「ものすごい誹謗中傷だった」リポーター・阿部祐二、台風やらせ疑惑の裏側と天職の原点
週刊女性PRIME / 2024年9月8日 17時0分
「加藤さん、事件です!」
日本テレビ系情報バラエティー『スッキリ』で毎朝おなじみだったこのセリフ。視聴者の心をわしづかみにし、事件リポーターとして誰もが知る存在となった阿部祐二(66)。もともとは'06年の番組スタート時に、演出家からキャラづけのために指示されたものだったという。昨年3月に『スッキリ』は終了したものの、「事件です!」は今や彼の代名詞だ。
リポーター・阿部祐二の代名詞
「よくほかのリポーターたちに『自分のワードを持っていてずるい、絶対かなわない』と言われるんですよ。最初のころはわからなかったけど、今は大きなものをいただいたなと、ありがたみを感じてます」
このセリフとともに、さまざまな事件を届けてきた彼のリポートスタイルは、世間の人がイメージするものとはかなり違う。下調べや現場での取材交渉など画面に映らない部分を自ら行うことはもちろん、無理強いしない低姿勢で丁寧な聞き方、相手が子どもでも敬語で話す謙虚さ。
相手の心に寄り添うような人間味あふれる姿から、災害現場で被災者から相談を受けることも珍しくない。さらにはネイティブクラスの英語力で海外取材もお手のものだ。
現在の主戦場は、昨年4月から出演しているTBS系情報番組『ゴゴスマ』。午後の情報番組の中でも最近、視聴率がひときわ好調だ。
「少ししか協力できてないかもしれないけど、数字がいいとやっぱりうれしいですね。『ゴゴスマ』は、『スッキリ』の色がついていた僕を“うちでやってください”とすぐに迎え入れてくれた。その恩は忘れないし、まだまだ返せてないなと」
そんな彼の究極の目標は、リポーターを究めること。
「やっぱり“たかがリポーター”ではあるんですよ。でも僕は“されどリポーター”にしたい。『俺は“されど”だぞ』という存在を目指しています」
かつては現場で新聞など報道の記者たちから「おい、ワイドショーのリポーターが来たぞ」と意地悪く言われた。だが、“絶対におまえらに負けない”と心に誓い、数々のリポートでそれを証明してきた。今では「あ、阿部さんが来た」と言われるまでになったが、阿部はそこに安住しない。まだ伸びしろがあると、日々、努力を重ねている。
負けず嫌いで、常に一番を目指す。彼の生きざまは、どのように育まれたのだろう。半生をたどってみると─。
相撲部屋からスカウトも 一番にこだわったスポーツ少年
1958年、東京都板橋区で阿部は生を享けた。家族は父、母、そして2歳上の兄。父はタクシー運転手で、彫りの深い顔立ちは母譲り。子ども時代の阿部はスポーツ少年。マラソン大会で誰にも負けないよう、練習で朝5時から走っていた。しかも、ただの1位では満足しない。2位を1周遅れにして勝たないと気がすまなかったというから、筋金入りの負けず嫌いだ。
「大会で1周目から猛ダッシュしてると、コースの内側で“おまえ、何やってるんだ”“最後まで持たないぞ”って先生が怒ってるのが聞こえるの。でもそうしないと1周遅れにできないからさ。そのために必死で練習してた。親父は喜んでたね。親父が自慢できるのは子どもの運動会のときだけだったから」
小学校時代は相撲と野球に没頭。相撲では夏休みに父の地元、山形県酒田市の大会で4連覇する。
「今年7月末に酒田で水害が起こったとき、リポートで現地に行ったら、運転手の方が俺を知ってたんだよね。『小学校のとき毎年、日和山公園に来てたでしょ』って。“東京から来て優勝をかっさらっていってた子が、あの阿部っていうリポーターだよ”って噂になっていたみたい(笑)」
最初は「好きだから自分でやってみた」という相撲。その後、東京・練馬にあった“豆相撲団”に通うようになり、相撲部屋からスカウトされるほどに。体形はそのころから細身。骨が太く長身の“ソップ型”だった。
「当時は握力がやたらと強くて、まわしを引く力がすごかったんだよ。それで評価された」
だが相撲の道には進まず、野球も私立の中学からスカウトが来たが、「自宅の玄関から(区立の)中学の校門まで30秒なのに、なんで私立に行かなきゃいけないんだという話になって」、相撲と野球は小学校までで終了となった。
スポーツ一色の子ども時代。テレビとは、どんな関係だったのだろう?
「コント55号の公開生放送にハガキで申し込んで見に行ったりしたくらいかな。ほとんど見なかった。アニメも『巨人の星』くらい。兄貴が『ゲゲゲの鬼太郎』が好きで、覚えてるのはその2つだけですね。今クイズ番組に出演してアニメの問題が出ると、まったくわからなくて」
女性アイドルに夢中になることも一切なかったという、硬派一直線な阿部少年であった。
スポーツ少年が一転、猛勉強して進学校へ
自宅から目の前の中学では野球部がなかったためサッカー部に入部。そのサッカー部は都で3位に入る強豪で、部員は80人の大所帯。校内一のスター部活で、3年生の兄が副部長を務めていた。
「兄がスターだったから、入りやすかったんだよね。『阿部さんの弟って、どんなヤツなんだ?』って、みんなが見にきて(笑)。しかも、実力なんてないのに、ひいきで1年でベンチ入りして、最後の5分間、試合に出るという。もう、2年生に妬まれてね」
その結果、練習中にタックルをかけられて、右腕の骨を2本複雑骨折してしまう。サッカー番組のスパイクプレゼントに当選し、「これ見よがしにカッコつけて履いて練習に出た」末の大ケガ。しかし、カッコつけたがりな性分は、こんなことではびくともしない。ギプスで固定し三角巾でつった状態で練習に参加。すると、またタックルをかけられ再度骨折。父から「おまえ、いいかげんにしろ」と怒られ、サッカー部をやめることになった。
だが、オールウェイズ負けず嫌いの阿部。今度は勉強に没頭するようになる。
「治療中はずっと勉強。右腕が使えなかったから、左手で字を書いて。だから今でも左手で書けるんですよ。勉強で一番にならないと気がすまなくなってね。月に1回模試があったんだけど、一番じゃないと機嫌が悪くなって人に当たってた。自分が点取れてないんだから、しょうがないのにね(笑)」
父は、「勉強しろ」とはひと言も言わず、それより身体を壊すような行いを怒る人だった。そのため、勉強は二宮金次郎方式。
「親父はタクシーの仕事が終わって夜中の2時とか3時に帰ってくるんだけど、見つからないようにライトを消して、暗い中で勉強してました。そのときから“四当五落”の4時間睡眠生活が始まるんだよね」
また、リポーターの根源ともいえる、人の前で何かを話すことへの意欲が生まれたのも中学時代。生徒会長に立候補し、7~8人の候補者の中から当選を果たす。水曜の5、6時間目は全校生徒を前に熱く演説。脚を投げ出して座る生徒には「ちゃんと脚を中に入れろ」、だらしない姿勢の生徒には「きちんと座れ」と、まくし立てた。
勉強に邁進していた阿部だが、受験で思わぬ悲劇に見舞われる。第一志望の開成高校の受験当日、勉強のしすぎで38・9度の高熱が出て受けられなくなったのだ。その結果、進学先は都立小石川高校に。小沢一郎や鳩山由紀夫が卒業した名門校だが、阿部にとっては不本意だった。
「嫌みっぽく聞こえちゃうだろうけど、人の2倍3倍も勉強していたから当時はショックでしたね」
だが、ここで無気力にならないのが阿部。再び夢中になれるものを見つけた。それは中2から始めた剣道。部活で朝練、昼練、放課後の全体練、帰宅後は道場に通い、朝から晩まで剣道漬けの日々を送る。そのかいあって、最高成績は個人戦で都大会16位。だが、
「俺の性格を考えたら、それで満足するわけない。ベスト16なんて恥ずかしい、みたいな(笑)。己を知らないのが、俺の最大の欠点なんだよね」
そして大学受験に突入するのだが、ここでもまた一番にこだわる癖が出る。
「剣道ばかりやっていたのに、東大の文一(文科一類。文系の最難関)しか頭になくて、高3のときはそこしか受けなかった。親は『ほかのところも受けてよ』と言っていたけど。一浪のときは無理やり上智も受けさせられて、受かって入学金も払ってもらうんだけど、行かず。次の年に早稲田に合格して行くことになりました」
早稲田大学在学中にスカウト 芸能界へ
こうして、当時の心境としては“大失敗”の結果、私立の最難関・早稲田大学政経学部に進学。だが、ここでも無気力になっている暇はなかった。縁あって『POPEYE』や『MEN'S CLUB』というファッション雑誌に出たり、ファッションショーでランウェイを歩くようになる。
大学2年のときには飲料水のCMで1か月、サンフランシスコ郊外でのロケ。自分の英語力を試したり、現地で知り合いもできるなど、現在に続く英語スキルを磨くきっかけとなった。ギャラも破格で「札束が立ったんだよ」と笑う。マクドナルド江の島店開店時のCMにも出演するなど、大きな仕事を次々とつかんでいった。
「大学は試験のときだけ行って、ほかは全部仕事。試験は友人のおかげで何とか乗り切ってました」
順調なモデル業だったが、大学4年で役者業へ方向転換する。初仕事は'83年放送の連続ドラマ『婦警さんは魔女』。藤岡弘、につけてもらった芸名“伊達祐二”で1クール13話にレギュラー出演する。
「だけど次に決まったドラマ『悲恋』('83年。八代亜紀さん主演で阿部はその相手役)で、プロデューサーから『芸名だと新人っぽくないから、本名に戻してくれ』と言われて。せっかくつけてくれたのに藤岡さんには不義理を働いちゃったな」
そんな中、少しだけ就職活動をしたことも。大手新聞社の一次試験にも受かった。だが、
「紹介してもらった人の手前、一応、受けたという感じ。でもここでジャーナリズムをやりたいという気持ちが少し生まれて、その後につながっていくんです」
リポーター・阿部祐二の萌芽。だが、結実までには10年間のつらい役者人生があった。『不良少女とよばれて』('84年)や二谷英明さん主演の人気シリーズ『特捜最前線』('77年~'87年。阿部は'85年から最終話まで)など話題のドラマに出演し仕事自体は順調だったが、現場での陰口やいじめが続いたのだ。
「二谷さんとか八代さんとか、優しくしてくれた人ももちろんいたけど。下っ端だから、大御所の人が画面に影を出しても『おまえ、何やってんだ!』ってスタッフに俺が怒られて。ご本人が『出したの、俺だよ』と言うと、『あ、そうでしたかー』とか。空き時間に英字新聞を読んでると、『そういう態度が気に食わない』と言われたり。でも、ここでやめたら負け犬だと思って、我慢して続けていた」
生涯のパートナーとの出会い
そんな役者時代に、のちに妻となる阿部(旧姓・礒村)まさ子さんとの出会いが訪れる。当時、人気プロゴルファーだったまさ子さん。始まりはスポーツジムだった。
「ちょうど『特捜最前線』でファンとのハワイ旅行があって、ゴルフコンペで優勝したんです。それでルンルンで帰ってきて、ジムで『今度一緒にゴルフやらない?』なんて声かけて。プロゴルファーだと知らなかったから。家内は『いいですねー』とか言って、職業を明かさないわけ。
あとでトレーナーが教えてくれて、慌てて謝りに行ったら、『いいんですよ。よかったら今度、試合を見にきてくれません?』って誘ってくれて。俺らしいでしょ、ちょっとコンペで優勝したくらいで“教えてやるよ”なんて。だからダメなんだよなあ」
まさ子さんは、当時のことをこう振り返る。
「話しかけられる前から鏡越しに私を見ていて。たぶんシャイだったんですね。あまり意識してなかったんですけど、試合に応援に来てくれたとき、大勢の人がいる中で彼だけパッと浮かび上がっているように見えて、“この人は特別な人になるのかな”と」(まさ子さん)
'88年、二谷英明さん・白川由美さんの仲人で、ふたりは結婚式を挙げた。このとき、阿部は家庭教師を派遣する有限会社を立ち上げる。大学時代に始めた家庭教師業を、役者になってからも“この仕事は大変だから収入源をほかに持っておけ”とアドバイスを受け、続けていた。結婚を機に、自分も教えつつほかの教師も雇う会社組織にしたのだ。
「結婚するから収入を安定させるために。バブルの時代で、ものすごく成功したよ。教えた子たちが有名校に入ってくれて、ギャラも上がってね」
リポーター仕事との出合い
“これは俺が続けていく仕事ではないなあ”と思いながらも続けていた役者業。そこに転機が訪れる。35歳のとき、リポーターをやらないかと声をかけられたのだ。やりたいと言ったこともなく、まさに青天の霹靂。だが、“こういう仕事、昔やろうと思ったな”と、新聞社の就職試験を受けたことを思い出す。
「なぜ声をかけられたのか、今でもわからないんですけど。テレビ朝日の『ニュースステーション』をやっていた方が、『やってもらいたいけど、うちでは難しそうだからTBSを紹介する』と。それでTBSの『ザ・フレッシュ!』という情報番組で初めてリポーターをやったんです」
このとき、リポーターの仕事に集中するため、家庭教師の派遣会社を畳んだ。まさ子さんは、「挑戦してみたら?」と背中を押してくれたという。
「家内には感謝しかないよね。会社の収入が安定していたのに、全部捨ててリポーターをやるなんて普通は不安でしょ。しかもそのとき、娘(桃子さん)がお腹の中にいたし。よくやらせてくれたと今でも思います」
だが、まさ子さんには不安はなかった。
「それまでもいろんなことを突破してきた人だから、いい転機かなと思ったんです。また私が妊娠中もゴルフを教える仕事をしていたので、金銭面もなんとかなるだろうと」(まさ子さん)
'94年、36歳でのリポーターデビュー。最初は事件ではなく、結婚直前の女性に取材するという特集企画だった。そこに『つくば妻子殺害事件』が起き、初めて事件リポーターとして中継を担当することに。
「これはひどいリポートだった! 捜査員や鑑識の人が動いているのに何の言葉も出てこなくて、庭にゴールデンレトリバーがいたから『ゴールデンレトリバーがいます!』とだけ叫んでいた」
そんな失敗にもかかわらず、チーフプロデューサーが使い続けてくれたおかげで場数を踏んでいく。そしてTBSでの番組が終了すると、日本テレビ『ルックルックこんにちは』へ。時は20世紀末。阪神・淡路大震災やオウム真理教事件、神戸連続児童殺傷事件など、日本中で大事件が立て続けに起きていた。
ベテランリポーターたちが全員取材に出払った後、阿部しか残っていない状況で事件が起これば、新人の彼が行くことになる。
「それで、どんどん大きな事件をメインでやるようになっていきました。名うてのリポーターがいるのに。なぜかというと、俺が誰より早く現場に行くから」
もちろん、それだけでメインになれるわけはない。この仕事を始めてから生まれた“されどリポーターと言わせてみせる”という目標を実現するため、すさまじい勉強を始めたのだ。
「情景描写の訓練のためにボキャブラリーを増やしたくて、本を読みまくったり。島崎藤村の『千曲川のスケッチ』はとてもためになりましたね」
毎朝、新聞5紙を読む
毎朝、新聞5紙を読み、『ジャパンタイムズ』を持ち歩く。扱う事件の情報は事前にすべて頭の中にインプットしていた。しかも、これは「除外するために」というから独特だ。
「ほかの媒体がすでにやったことは、僕にとっては除外の対象。『それ、もうやってたよ』と僕が言うとディレクターは嫌がったけどね(笑)」
'01年の9・11アメリカ同時多発テロ事件ではニューヨークに3週間滞在して、取材を敢行。通訳なしで現地の人々にインタビューし、英語に対する自信を深めた。
90分の番組中、最初から最後まですべてのリポートが阿部になったこともある。
「スケジュールを聞かれて、全部空いていると答えただけなんだけどね。ほかのリポーターには『なんで阿部さんだけ』って、すっごい言われた(笑)」
'06年からは『スッキリ』がスタート。司会の加藤浩次に呼びかける「加藤さん、事件です!」のセリフも話題を呼び、阿部は一気に全国区になる。さらに多忙になり、ほとんど家にいられない日々。まさ子さんは「娘には小さいころから『予定は未定よ』と言っていました」と語る。
「家族で旅行に行っても、大きな事件が起きたら主人ひとりで帰るんです。それでも娘と私は『行ってらっしゃい』と気持ちよく送り出していました。時間がある限りは一緒にいたいという彼の気持ちがこちらにも伝わっていたから『頑張らなきゃね』って。ただ、夜中に電話がきてタクシーで遠方に行くときなどは、かわいそうだなと思ったりもしましたね」(まさ子さん)
子育てで困ったことはないというまさ子さんだが、唯一の難点は阿部が娘を叱れないことだという。
「娘に嫌われるのがイヤだから。3人で座っているのに『それはダメだよね』と私に言ってきて、それを私が娘に伝える、なんてこともありましたね(笑)」(まさ子さん)
代名詞となった“台風やらせ”リポート疑惑
数々の取材で“事件リポートといえば阿部”と言われるまでになった『スッキリ』時代。だがその分、やっかみや危険な目に遭うこともあった。
ある事件では、主要関係者の独占取材に成功し、連日スクープを叩き出すが、同業者たちから「阿部が止めてるんじゃないか」と疑われたこともある。実際は、ほかの取材も受けなきゃいけないかと相談され、「それはそちらの自由ですよ」と答えただけにもかかわらず。少年犯罪の関係者を運河で取材する際は、「突き落とされるかもしれないから守ります」と、ディレクターが後ろについたこともあった。
中でも大きな騒動となったのが'05年、鹿児島での台風リポート。大風を受け座り込んでリポートしていた阿部が、終わると立ち上がって歩き去ったので、「やらせだ」と大炎上してしまったのだ。実際の状況はどうだったのだろう?
「あれは鹿児島読売テレビの敷地内からの中継で。準備でディレクターが外に出たら飛ばされそうになるくらい、すごい風だった。だから中継では飛ばされないよう、クラウチングスタイルをとったんです。それで中継している間に左に寄っていったみたいで、庇の下に来ていて。終わるとパタッと風が弱くなったので立って歩いたら、“屈んでいたのはやらせだったのか”と、ものすごい誹謗中傷だった」
世論は阿部を猛攻撃。阿部の所属事務所、テンダープロの代表・井内徳次さんも「あのときは事務所のホームページに、ものすごい量の書き込みが来ました」と振り返る。なんと大手新聞の社説に、やらせ問題として実名入りで載るほどの事態となった。風は弱くなることもある。しかも庇の下に来ていた。だが説明したくても、何も言わないようにと局から止められる。
「数年後にそのときのスタッフに会ったら、『私たちがちゃんと説明していれば、阿部さんがあそこまで言われることはなかった』と涙目で言われてね。『いや、いいんだ。僕はただの石。何を言われても言い返せないから』と答えたんだけど。家族にも迷惑をかけて、かわいそうだったな」
だが、まさ子さんは「迷惑をかけられたということはまったくないですよ」と言う。
「私の周りはみんな味方で応援してくれましたから。主人を悪く言う人はひとりもいなかった。
それにリポーターは芸能界の一部だから、誹謗中傷がついて回ることは娘も私も理解していました。それより、主人が“実際はこうだった”と説明したくてもできずに、我慢している姿を見るのがつらかったです。何とかしてあげたいなと思っても、聞いてあげることしかできなくて」(まさ子さん)
生死をさまよう事故に 東日本大震災の十数時間前だった
'11年3月11日深夜。東日本大震災の十数時間前に、阿部は交通事故に遭う。タクシーで帰宅中、側面から乗用車が衝突したのだ。意識不明で集中治療室に運ばれ頭を十数針縫う大手術に。「事故のことはまったく覚えていない」と言う阿部に代わって、まさ子さんに聞いてみると、
「その日は那須の牧場に取材に行っていて。夜中1時くらいに『帰るよ』と電話が来たんです。しばらくすると、今度は家の電話が鳴って事故に遭ったと。うちのすぐ近くだったから、娘と大慌てで駆けつけたら血の海で。
救急車に乗るために貴重品を持っていってくださいって言われて荷物を見たら、チーズケーキがあったんです。那須の牧場で買っていたの。私、涙が出ちゃって……」(まさ子さん)
明け方、手術が終わり病室に移る。だが、首が痛いと繰り返す阿部を心配し、まさ子さんはCTを撮ってくれないか、と病院に頼む。X線検査では何もなかったが、こんなに痛がるのはおかしい、と。結果は第2頸椎骨折。そして午後2時46分、東日本大震災が発生する。
「朦朧とはしていたけど、ベッドを3人くらいで押さえつけていて、振り落とされそうなくらい揺れたのを覚えてます」
と阿部。まさ子さんは、「すごく揺れて、それでも主人はむくっと起き上がって『行かなきゃいけない』って言うんですよ」と振り返る。
「だから、神様がもう行くなって言ったんじゃないかなって。事故の前はチリに取材に行ったりして、疲れがたまっていたみたいなんです。朝のジョギングから帰ってくると、動悸がすると言っていたし。少し休みなさいって、神様が行かせないようにしたんじゃないかと思うんですよね」(まさ子さん)
入院中は毎日、夕ごはんを作って持っていき、家族3人で食べていたという。それまでの阿部家ではほとんど持てなかった時間だ。
この事故で人生観が変わったという阿部。震災の取材ができない焦りよりも、生かされたという気持ちが大きく、復帰できるだけで御の字という心境になった。
「“自分が一番だ”という感覚がなくなって、仕事に対するありがたみを実感するようになったんです。仕事をいただけた、ありがたい、一生懸命やろう、という感謝の気持ち。以前の俺からは考えられないけど(笑)」
入院は44日。全治6か月以上だったが、6月上旬には『スッキリ』に復帰した。しゃべるとき以外はコルセットをつけるということで医師の許可が出たのだ。
「現場に行かないといけないという駆り立てられるものがあって。家内には『何を考えてるの。黙って入院してればいいのに』って言われたけどね(笑)」
挑戦は終わらない。さらなる高みへ─
誰よりも早く、誰も見たことがないことをスクープし続け、他の追随を許さない存在になった阿部。だが、“自分もやれる”と感じられるようになったのは、ここ5年くらいだという。ちょうど『スッキリ』の後期、ほんの最近のことだ。それはまさに日々の勉強のたまもの。
リポートでは毎年、違う表現にすることを自らに課している。桜に関する本は岩波新書からハードカバーまで、本屋で片っ端から購入し、使えそうな表現をピックアップ。絶対にほかのリポーターが言わないようなことを随所に入れようと意識している。
また食リポでは“おいしい”とは言わない。おいしいのは当たり前だから、違う表現を常に考えている。
最近は、『ゴゴスマ』で昼の顔としても定着してきた。
「『昼間に見てますよ』と声をかけてくれる人も出てきて、うれしいですね」
声をかけられるといえば、前出の井内さんからこんな証言も。
「地方で阿部が歩いてると、事件だと思われるんですよね。映画の撮影で来たのに、『何かあったんでしょ? 教えてくださいよ』って(笑)」(井内さん)
これには阿部も「よっぽど事件をやってたんだねえ」と苦笑する。
最近、ハマっているのは韓国語の勉強。韓国関連の仕事が決まっているわけではないが、いつかやりたいと猛勉強中だ。今では字幕なしで韓国ドラマを見ても、だいたいわかるようになったというからすごい。
これからやっていきたいことは、ほかにも山ほどある。
「いじめや虐待、少年犯罪などの社会問題は、いつもやりたいと思ってます。児童相談所にも関わってきたし、拘置所にも何回も行っていて、実は得意分野なんですよ。あと、国際政治の勢力均衡が大学時代からの専門なので、政治もやりたい。ただ、これはリポーターの出番がないからなあ」
コメンテーターとしての顔もいつか見てみたい!
66歳になった現在も、知力、体力、気力、すべてフル満タン。
まさ子さんに家での様子を聞くと、
「小さなジムをつくってエアロバイクやダンベルトレーニング、筋トレなどをしたり、ゴルフが好きだから短いクラブで素振りをしたりしてますよ。四六時中、何かやっていて、静かだなと思うときは寝てるとき(笑)」
と、ほのぼのする様子を教えてくれた。
井内さんは、「阿部がやめたら、リポーターという職種がなくなってしまうのではないか」と語る。
「昔はひと番組に10人くらいリポーターがいたけど、今はリポーターがいない番組もある。そうすると現場とスタジオのやりとりで生まれる臨場感やナマ感が出ないじゃないですか」(井内さん)
そう、だからこそ私たちにはまだまだ“事件です!”が必要だ。AIがリポートやニュースを流暢に読めたとしても、生の声にはかなわない。
「はっきり言って、リポーターは絶滅危惧種で、消えてしまうかもしれないと思っています。
でも俺は、“この人が伝えるから見たい”と思われるようになりたい。それはテクニックではなくて、マインド。悲しい事件でも楽しい話題でも、基本にあるのは“人に聞く”ことで、いかに相手の気持ちに寄り添って思いを引き出すか、だから」
ほかとは一線を画した唯一無二の存在として、“されどリポーター”を確立したい─。常に一番を目指してきた男は今、自分史上最高の一番を求め、さらなる頂点へと走り続ける。
<取材・文/今井ひとみ>
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