね。可愛がってもらっていたので」

 大野も、高見沢に譲ったマーチンD45のことを覚えていた。

「あのギターは(彼に)貸していたもので、返すとかではなくそのまま使っていてもいいからねって思っていたんですけど、ある日、本人が“ぜひ売ってください”と、ビール半ケースと現金持ってやってきたんですよ。まあ、熱意に負けて手放しました」

 GAROのコピーもやっていたアルフィーには前座に出てもらったり、解散後はバックを務めてもらったりしたという。

「達者な人たちだなと思ってました。『かぐや姫』の若い版って感じで、しゃべりもハーモニーもうまいなあと思いましたね」

流れを変えた『メリーアン』の大ヒット

 なかなかヒット曲には恵まれなかったアルフィーだが、'79年に「Alfee」と表記変更して再デビューし、フォークグループからロックバンドとして活動を始める。

 フォーク時代から注目を集めていた抜群のコーラス、そしてサウンドはロック。ここでほかのバンドとは一味違った“アルフィー”らしさが熟成されていったのだ。そして、高見沢も長年アルフィーでは、エレキギターを弾かないことにこだわっていたが、'80年に出された3枚目のアルバム『讃集詩』から間奏のソロを入れるようになる。

 この後、'82年に所沢航空記念公園で行われた初の野外イベントでサポートメンバーを加え、ドラムス、キーボードを含むロックバンド編成で演奏を行うようになる。この年の暮れには、「Alfee」の表記を「ALFEE」に変更。そして'83年に大ヒット曲『メリーアン』が世に出ることになる。

 この年の『紅白歌合戦』にも出場。さらに'84年には『星空のディスタンス』、『STARSHIP−光を求めて−』などのヒット曲が続き、テレビの音楽番組の常連となってゆく。'86年のシングル『SWEAT & TEARS』からグループ名表記を「THE ALFEE」に変更し現在に至る。バンド形態になってから、アルフィーは“ライブバンド”として、全国を回っていく数が増えていった。最も多い年では、年間113公演。本来なら、今年でコンサート3000本という記録に到達するはずだった。しかし、コロナ禍でそれは先送りになってしまった。

パンデミックの影響とは?

坂崎「7月7日で、コンサート回数は2917本になります。3000本には、あと2年はかかるかな。でも、50年で70歳で3000本だと、とっ散らかっちゃうから(笑)よかったのかもしれない」

高見沢「どれを祝っていいかわからないからね(笑)。コロナ禍のときは、本当に参りましたねぇ……。延期、中止が続いてコンサートができなかったので、身体の調子がおかしくなっちゃって。コンサートツアーに行かない、人前で歌わない、こんなことはこれまでなかったことだから」

坂崎「外も出ちゃいけなかったしなぁ」

桜井「ただ喉の心配をする必要がなかったこと、そこだけは精神的に助かった」

高見沢「2年間、次のライブのために喉を鍛えるということがなかったから。桜井はただひたすら酒を飲んでた(笑)。それでも、ちゃんと声が出るのはすごいけどな」

桜井「全然、喉は強くないんだけどね。弱いからこそ気にしてるんですね。何をしてたか? テレビを見て酒を飲んでましたよ(笑)。だって緊急事態宣言が発令されたんですよ。不要不急の外出は控えろって。でもお酒は止められていないから、家で飲むのはいいかなと」

 打ち合わせにリモートを使ったりすることはなかったのだろうか。

高見沢「やらなかったですね。だってこの人(桜井)はファクスしかないんだもの。スマホ持っていないし(笑)」

坂崎「その桜井が、やっと今年スマホデビューしました。これは今までで一番大きな事件です(笑)」

桜井「何が何だかわからなくて、カミさんにやり方教わって。触っているうちにどこか押しちゃって“あ、電話つながったみたい”って。すぐに止めたんだけど、斉藤ノヴさんから電話かかってきて、“桜井くん、何?”“あ、すいません。今スマホいじってたら押しちゃったみたいで”なんてやりとりをしたのが初スマホ(笑)。

 これまでノヴさんに一度もかけたことなかったのにね。“一番最初に間違ってかけてしまいました”って言ったら“光栄です”って(笑)。すぐ止めたのに履歴が残っちゃうんですね。恐ろしい時代だよね」

 ちなみに斉藤ノヴとは、有名なパーカッション奏者、妻は歌手で女優の夏木マリである。一方、高見沢はコロナ禍で創作に没入したという。

高見沢「そうですね、アルバムが作れるくらいはできましたね」

桜井「あの2年間で新曲ずっと作ってたんだもんな、すごいよな」

高見沢「コンサート活動ができないからね。ニュースを見るたびに暗い気持ちになってしまって。ニュースは事実関係を報道するだけで、希望が見えないから。それなら自分たちで希望をつくるしかないと。改めてバンドの希望は何かを考えたら、それは新曲だなと思って。当時、非常に悩みましたが、エンジニアやスタッフを招集して楽曲創作に没頭しました。食事は当時流行り出したウーバーイーツを利用して、スタッフに振る舞いました。でも、それが今でも続いているんですよね(笑)」

曲作りのポイント

 高見沢の曲作りのポイントはどこにあるのだろう。

高見沢「一番に考えるのは、3人の個性ですね。ビートルズっぽい曲だったら坂崎でやったら面白いなとか。桜井はこのキーまでは出るなとか熟知してますので、『ディスタンス』の次のバージョンみたいなものとか、そういうふうに考えていくと、なんとなくできあがっていきますね」

 そして、最近では詞先(曲ではなく歌詞から先に作ること)が多いという。

高見沢「最近小説を書くようになってから、詞が早く書けるようになったんです」

桜井「どうせまだできてこないだろうって思ってたら“できました”って。すげえ早いからびっくり」

高見沢「そこが今までと違う感じかな。40周年超えてから、言葉、伝えたいもの、小説と音楽はまったく違う脳で書くんだけど、そこがうまくキャッチボールできている感じ。やはりパンデミックのせいで、使命感ががぜん湧き上がってきたんです。バスケやっていましたから、基本、体育会系で根性一発で創作に打ち込んでいましたよ」

 YouTubeなどでアルフィーのライブ映像や、坂崎が以前出演していた番組で吉田拓郎とKinKi Kidsとのやりとりなどの映像が数多く視聴されている。中には何百万回を超える再生回数の動画もある。

坂崎「あれは僕らじゃなくてみんな勝手に上げたものなんです」
“非公式”ながらも、彼らの魅力を世間に広げているようだ。パンデミックのおかげで新たに誕生したものもある。それが『Come on! ALFEE!!』というタイトルの配信企画だった。

坂崎「2年間で、シーズン7までやりましたね。あれは深夜放送が動画になっている感じ。フリートークがね。かなり好評でしたが昨年で終わりました」

 さあ、今年もコンサートツアーの真っただ中。

桜井「調子が悪いときなんかもあるんだけど、なぜかステージに立つと不思議と痛みとか消えるんですよね。アドレナリンが出ているのかな?」

高見沢「だから無観客ライブをやってるときは苦しかったですね。ギターが重く感じたりとか。僕の持っているギターは、結構変なギターが多いんで(笑)。それが通常モードに戻ったら、そんなこともなくなりましたからね」

桜井「コロナが落ち着いてからのファンの人たちのパワーがすごいよね」

高見沢「すごいよね」

桜井「最初はマスクで無言、手拍子だけ。それがだんだん声は出していい、マスクも要らなくなった。その段階をずっと見てきたんですよ。するとどんどんすごいことになって」

高見沢「ツアーの全公演がソールドアウトになってるし。それはコロナ前よりも、熱いし激しいですね。その情熱が本当にうれしいですね」

坂崎「コロナでコンサートに行くことが億劫になった人が多いらしいけど、僕らはその影響はなかったね」

高見沢「以前の7、8割しか戻ってこないという話も聞いたし。コロナ禍でみなさんの生活習慣が大きく変わってしまったんでしょうね」

桜井「ごはんもそうだよね、コロナが明けても外で食べる習慣が戻ってこない」

坂崎「それがアルフィーの場合は、逆に以前よりも熱い感じがするんですね」

 彼らは、レコードの時代、CDの時代、そしてサブスクの時代と音楽を作り続けてきた。その変化にはどう対応してきたのか。

高見沢「スマホで聴いている方が多い環境ですからね。レコードからCD、そしてダウンロードですから。確認する作業が違ってきてますね、最終的にスマホで聴いてみたりとか。“あ、この歌詞が聴こえづらいな”と音量を上げたりとかしますね。

 逆にそういうふうにスマホのような小さいもので聴かれれば聴かれるほど、ライブの音が結構、壮大じゃないですか。その差を感じてもらえれば。僕ら基本的にライブステージがメインなんで。パフォーマンスがね。こんな小さなデバイスで聴いた『ディスタンス』と広い会場で聴く『ディスタンス』とは、また違うと思うんですね。その差を楽しんでもらえるんじゃないかな。だから僕らにとってもいいことだと思います」

 現在、THE ALFEEのファンは3世代にわたるという。

高見沢「やっぱり長くやってるからだと思います。それは自分たちのやりがいにもつながる。コンサートに初めて来た人でも、感想が“面白かった”というのがうれしいですよね」

桜井「それが一番じゃないですか? 若い世代が親とかの影響ではなく、自主的にアルフィーの“沼”に入るきっかけは、YouTubeだったりするんです。だから、“面白い人たち”から入って、音楽聴いたらカッコよかった、という子が多いですね。DVDパンフレットに収録のALFEE KITCHENという、メンバーが料理する動画がYouTubeに上がっていたみたいで、それを見ていた子が、僕らのステージを見て“この人たち歌も歌うんだ”みたいな(笑)」

3人が出会わなかった“未来”とは

 50年─。楽しそうに軽口を言い合う3人は本当に仲がいい。

 もしこの出会いがなければ、3人はどんな人生を歩んでいたのだろう?

高見沢「出会ってなかったら、音楽やってたの坂崎だけだったんじゃないかな。たぶん僕は教職課程取ってたんで父親や母親と同じ、学校の先生やってたと思うなあ」

坂崎「すごい先生だよね、その格好でやってたら(笑)」

高見沢「これでやるわけないだろ!(笑)」

桜井「いやあ、潜在的なものがあるから、文化祭とかで花開いちゃって(笑)」

坂崎「ツェッペリンとかやっちゃって。そっからとか(笑)」

高見沢「そうだね。高校時代に戻っちゃう感じかも。グラムロックとか大好きだったから。桜井は何やってたかなぁ」

桜井「会社勤めじゃないな。商売やってたかな。本当になりたいものが、あったわけでもないし」

坂崎「わかった。左官屋さんだ」

桜井「それは、俺が(左官屋に)下宿してただけだよ。下宿してたら“運転手が来ないんで桜井くんお願いだから”って職人乗っけて現場に行っただけ(笑)。左官屋、大変だよ、修業に10年はかかるから」

高見沢「いやいや、あるんじゃないの?(笑)」

桜井「じゃあ、左官屋さんで(笑)」

坂崎「僕は売れないミュージシャンで終わって、スナックですかね」

高見沢「酒も飲めないのに、なんでスナックやれるんだよ(笑)」

坂崎「じゃあ、フォーク喫茶。もしくは熱帯魚屋ですね」

 長く続けられた理由は「ぬるま湯」だと高見沢は言う。高見沢「ちょうどいい温度、でも努力しないとちょうどよくならないんですよ」

坂崎「放っといたら冷めるしね。温めなきゃいけない」

高見沢「熱かったら冷まさなきゃいけない。そのへんは調整してますけどね。まあ、いい意味での“ぬるま湯”の関係というのは続いていると思いますけどね」

 50周年を迎えて、今後の目標はあるのだろうか。

高見沢「とりあえず3000本が目標。4500本を超えている、さだ(まさし)さんみたいなレジェンドとは比べものにならないけどね(笑)」

坂崎「目標を持たないアルフィーだけど、そこだけはね」

 8月には“50年目の夏祭り”として夏のイベントも控えている。新曲を引っさげてのイベントになるが、

高見沢「両A面のシングル、ギターはいいけど、桜井、あの複雑なベース弾きながらは無理だもんな。ライブ用にちょっと(演奏を)間引きしないと歌えないよな」

桜井「本当にキツいけどね……、でも頑張りますよ」

高見沢「まあ、一応時給が出るからな(笑)」

坂崎「歩合じゃなかったっけ?(笑)」

桜井「俺、50年もやっていていまだに派遣だのバイトだのって言われるの、おかしいでしょ(笑)」

坂崎「でもステージでこういうギャグ言うと、本気にする人がいるんだよね。“へえー、桜井さんて派遣だったんだ”とか(爆笑)」

 アルフィーとしてデビューして以来、解散どころか1人も欠けることなく、日本の音楽シーンを駆け抜けてきた。そして今日も出会ったときのまま、ステージに立つ3人がいる。高見沢、坂崎、桜井が巡り合った偶然は“運命”ではなく“宿命”だったのだろう─。

<取材・文/小泉カツミ>

こいずみ・かつみ ノンフィクションライター。芸能から社会問題まで幅広い分野を手がけ、著名人インタビューにも定評がある。『産めない母と産みの母~代理母出産という選択』『崑ちゃん』(大村崑と共著)ほか著書多数。

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