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「動けなくなった自分が面白くて」脳出血で右半身不随、“左手のピアニスト”舘野泉の原動力

週刊女性PRIME / 2024年10月27日 17時0分

ピアニスト・舘野泉(87)撮影/佐藤靖彦

 小泉八雲といえば『耳なし芳一』をはじめ怪談で知られる作家だが、『振袖火事』という物語はご存じだろうか。

『振袖火事』という物語

 ある商家の娘がすれ違った美しい侍に一目惚れをする。その男が着ていた着物と同じ柄の振り袖を作って思いを募らせるが、思いが高じて振り袖を脱がなくなり、ついには病気になって死んでしまった。娘が埋葬された菩提寺の住職は、娘が着ていた立派な振り袖を古着屋に売ったものの、その着物に袖を通した娘たちは次々と死んでしまう。住職は呪われた振り袖として寺で燃やすことにすると、振り袖が舞い上がって江戸の町を燃やしてしまった─。

 これは1657年に起こった「明暦の大火」を題材にしており、娘の情念の深さが大火の原因であったという怪談である。

 この小泉八雲の怪談の世界をピアノで演奏して魅了するのが、「左手のピアニスト」と呼ばれるクラシック界のレジェンド、舘野泉だ。舘野の友人であったフィンランドの作曲家、ペール・ヘンリク・ノルドグレンが、脳出血で右手が使えなくなった舘野のために作曲したのが、『小泉八雲の「怪談」によるバラード2 作品127』(2004)だった。

 2024年9月20日、旧東京音楽学校奏楽堂では、故・ノルドグレンの生誕80周年記念演奏会が開かれた。小泉八雲の怪談を女優の元田牧子さんが朗読後、舘野が『振袖火事』『衝立の女』『忠五郎の話』の怪談3部作を演奏する。打ちつけるようなフォルテッシモから始まり、娘の情念の揺らめきの音が会場を包み込む。左手だけで弾いているとは思えない迫力ある演奏を、観客は固唾をのんで聴き入り、演奏終了後には万雷の拍手が鳴り響いた。

 今年は6月までに日本で30公演を行い、8月にフランス、ドイツ、フィンランド、9月にインド、ブータン、ネパールでの公演を敢行。11月には88歳を記念して3つのバースデーコンサートが控えている。

 東京にあるファンクラブ(FC)は創立50年を過ぎ、札幌、仙台、南相馬、大阪、福岡のFCは創立されてから40年になる。そのほかデュッセルドルフ、マニラにも存在するなど、人気が衰えることはない。

「演奏への情熱は若いころと変わりません。来年もスケジュールはいっぱいですし、まだ引退はしませんよ」と舘野は柔和な笑顔で話す。

東京藝術大学を首席で卒業し、フィンランドを拠点に

 舘野は1936年、チェリストの父、ピアニストの母のもとに長男として生まれた。2人が自宅で音楽教室を開いていたことから、常に身近なところで音楽が響いていたという。

 きょうだいは4人で、舘野がピアノ、弟はチェロ、妹2人がバイオリンとピアノを習っていた。東京・自由が丘の自宅では、舘野がピアノの練習をしている横で弟は学校の宿題をし、妹は昼寝をしている。そんなのんびりした子ども時代だったが、後にきょうだい全員が音楽家になったというから環境の影響は大きい。

「父は『音楽家として生きていくほど幸せなことはない。子どもが生まれたら皆、音楽家に育てるんだ』と言っていたそうですが、かといって英才教育をしたわけでもなく、われわれ子どもたちは野球をしたりトンボやセミ捕り、ザリガニ捕りなどで遊び回っていました。でもそれと同じようにピアノもチェロも好きで、生活の一部として毎日弾いていましたから、自然に音楽が身につき、音楽家として生きるのは自然で自明のことだったのでしょうね」

 舘野は小学生のとき、習字の授業で紙からはみ出すほど大きな字を書いて先生に叱られたが、母は「はみ出すくらいが面白いのよ」と褒めるような人だった。

 舘野がピアノを習い始めたのは5歳。10歳のときにはドビュッシーの『子供の領分』を弾いて全日本学生コンクールで2位入賞。それからは豊増昇、安川加壽子、レオニード・コハンスキーといった一流の音楽家に師事し、ピアノの腕を磨いていった。

 中・高は慶應義塾に通い、一浪して東京藝術大学へ入学。首席で卒業した舘野は、すぐにデビューリサイタルが実現するなど、クラシック界から一目置かれていた存在だった。しかし、日本を離れて世界を回った後、27歳でフィンランドへ移住することを決めて周囲を驚かせた。

「音楽のキャリアを積むなら、ドイツやオーストリア、フランス、イタリアなどに行くことが当時の常識でした。でも従来の権威や価値観に縛られるのが嫌で、西洋音楽の伝統が強い国には行きたくなかったのです。文学や絵画、演劇にも興味があり、幅広く伝統や文化に触れたい、雑音が入らない場所で1人になってみたいという思いもありました」

 実はもともと「北」への憧れが強かった。中学生のときに北欧文学に触れ、高校時代にはペンフレンドを求めて北欧4か国に手紙を出したことがあるという。

「そのとき返事が来たのがフィンランドの女性だけで、ペンフレンドとして交流が続きました。移住を決めたときも、その女性と家族がサポートしてくれたのです」

 1964年10月、舘野はフィンランドで初めてのリサイタルを開いた。シューマン、ラフマニノフ、プロコフィエフに三善晃のソナタを演目に加え、圧倒的な演奏で日刊紙7紙で絶賛された。しかし仕事のオファーはすぐには来なかった。

「フィンランドにやってきて5か月で日本から持っていったお金が底をつき、下宿を追い出されてしまいました。そんなときに教授の仕事をオファーされ、しばらくは教職につくことにしたのです」

 そのうち演奏会の機会が増えていき、知名度も上がっていく。1968年にはフィンランド唯一の音楽大学、シベリウス・アカデミーの教授に招聘され、音楽家としての地位を確立していった。

声楽家のマリアさんと結婚して子宝に恵まれる

 シベリウス・アカデミーでは運命の出会いも待ち受けていた。のちに舘野の妻となるマリアさんは、シベリウス・アカデミーで声楽を学ぶ学生だったのだ。お互い面識はあったものの、特別な感情は持っていなかったという。

 しかし、毎夏行われるフィンランドの音楽祭で2人は恋に落ちた。階段から下りてくるマリアさんを見た舘野は、「あなた、ピアニストがいるんじゃない?」と声をかけ、運命が動き出したのだ。

 当時マリアさんは歌手として大事なコンサートを控えており、ピアノの伴奏者を探していた。ピアニストとしての舘野を尊敬していたが、多忙な彼に依頼しにくかったそうだ。

 ところが舘野のほうから伴奏の申し出があり、このタイミングで恋が生まれたのがお互いにわかったという。すぐに同棲生活が始まり、以後、50年にわたり2人は連れ添っていく。

 息子のヤンネさんと娘のサトゥさんという、2人の子どもにも恵まれた。バイオリニストとして活躍するヤンネさんは、自身の子ども時代を次のように振り返る。

「父は世界中へ演奏旅行に出かけて留守が多かったですが、旅に出ていないときは、ずっと家でピアノを弾くかデスクワークをしていました。ピアノの音がすると父が家にいることを感じられ、私は居心地がよかったのです。時々料理もしてくれて、カレーや蕎麦を食べたいと言うとすぐに作ってくれました。妹はフィンランドに住んでいますが、時々、無性に父のカレーや蕎麦が食べたくなると言っています」(ヤンネさん)

 舘野は子どもがやりたいことを尊重して、一切口出しすることがなかったという。

「私は幼いころからバイオリン教室に通っていましたが、両親共に忙しく、発表会に来たこともありません。でも自分の演奏を親に聴いてほしくなかったので、寂しいと思ったことはないんです。

 一度だけ、ミュージックスクールの試験のとき、たまたま時間があった父が伴奏をしてくれたことがありました。“Izumi Tateno”がやってきたことに先生たちは驚いていました。すごくうれしくて気分よく弾けて、帰りにハンバーガーセットを一緒に食べたことは今でもいい思い出です」(ヤンネさん)

 一方、サトゥさんは音楽の道には進まず、フィンランドの介護業界で働いている。小さいころから自分の意志を貫くサトゥさんを舘野は信頼し、見守ってきた。

「サトゥは小さいときにピアノをやめてしまいました。とてもいい感覚を持っていたのですが、ピアノの先生とうまく合わずやめてしまいました。高校生のときには校長先生とケンカして学校をやめ、1人暮らしを始めてしまいました。でも苦労しても彼女の人生は彼女のもので、僕のものではありません。サポートはしますが、理想や常識は押しつけないようにしていました」

 とはいえ、舘野は演奏旅行で家にいないことが多い。仕事をしながら、家庭のことを担っていたマリアさんの心労は大きかったはずだ。ヤンネさんはそんな両親をどう見ていたのだろうか。

「両親はお互いに音楽家として尊敬し合っていて、母は父がやりたいことを誰よりも理解していました。夕食のときはいつも2人でワインを飲みながら、いろんな話をすることをとても大事にして、楽しんでいました。でも、('23年に)母が亡くなると、手続きや家のことなど、父や私たちにはわからないことがたくさん出てきて、何も言わずに母が1人で抱えていたことを知りました」(ヤンネさん)

ファンクラブができ、岸田今日子さんと共演

 舘野の音楽活動は順調で、フィンランドを拠点にしながらも、1970年からは東芝EMIの専属になり、以後30年間で約100点以上のLP、CDをリリースした。

 1972年にはマックス・ファクターの男性化粧品のテレビCMに起用され、クラシック界で初めてFCが結成されるほどの人気となった。

 この時代、舘野のピアノに魅せられ、舘野の指導を受けるためにフィンランドに留学をした女性もいる。上野学園大学名誉教授の久保春代さんだ。

「東京藝術大学に在学中、オーケストラとのリハーサルで舘野先生の譜めくりを務める機会があったのですが、演奏を間近で聴いて、あまりの素晴らしさに衝撃を受けたのです。先生のピアノは音から色が見え、香りが立ちのぼってくるようでした。こんなピアノが弾きたい!と強い思いが湧いてきて、どうしても先生の指導を受けたくて、大学卒業後はフィンランドに留学したのです」

 それから50年以上、自身もピアニストでありながら、舘野のファンを公言してきた久保さん。

「私は理屈で考えてしまうタイプだったのですが、先生のおかげで心で音楽を育み表現することを学び、成長することができました」(久保さん)

 '80年代に入ると、舘野はヘルシンキ・フィルや東フィルの海外公演のソリストとして活躍。'90年代には音楽祭の監督をするようになり、日本では俳優の岸田今日子さんとの「音楽と物語の世界」のシリーズも始まった。

「もともと音楽と文学を融合したいという思いをずっと持っていて、やるなら岸田今日子さんしかいないと決めていました。初めて岸田さんにお会いしたとき、何も言わなくても心が通じ合う人だと確信できました。岸田さんの語りと僕のピアノでコンサートを始めましたが、どう合わせるか相談をしたことが一度もなく、阿吽の呼吸でできてしまうんです」

脳出血で右半身不随になるもリハビリを楽しむ

 今までになかった音楽と文学のセッションは大好評だったが、2002年1月、舘野は脳出血で倒れてしまう。フィンランドでのコンサート中、残り2分となったとき、右手がだんだん動かなくなっていった。最後は左手だけで弾き終え、立ち上がって、お辞儀をして歩いたところで意識を失った。

 救急車で近くの大学病院に搬送され、一命は取り留めたが、脳の出血は3・5センチほど広がっており、後頭部のためメスを入れられなかった。右半身不随の後遺症が残り、医師は舘野の家族に「彼はもうピアノを弾けないだろう」と言っていたという。

 その後、自宅があるヘルシンキの病院に移送され、リハビリが始まった。リハビリといえばつらいイメージがあるが、舘野は「とても楽しかった」と思い返す。

「全身を動かす、手先を細かく動かす、記憶を呼び戻す、文章を作って話すといった課題がそれぞれの専門家から与えられます。それがとても新鮮で、何かが目を覚ます感覚がうれしかったんです」

 リハビリから2週間たつと医師から「回復状態がいいから退院してもいい」と言われるが、舘野は「リハビリがとても面白いから、あと2週間いさせてください」とお願いしたという。自宅に戻ってからも悲愴感はなく、舘野はどんなときも前向きだった。

「転んだり、しゃがんだら立てなくなったり、そんな自分がおかしくて。マリアは後年、『リハビリ中ほど笑った日々はないわね』と話していました。当時は演奏会で世界中を飛び回っていたので、『これからはずっと私のところにいてくれるのね』なんて言いながら見守ってくれました」

 右手のコントロールはきかなくなったが、倒れてから半年後、親友のチェリストの伴奏を両手で5分ほど行った。観客は感動して泣いていたが、舘野は珍しくその夜は落ち込んだという。

「まったく歯が立たず、情けなかったのです。このとき、日本から招聘したピアニストの小山実稚恵さんがアンコールで『左手のためのノクターン』を弾いてくれました。素晴らしい演奏で、『左手だけでも活躍ができるわよ』という彼女からのメッセージだったのでしょう。とてもうれしく思いましたが、翌日には左手だけでやっていこうということなんか頭にありませんでした。きっと機が熟していなかったのだと思います」

「左手のピアニスト」としてコンサートを再開

 それから1年後、シカゴに留学していた息子のヤンネさんが帰省したとき、何も言わずに『左手のための3つのインプロヴィゼーション』の楽譜をピアノの上に置いていった。これは英国の作曲家フランク・ブリッジが第1次世界大戦で右手を失った親友のピアニストのために作った曲だ。

「何げなくそれを見た瞬間、目の前に大海原が広がり、左手だけでも表現ができる!という思いが湧いてきました。すぐにピアノに向かって、左手で弾いたところ、音が立ち上がって、新しい世界が開けたのです」

 これまでの時間は機が熟すために必要だったが、熟した後は行動あるのみだ。2日後には友人の作曲家・間宮芳生と、フィンランドの作曲家・ノルドグレンに、左手だけの新曲を書き下ろしてくれるよう依頼。そして2004年4月から5都市での復帰コンサートを行った。

「左手だけで弾いているとは思っていません。右手が動かなくても、思考や感覚に変わりはないのです。大事なのは両手で弾くことではなく、何を表現するのか、何を観客に伝えるのかです」

 それから世界中の作曲家が舘野のために左手だけの曲を書いてくれ、その数は130曲以上にも上るという。舘野が左手のピアニストになってから「ますます凄みを増した」と語るのは、以前からコンサートに足を運んでいた生命誌研究者の中村桂子さんだ。

「舘野さんのピアノを聴くと、その時々で心を大きく動かされます。ただ音を伝えるのではなく、気持ちを伝える演奏なのです。右手が動かなくなるというのは大変なご経験だったと思います。でも左手だけで素晴らしい演奏をされる舘野さんを見ていると、年をとってできなくなることをマイナスに考えてはいけないと元気をもらえます」

 舘野と中村さんはNHKの番組『スイッチインタビュー』で2019年に対談している。このときは舘野が中村さんを指名したが、以前から舘野は彼女の仕事に関心を持っており、番組の中で、中村さんが館長を務めていたJT生命誌研究館を訪れている。

「音楽と生命科学はまったく違うジャンルのように思われるかもしれませんが、私と舘野さんは根っこの部分が同じだと感じています。人間の生命は森の中で育まれてきましたが、舘野さんもフィンランドの森の中でお過ごしになってきました。自然が心に入ってくるような音楽を表現されていて、心が洗われるのです」(中村さん)

 舘野と中村さんは同い年で、東京生まれという共通点もある。

「ピアノを弾いているときとは違って、ふだんは穏やかで笑顔がとても可愛い方です」

 岸田今日子さんと行っていた「音楽と物語の世界」は、岸田さんが亡くなった後、俳優の草笛光子さんを新たなパートナーに迎え再開された。

「ミュージカルで活躍されてきた草笛さんは華やかです。大海原を悠々と泳ぐクジラのようで、演奏していると自分自身もクジラのような気持ちになります」

 と舘野は話す。

美智子さまが癒され、ピアノの連弾演奏も

 幅広い層から人気のある舘野だが、上皇ご夫妻との親交が長く続いていることでも知られる。

 舘野がご夫妻に初めて会ったのは1983年のことで、皇太子、皇太子妃としてフィンランドを訪問されたときだった。

 大使館で舘野に挨拶をされた皇太子さま(現・上皇さま)は「美智子がいつもあなたのお話をしています」と話され、皇太子妃だった美智子さまは「やっとお目にかかれました」と喜ばれたという。

 1993年、美智子さまが失声症になられたときには、ご夫妻から赤坂御所に招かれた。そのとき舘野は数曲演奏したが、美智子さまが紙にメッセージを書かれ、「シベリウスの『樅の木』を演奏するので手ほどきを受けたい」と依頼されたという。

ペダルの踏み方などをアドバイスさせていただきました。美智子さまは熱心にご覧になられていました。お食事もご一緒させていただき音楽談議が楽しかったです。

 翌日、紀宮さまからお礼の電話をいただいたのですが、美智子さまからの『音楽の力は不思議です。浄化されました』というメッセージをお伝えいただきました」

 舘野が左手のピアニストとして復活して間もなくの2004年秋には、フィンランド大使館のパーティーで美智子さまと一緒に連弾を行った。

「『みんなを驚かせましょう』という美智子さまからの提案でした。美智子さまはおちゃめでチャーミングな方です。毎年のようにコンサートにもいらしてくださり、大きな励みです。またコンサートでお会いできるとうれしいです」

インドでの衝撃の体験とスタンディングオベーション

 2023年、最愛の妻・マリアさんが亡くなり、現在は1人暮らしをしている舘野。これまでフィンランドと日本を行き来していたが、これからは生家である東京・自由が丘の自宅を拠点にしていく。

「フィンランドは社会福祉が手厚いため、仕事をしている高齢者はほとんどいません。だから仕事の話ができる人がおらず、向こうでは何もすることがないんです。幸い日本では仕事がたくさんあるので、生涯できるところまで弾けるだけ弾きます。いつまでできるかは神のみぞ知るですが」

 毎年、夏は涼しいフィンランドで過ごしていたが、今年の9月はインド、ネパール、ブータンに演奏旅行に出かけることにした。

「クラシック音楽が浸透していない国に、質の高い音楽を届けたいという思いがあり、ネパールとブータンはずっと行ってみたい国でした。インドに行くのも45年ぶりでした。結果的には素晴らしいコンサートになりましたが、ピアノを聴かせる環境がここまで整っていないとは思っておらず、あの状況でよく演奏できたなと。もう自分は神様に近いと思ったくらいです(笑)」

 インドの会場は立派だったが反響板がなく、音が全然響かない状態だった。

「舞台の後ろにあるカーテンを外すと石があるので、せめてその石に反響させようと考え、カーテンを開けてもらいました。でも本番が始まるとやっぱり響かず、2ページぐらい弾いたところで中断したのです。こんなことは87年の生涯で初めてのことでした。カーテンを開けられるところは全部開けてくださいとお願いし、やっと生きた響きが出せました。

 それから1時間くらい演奏しましたが、観客はすごく感激してくださり、スタンディングオベーションです。途中からどんどんお客さんが入ってきて超満員になり、座れない人は階段や床の上に座って、立っている人もいました。面白い体験でしたね」

 ブータンでもやはり反響板がなく、薄くマイクをかけてもらった。ネパールでは、10年近く使っていないピアノと向き合って、音を開かせるまで時間がかかった。しかし本番はとてもいいコンサートになったという。

「観客のみなさんが心を開いて演奏を聴いてくださり、一体となって、だんだん幸せになってゆくのが伝わってきました」

 今年6月には、フィンランドで出版された評伝の邦訳本『奇跡のピアニスト 舘野泉』(みずいろブックス刊)が発売となった。

「フィンランド版のタイトルは『IZUMI TATENO ピアノのサムライ』です。異文化からやってきたピアニストがどうしてフィンランドで活躍できたのか、ヨーロッパの人間から見た姿が興味深く書かれています。マリアは日本でこの本が出ることを心待ちにしていたので、日本語版には彼女の写真も多く載せてもらいました」

 88歳を前に活躍し続ける父を、ヤンネさんは次のように見ている。

「大きな病気をしたけれど、父という人はいつもずっと変わりません。好きなことをやって、好きなところへ行って、好きなものを食べて、好きなお酒も飲んで。人が好きで、でも人との距離をうまく保ちながら、人を惹きつける不思議な力で人を巻き込み、自分の使命をよくわかってピアノを弾き続けています。身体は年齢と共に不自由さが増しても、やはり変わることはないのでしょう」

 11月のバースデーコンサートでは、和楽器とのアンサンブルも注目されている。来年には数え年90歳の記念コンサートを計画中だ。

 舘野は生きている限り、旺盛な好奇心で新しい表現を模索し、全国に足を運び、聴衆のためにピアノを弾き続けていく。

<取材・文/垣内 栄>

かきうち・さかえ IT企業、編集プロダクション、出版社勤務を経て、'02年よりフリーライター・編集者として活動。女性誌、経済誌、企業誌、書籍、WEBと幅広い媒体で、企画・編集・取材・執筆を担当している。

舘野泉 バースデー・コンサート 2024
11月2日(土)14:00 南相馬市民文化会館/11月4日(月・振休)14:00 東京文化会館 小ホール(問い合わせ:ジャパン・アーツぴあ、︎0570-00-1212)

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