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「大人になるって、素敵」菊池桃子、年を重ねて気づいた“本物”になるということ

週刊女性PRIME / 2024年9月14日 21時0分

菊池桃子 撮影/伊藤和幸 ブラウス:Soclose,/スカート:DAMAcollection/ピアス:NATURALIJEWELRY

 10代のころはどこにでもいるようで、かつどこにもいない可愛らしさで知られたアイドル。人気絶頂期には、衝撃のロックバンド結成宣言も……。歌手として、女優として歩んできた彼女がデビュー40周年を迎え、考えていることとは。「会った人の数、流した涙の数、笑ってきた数」を重ねてきた人生を振り返ってもらった。

スカウトされた時は“反抗期”の真っ最中

 2024年4月にデビュー40周年を迎えた菊池桃子。トップアイドルの道を駆け上がり、歌手として女優として、結婚・出産・子育てを経て今なお精力的に活動中。そんな彼女にこれまでの人生を振り返ってもらった。

 芸能界に入ったきっかけは、当時のアイドルの定番「スカウト」だった。

都内で飲食店を経営していた叔母が、お店の目立つところに親戚で撮った集合写真を飾っていて、それをたまたまプロダクションの関係者の方が見てくださって、一度私に会ってみたいと……。思いもしなかったことで、家族で驚きました。

 実はそのころ、私は“反抗期”の真っ最中だったんです。徐々に自立心が芽生えていた中学生のころで、両親に決められた門限や行動範囲の制限に対して、漠然と不満を持っていました。そんな気持ちもあり、お話をいただいた際に、違う世界を一人で見ることができるいいきっかけだと思い、『やりたいです』と返事をしました。

 それからレッスンに通い始めたのですが、実際にデビューできるとは考えていませんでした」(菊池、以下同)

 デビューは1984年。先駆けて、自身の名を冠した新創刊のアイドル雑誌『Momoco』のイメージガールとして表紙を飾ったのち、立て続けにスクリーンデビュー、歌手デビューと、元祖・メディアミックスアイドルと呼ぶべき華々しいデビューを飾った。

「普通の女の子」という親しみやすいイメージと、独特のウィスパーボイスで歌う姿に“桃子人気”は、どんどん加速していく。

1枚目、2枚目のシングルが発売されたころは、オリコンのランキングが、スタッフのみなさんの期待ほどではなかったようです。実際まだ認知度は低く、全国をキャンペーンで回っているときも、人が来ないこともたくさんあって。スタッフさんだけの前で歌うようなこともあったので、自分としてはとんとん拍子でいったとは思っていませんでした

 人気を実感してきたのは、デビューから半年くらいたってからだったという。

「私はどこにでもいるタイプというか、背格好も平均的で目立たなかったので、デビュー後も普通に電車で通学していました。でも、3枚目の『雪にかいたLOVE LETTER』というシングルを出したころでしょうか。他の学校の生徒さんたちに『菊池桃子じゃないか』って囲まれて、乗り換え駅で降りられなくなったことがあるんです。そのころからは通学の際は顔を隠したり、うつむいたりするようになりましたが

 注目が集まっていく中、レコード大賞の新人賞を辞退するなども話題となった。

当時私が所属していた事務所『トライアングル・プロダクション』は、音楽系のアーティストだけがいる音楽事務所で、私が初の所属アイドルでした。賞レースには積極的ではなかったというか、出ない方針だったと思います

 人気アイドル歌手としての地位を確立した彼女だったが、1988年に突然「ロックバンド『RA MU(ラ・ムー)』を結成する」と記者会見を行う。従来のファンたちには衝撃が走った。

伝説となる“ラ・ムー宣言”

 大人っぽい歌詞に、エッジのきいた衣装、バックに従えた外国人女性コーラス2人。ロックというよりR&Bやフュージョン的な通好みのサウンド……。のちにアイドル史の伝説となる“ラ・ムー宣言”である。

そのころ所属していた音楽事務所は、スタッフはそのままに音の作り方が変わっていく時期でした。私がやる音楽の方向性も変化した結果、ラ・ムーとして活動することになりました。私は、絶対的に信用しているスタッフと一緒に新しい段階に行こうと、ただ前向きに考えていて。今のようにSNSがあったわけではないですし、私自身は周りの声を聞いていないので、当時どう思われていたかはわかりませんでした

 セールスとしてはアイドル時代にはかなわなかったラ・ムーだが、近年、海外を中心に起こった“シティポップ・ブーム”で再評価され、アイドル時代の楽曲とともに全世界で愛されている。

単純に外国の方にも知っていただけているのはうれしいですね。当時のプロデューサーは『大人になっても歌い手も聴き手も照れることなく、棚の奥にしまい込まずにずっと聴けるようなものを作る』とおっしゃっていて。今配信で国内外の方に聴いていただけているっていうのは、そういうことなのかなって思います

 短大へ進学し、’90年代は女優業に活動の軸を移していった。いわゆる“トレンディードラマ”を中心に数多く出演してきた。

単位修得が落ち着いて、連ドラの仕事が受けられるようになり、オファーをたくさんいただきました。特に『恋のパラダイス』(1990年・フジテレビ系)というドラマのとき、私は22歳だったのですが、10代から仕事をしていたせいか、すごく自分が大人になって、遠くまで来てしまったような気がしていました。

 でも、私のお姉さん役として共演していた浅野ゆう子さんを見ていたら、1日1日を新鮮に楽しみながら、挑戦する意欲を持ってお仕事に臨んでいらして。その素敵な姿を見ていたら『あれ? 私ってまだまだ始まったばかりなのかな?』と、心の“仕切り直し”ができたようで、印象に残っています」

 その後、結婚・出産・子育てを経験しつつ、2012年には法政大学大学院で修士号を取得するなど、“学び直し”も積極的に行っている。そんな多忙を極めつつも、身内の介護に対しても時折ブログなどで発信しており、世間の共感を得ている。

「知らないことを知ろうとする意欲っていうのは今も消えていなくて、今はその対象のひとつがアニメの『ONE PIECE』です。自分の子どもはポケモンが好きだったので、私は今まで知らなくて。

 登場人物になぞらえてお話をされる方もいて、共通言語みたいになっているので、これを知らないっていうのは厳しいなと思って。映画版もチェックしているので、果てしないですね(笑)。もし時間がもっとあったら、他にもやりたいことがたくさん見つかっちゃうんだと思います

 デビュー40周年の今年は「歌」に集中すると語る。自身初となるインストアイベントや、ビルボードライブでの単独公演、プラネタリウムライブツアーなどを予定。年齢を重ねたからこそ、表現できる歌を、一人でも多くの人と分かち合いたいという。

アイドル時代『テラ戦士ΨBOY(サイボーイ)』という映画に出演しまして、その主題歌だった『BOYのテーマ』を、今でもよく歌っています。その映画を撮った当時、10代のころにその歌詞に対して違和感なく歌えていた歌が、今はまた違った世界観で歌うことができて、昔と今をつなげている一曲だという気がしています。

 同じ歌でも違う気持ちで歌えるのは、やっぱり経験の多さや、会った人の数、流した涙の数、笑ったりした数がそうさせてくれていると思います。『老ける』という言葉が表すように、年を重ねることにはネガティブなイメージもありますが、実際は年を重ねるって、自分自身を踏まえると、だんだん『本物』になっていくような気持ちを感じています。

 今まで表現しきれなかった自分も、もっと上手に伝えられるようになっていくと思います。……大人になるって、本当に素敵ですよね」

 あのころと変わらぬ可憐さを保ったまま、聡明さも兼ね備えた、素敵な“大人”になった菊池桃子。デビュー40周年イヤーはまだ始まったばかりだ。

取材・文/高松孟晋 

きくち・ももこ 1968年、東京都生まれ。1984年に映画『パンツの穴』でスクリーンデビュー、同年にシングル『青春のいじわる』で歌手としてもデビュー。現在は歌手・女優のほか、大学教員としても活動。9月18日に40周年を記念したベストアルバム『Eternal Best』(バップ)発売。デビュー40周年イヤーとなる本年は、自身初となるインストアイベントや、プラネタリウムツアー、1stアルバムツアー、ビルボードライブ単独公演など多数のライブを予定している。

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