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「102歳まで生きる」大村崑、片肺切除で余命宣告から一念発起!92歳の元気ハツラツ生活

週刊女性PRIME / 2024年8月25日 16時0分

喜劇役者・大村崑(92)撮影/佐藤靖彦

「僕、高齢者やめたんです」

 そう笑いながらスクワットを披露する。

昭和を代表する国民的スター大村崑

 昭和を代表する国民的スター“崑ちゃん”こと大村崑さんが、結果にコミットしようと思い立ったのは、今から約6年前の2018年4月のこと。以来、週2回、欠かさずライザップに通う。

 太ももが地面と平行になるほど腰を深く落とし、「これが効くんです」と上方特有のイントネーションで喜々として話す姿は、とてもではないが御年92歳とは思えない。かつて日本中の街角に張られていたオロナミンCのホーロー看板に書かれていた『元気ハツラツ!』。その看板の“顔”であった崑さんは、今なおキャッチフレーズを体現するかのように現役であり続ける。

「僕は19歳のとき、結核の影響で片方の肺を取っているんです。医者からは40歳まで生きられないだろうと言われていたくらい。ですから当初は、『元気ハツラツ!』なんてキャッチフレーズの商品に出演することなんてできないと拒んだんです。死んだらえらいことになるでしょ(笑)。ところが、3回も交渉に来てくれて、最終的にうちの女房である瑤子さんが、『やらせていただきます』と引き受けた。昭和の顔になれたのは、瑤子さんのおかげなんです」(崑さん、以下同)

 実は、肉体改造への扉を開いたのも瑤子さんだった。

「お腹が出てきて、服が入らない。少し歩くだけで息が上がってしまう。見かねた瑤子さんが、『一緒に行きましょう』って。僕は、『冗談やない』と断る気満々やったんだけど、受付の方の説明がとてもよくて、ほんなら試しで行ってみよかと。最初はキツかったですよ。でも、お腹はへこんでくるし、息切れもしなくなってきた。気がついたらハマってました」

 90歳を過ぎた今でも、30キロ台のバーベルを担ぎながらスクワット(10回×3セット)をこなすという。背筋をピンとしながら、ハキハキと話す崑さんを見ていると超人的なご長寿─“ご超寿”、そんな言葉が浮かんでくる。

「80代で始めた筋トレがくれたものは、健康な身体だけではないんです。身体を鍛え始めたことで幸せで満ち足りた生活になりました。僕は、心から筋トレを始めてよかったと思っているんです。今が一番、『元気ハツラツ!』です」

 7月の大相撲名古屋場所でのこと。王鵬に寄り切られた正代が、土俵からたまり席に転げ落ちた。たまたまそこで観戦していた崑さんは、その巨大な“肉弾”をひらりと避けた。あまりにも見事な身のこなしに、観客、SNS、ニュースと、日本中が大いに沸いた。

 どうしてこれほどまでに、肉体的にも精神的にも若々しいのか? 取材を通じて、それを教えてほしいと伝えると、崑さんは屈託のない顔で笑った。

92歳にして本格的な歌手デビュー

 6月某日。

 崑さんは、東京都内のレコーディングスタジオにいた。『人生百年時代がやってきた』と、歌手で俳優の高島レイラさんとのデュエット曲『ありがとうの花』の2曲をリリースし、なんと92歳にして歌手デビューを果たすというのだ。高島さんとは、孫どころかひ孫くらいの年の差だという。マイクの前に立つと、「標準語の歌なんてうまく歌えるんかなぁ」とぼやき、周囲を笑わす。どこにいても、崑さんの周りには“笑い”がある。

「今まで歌を歌うことはあっても、正式にデビューしたことはないんです。なんでも、92歳でのデビューは日本最高齢のデビューらしい。長く生きていると、いろいろなことが起こりますわ」

 師匠と仰ぐ、関西を中心に活躍した人気司会者・大久保怜氏に師事したのが1953年。崑さんの芸歴は70年を超える。現在、芸能界でこれほどの芸歴を誇る人物は、もう数えるほどしかいない。

「戦前、神戸の新開地で生まれ育った僕は、よく親父に連れられて芝居小屋や劇場に行っていました。親父は僕を楽屋に置いて、女の子たちと飲みに行ってしまうから、出番待ちのお姉さんたちに可愛がられて、おしろいを塗られてカツラをかぶらされたりしてね。舞台で、『かかさまの名はおつると申します~』なんてやるもんだから、おひねりやお菓子が飛んできた。幼稚園よりこっちのほうが全然ええなと思ったなぁ」

 華やかな世界に憧れを抱いていた。とりわけ、虚弱体質で学校も休みがちだった崑さんにとって、芸能界は夢の世界だった。

「片肺を取った後、先生からは『丹波の田舎に行って、養生しろ』と言われました。おいしいものを食べて余生を過ごせと。僕は、ほんまに自分が40歳までに死ぬと思っていたんです」

 本当に40歳までしか生きられないのであれば、やりたいことをやりたい─。1950年、20歳のとき、崑さんは神戸のキャバレー『新世紀』のボーイとなり、きらびやかな世界に飛び込んだ。

「お金持ちから怖い人まで、いろいろな人が来ました。『ボーイ、預かっとってくれ』なんて言われてピストルを渡されたこともありました(笑)。でも、僕らボーイはチップが食い扶持。どんな相手でも機転を利かせたり、ユーモアがないとチップがもらえないんです」

 このときの経験が、後に喜劇役者として開花するための素地になったと振り返る。

「喜劇役者って相手を笑わすだけやなしに、記憶の中に入っていかなあかんのです。忘れさせたら何にもならない。『あいつは面白いな』って覚えさせないといけないんです」

売れっ子になり、主治医から激怒の電話が

 大久保怜氏に弟子入りすると、大久保の「大」と自身の本名である岡村の「村」を合わせて「大村」に。「おまえはようしゃべるから、めでたそうな名前がいい」という理由で、昆布の「昆」を拝借し、大村昆と命名された。後日、誤植で「崑」の字になっていたが、「中国の崑崙山の崑やで。ええやないか」という師匠のひと言で、そのまま崑に改名した。

 ひょうきんなキャラクターと覚えやすい名前。大阪・梅田にある「北野劇場」専属コメディアンとして舞台に立つようになると、頭角を現すのは時間の問題だった。

「僕はボケ役だったこともあって目立った。ボケ役はえらいウケるんです」と語るように、「おもろいやつがいる」という評判は広まり、テレビ草創期の人気脚本家だった花登筺氏の目に留まる。

「喜劇役者って手品みたいなところがあるんです。コケる芝居があったら、バレないようにわざとテーブルを叩いて大きな音を出す。すると、ほんまにコケたように見えるし、自分にお客さんの目を引きつけることもできる。喜劇やからこそ、お客さんに伝わるように工夫することが大事なんです」

『やりくりアパート』『番頭はんと丁稚どん』に出演すると知名度は上昇。ついに、主役の座を射止める。作品の名は、『頓馬天狗』。大塚製薬が一社提供を務める時代劇コメディーで、当時の主力商品『オロナイン軟膏』をもじった主人公・尾呂内南公を熱演した。「片手抜刀」などトリッキーかつコミカルな殺陣が話題を呼び、崑さんの人気は全国区へと羽ばたいた。

「このときはレギュラーが11本。生放送も多かったから、とんでもないスケジュールです。肺が一つしかないのに、よう頑張ったなと自分でも思います」

肺を切除した恩人からの電話

 生放送終了後、自宅に一本の電話がかかってきたという。

「おまえ、何しとるんや! テレビ局みたいな埃の多いところいたらあかんやろ。丹波に行け言うたやろ」

 聞き覚えのある声色。10年前、肺を切除した恩人の主治医だった。

「『頓馬天狗って誰や思ったら、おまえやないか!』って、すごい剣幕で怒るんです。どうしよかな思って、『はい先生、すんません。やめますからご安心ください』ってウソついて切り抜けました(笑)」

『頓馬天狗』では、尊敬する喜劇役者の一人、三木のり平氏とも共演した。崑さんの代名詞である鼻眼鏡(ずらしたロイド眼鏡)は、三木氏からインスパイアされたものだった。

「似ているということもあって、三木先生には可愛がってもらいました。先生の晩年、大阪・今里のお茶屋でごちそうになったことがあったんですけど、先生のことを『崑ちゃん』と言い間違えた人がいて。酔いが回っていた先生は、『俺は大村崑じゃない!』と立ち上がるや、そのままお茶屋の2階から屋根に乗り出し、『大村崑じゃねぇ!』と叫びながら屋根を移動し始めて。慌てて全員で止めて事なきを得ましたけど、あの“今里事件”は忘れられへん」

 後日、三木氏から、「崑ちゃんに鼻眼鏡を譲るよ。堂々とやってくれ。もう俺はしないからやり続けてくれ」と言われたという。それからしばらくして、三木氏は亡くなった。その遺言を守るように、今でも崑さんは写真に応じるとき、眼鏡をずらしてニコリと微笑む。

身体が弱かったから「病院好き」「薬好き」

 大村崑のホーロー看板、そして松山容子のホーロー看板(ボンカレー)を見ると、昭和に思いを馳せてしまう─そんな人は少なくないだろう。

 この昭和遺産ともいえるホーロー看板は、前述したように妻・瑤子さんのひと言がなければ実現していなかった。

「40歳まで生きられるかどうかわからないから、家庭を持つことは諦めていたんです。でも、一目ぼれしてしまったんだから話は別です(笑)」

 1960(昭和35)年に行われた結婚式は、芦屋雁之助さんと、その弟・芦屋小雁さんとの3組合同で行われ、全国に生放送されるほどだった。いかに、崑さんが国民的な存在だったのかがうかがえる。

 結婚生活は、実に64年に及ぶ。今もそろってライザップに通うおしどり夫婦。その秘訣を、瑤子さんに尋ねてみた。

「これだけ長いこと一緒だと、我慢しないといけないところはありますよね」

 そう話すと、「一部切り取りたいところだってあります」といたずらっぽく笑う。

「彼は案外、短気なんです。ですから、私が主張するにしても、一線を越えないようにブレーキもかける。そのバランスが大事だと思います」(瑤子さん)

カルーセル麻紀さんから見た夫婦仲

『午後は○○おもいッきりテレビ』(日本テレビ系)などで、崑さんと共演した経験を持つカルーセル麻紀さんは、2人の夫婦仲についてこう話す。

「番組でご一緒したとき、崑さんは私の爪を見て、『うちの奥さんはネイルサロンを経営しているんですよ』と話しかけてくれました。彼の奥さんが、爪のない人にきれいな爪をつけてあげ、その人が感激して泣いて喜んだという心温まるエピソードを、崑さんはうれしそうに話すんです。その話は、今でも鮮明に思い出に残っていますね」

 お互いをきちんと気にかけること。崑さんのぽっこりしたお腹を気遣って、肉体改造を提案したのも瑤子さんだった。干渉しすぎないように。かといって、放っておかないように。

「私は芸能界のことはわかりませんが、とても器用な人だと思うんですね。例えば、台本が届いたら、普通であれば一生懸命暗記しますよね。ところが、彼の場合は、ほとんど置きっぱなし。心配になって、一緒に台本を読もうか、なんて聞くんですけど、『瑤子さんの声だと役になりきれへんからいいわ』って取りつく島もない。いつ練習していたんだろうって思うんですけど、本番を迎えるとバシッと決めるんですよね。押さえるところは押さえてスッと入っていく。隣で見ていて、そういう才能に長けているなって思います」(瑤子さん)

 後年、筋トレでもその才能は発揮されるわけだが、その話をする前に、「40歳までに死ぬ」と医師から宣告されていた崑さんが、どうしてこんなに元気なのか─である。

「無病息災とはよく言うけど、僕の場合は一病息災です。周りは、『病院嫌い』『薬嫌い』でしたけど、僕は肺が片方なかったから怖がりやった。メンテナンスを心がけていたから、『病院好き』『薬好き』なんです。とはいえ、40歳を迎えたときは、『明日死ぬんかな』なんてビクビクしながら毎日を過ごしていたなぁ」

 朝、目覚めると、「よかった。生きている」。翌日も、翌々日も、その繰り返し。気がつくと、41歳の誕生日を迎えていた。

「死ねへんやん!って(笑)。何の根拠があって40歳って言っていたのか……見事にだまされましたわ」

 豪放磊落、暴飲暴食、その果てに身体を壊し、泉下の客となった昭和のスターは珍しくない。だが、酒宴の席でも崑さんはポリシーを貫いたという。

「僕はお酒を飲むにしても、グラス一杯程度だった。だけど、『伴淳三郎もフランキー堺も俺の酒を飲んだのに、おまえは飲めないのか? 生意気だぞ』と言われる。『やめてください。結構です』と突き返すとお酒がこぼれちゃって。そのままケンカになっちゃったこともありました(苦笑)」

 楽しくない場には居合わせたくない。だから、サクッと飲んで、すぐにいなくなる。ついたあだ名は、“ドロンの崑ちゃん”。「アレ? また崑ちゃんがいない!?」。まるで喜劇のひとコマである。

「飲みの席ってね、最後は必ず人の悪口に花が咲く。それを聞くのが嫌だから、ササッといなくなる。ところが翌朝、僕が『おはようございます』って挨拶するでしょ? すると、みんなの『おはようございます』がぎこちない。あ~これは、僕の悪口を散々言っていたんやろなって」

 そう笑顔を見せると、スマホの写真フォルダを器用に開き、「これ見て」と手招きする。

「この前、とあるお店に行ったらトイレに飾られていたんです。『負けるな、腐るな、焦るな、威張るな、怒るな』。これこそ、僕がイメージしている考え方そのもの。これを心がけていたら病気しなくなりました」

長生きするなら、102歳のほうが「リアルちゃう?」

 102歳まで生きると、崑さんは豪語する。

 どうして102歳なのかと問うと、「100歳だとキリがよすぎるから、102歳のほうがリアルちゃう?」と冗談とも本気とも受け取れる言葉で笑いを誘う。

 2024年5月に公開された映画『お終活 再春!人生ラプソディ』では、介護施設に入居する陽気な関西人を演じ、劇中でスクワットまでやってみせた。舞台挨拶の際、共演した橋爪功さんは、「怪物だよ」と崑さんを称し、舌を巻いた。

 “森繁のおやっさん”と呼び、敬い慕っていた森繁久彌さんは、91歳のときに出演した『向田邦子の恋文』『死に花』が俳優としての最後の演技となった。『お終活 再春!人生ラプソディ』出演時、崑さんも91歳だったから、畏怖の念を抱く先輩に肩を並べたことになる。

「仕事に対する情熱がすさまじい」

 そう感嘆するのは、崑さんがライザップに通い始めて以降、ずっとトレーナーを務める岩越亘祐さんだ。年齢差は約60歳。孫ほど年が離れている、身長185センチ、筋骨隆々のトレーナーを、崑さんは親しみを込めて「スーパーマン」と呼ぶ。岩越さんが、出会った当初を振り返る。

「50~60代のお客様の担当をしたことはありましたが、80代のお客様は初めて。第一印象は年相応に背中の丸い、足を引きずって歩くおじいちゃん。ましてや、崑さんは片方の肺がないと伺っていたので、当初は僕自身も心配をしていました。本当に大丈夫なのかなって。しかし、回を追うごとにできるようになり、86歳の身体でもきちんと筋肉がついていくことに驚いたほどです」(岩越さん)

 通常1時間でトレーニングは行われるが、崑さんは2時間かけて行う。ストレッチなどを丹念に行い、身体を十分ほぐした後、器具などを使って筋トレを開始する。

「身体の能力が上がって、それに追いついていくように筋肉が増えていった」と岩越さんが話すように、毎回少しずつ負荷を大きくしてトレーニングを続けていったという。その結果、素手で始まったスクワットは10キロのバーベルを背負うようになり、3年半がたつころには40キロまで到達した。体脂肪率は25・9%から17・1%に、筋肉量は42・4キロから45・2キロに成長した。

「僕のことをスーパーマンだと言いますが、僕からしたら崑さんこそスーパーマンです(笑)。仕事をいつまでも続けたいから身体を鍛えたいとお話しされます。熱意が衰えない姿に、僕も感化されています」(岩越さん)

 崑さんは、58歳のとき大腸がんを経験した。その後も、次第に衰えていく身体に、否応なしに“老い”を感じていた。だが、石の上にも三年ならぬ、筋トレの上にも三年。「できなかったことができるようになることが、うれしいんです」、そう言って崑さんは目を細める。

「一つ新しいことができるようになると、スーパーマンが褒めてくれるんです。人間って、褒められることが、幸せの入り口なんです。みんな、褒めることよりも、あら探しをするでしょ? 『あの人、久々に会ったら毛が薄くなったな』とかね。それよりも褒めるところを探したほうがいいんです」

 崑さん以上に筋トレにハマり、現在は週4回でライザップに通う妻・瑤子さんも、「筋トレが救いになっている」と笑う。互いに筋トレの報告をして、「すごいなぁ」なんて褒め合ったりするそうだ。

「私は、大好きなイタリアを今でも1人で旅行するんですね。そういったことができるのは、崑さんが元気で、1人で家にいても問題ないから。お互いが好きなことをできているのは筋トレのおかげ」(瑤子さん)

 先述したように、瑤子さんは、「肝心なところをぐっとつかむのが上手」だと崑さんを評す。

「トレーナーがあれこれさせようとしても、彼は『スクワットだったら頑張れるわ』って自分が集中できるものを選ぶんですね。“スクワットの崑”と呼ばれるくらい、好きなことを突き詰める。いつか2人で、そろってボディビルコンテストに出場してみたいなって思っています。崑さん、どれだけ筋肉を見せられるかわからないけれど(笑)」(瑤子さん)

 崑さんと瑤子さんの影響で、ライザップには70代以上のシニア層の入会が急増したそうだ。何かを始めることに、遅いということはないのだ。

笑いは砂糖。人生を引き立たせる調味料

 取材中、その若々しさにいったい何度驚かされただろう。

「ちょっとトイレ行ってきますわ」。そう言って立ち上がると、スタスタとトイレへ向かう。ヨタヨタとはまるで無縁の足取り。戻ってくるなり、速射砲のように話し始める。

 驚くべきは、その声だ。張りがあってずっしりと響く。高齢者とは思えない、その声に魅せられ、「歌手デビューを打診した」と話すのが、自身も演歌歌手の桜おりんさんだ。崑さんとは30年来の付き合いになる。

「サービス精神があって人を楽しませるのが好きな人。そして、本音で向き合う人でもある。だからこそ、たくさんの人から愛されてきたんだと思いますよ」

 おりんさんが、崑さんの人柄を表すこんなエピソードを教えてくれた。

「昨年、千葉真一さんの三回忌があったんですけど、大村先生が弔辞をお読みになったんです。その途中、『僕だってまだまだこんなにできるのに』ってスクワットを始めたんですよ。参列者から拍手喝采が起きたほどで、しめやかな中でもユーモアを忘れない。プロフェッショナルな方なんです」(おりんさん)

 日本喜劇人協会8代目会長、喜劇人大賞名誉功労賞、旭日小綬章─喜劇役者として、崑さんは昭和、平成、令和を歩んできた。

「おもろいっていうのは、人生における味つけで、“砂糖”みたいなもんです。すき焼きをやるときに油を引いて、肉やら野菜やらを入れて、しょうゆ、料理酒を入れますよね。でも、それだけやと塩っ辛い。砂糖を入れることで、甘みが生まれて、肉の味が引き立つ。僕はね、喜劇、ユーモアというのはそういうもんやと思っています。笑いがないと、どれだけいいもんをそろえても、おいしくならないんです」

『赤い霊柩車シリーズ』で演じた石原葬儀社の秋山隆男専務は、原作ではまじめなキャラクターだった。

「台本を読むと怒ってばかりのキャラクターだったから、面白みが生まれない。そこで、原作者の山村美紗さんに直談判して、砂糖を加えていいか聞きました。ダメやったら降板しようと思っていたんだけど、美紗さんから、『何言ってんですか。あの役を面白くしてもらうためにオファーしたんです』と言っていただきました」

 秋山専務は、シリーズ屈指の人気キャラクターへと昇華した。

「ほんまにありがたいことです。僕が死んだら、目の覚めるような赤色の霊柩車で見送ってもらうつもり。喜劇役者らしくていいでしょ?」

 92歳。まだまだやりたいことは尽きないと笑う。

「おもろいことを言おうとか、そんなことは気にしなくていいんです。自分が、その場の砂糖になるつもりで振る舞う。すると、おのずとおもろい場になっているんです。皆さんも、砂糖の気持ちを忘れないでください」

 喜劇役者は砂糖の味を知っている。

 だが、その存在はずいぶん少なくなった。「支える人、受け継ぐ人がいなくなってきている。悲しいことやね」と視線を落とすが、「せやから、僕がやらなあかんのです」とすぐに前を向く。

「何げない瞬間を大切にすることです。昔は、散髪屋さんで髪を切ってお金を払うと、『まあお掛け』言うて座らされて、雑談が始まりました。どこどこのおかんが病気になったとか、あの店が儲かっているらしいとか、日常会話が始まる。『まあお掛け』の時間がなくなってきていることで、面白みも失われていっていると感じるんです。そういう瞬間があるから、人間っておもろい。そういうことを含めて伝えていけたらって思っているんです」

 喜劇の魅力を伝えるために身体を鍛える。崑さんの“今”は、年齢に関係なく心身が直結していることを雄弁に物語る。気持ち次第で、人生はおもろくなる─。

 大村崑は時代を超えて、全身で人を喜ばせ、楽しませ、驚かせ続ける。

<取材・文/我妻弘崇>

あづま・ひろたか フリーライター。大学在学中に東京NSC5期生として芸人活動を開始。約2年間の芸人活動ののち大学を中退し、いくつかの編集プロダクションを経て独立。ジャンルを限定せず幅広い媒体で執筆中。著書に、『お金のミライは僕たちが決める』『週末バックパッカー』(ともに星海社新書)がある。

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