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「Runnerは応援歌じゃありません」サンプラザ中野くんが明かす大ヒット曲の爆誕秘話

週刊女性PRIME / 2024年12月13日 8時0分

2024年にデビュー40年を迎えた『爆風スランプ』のサンプラザ中野くん

 2024年にデビュー40年を迎えた『爆風スランプ』。バンドの“顔”で、ボーカルのサンプラザ中野くんが自身の幼少期を振り返る。

同じ高校で出会ったパッパラー河合

「小学生のころは『ひょっこりひょうたん島』や『巨人の星』といったテレビ番組の主題歌が好きでした。小学1年生のときにオルガンを習ったけど、3歳のときにポリオ(小児まひ)を発症してから、ずっと右半身がうまく動かないのでやめました。そのころ『帰って来たヨッパライ』が発売されて、ポップスに目覚めました」

 ギター担当のパッパラー河合とは、同じ高校の美術部で出会った。

「高校は千葉県の進学校で、河合は学年で2位の成績でしたが、腸閉塞(ちょうへいそく)を起こしたせいで勉強をしなくなり、卒業時は下から2番目に(笑)」

 河合は高校時代にギターを始めてロックに夢中になり、卒業後もバンド活動を続けていた。

「河合は『スーパースランプ』というバンドに入っていて、そのライブを見に行ったら、俺も感激して。演劇要素の強いオリジナル曲を演奏していたバンドで、俺は“ミミズの衣装が似合う背が高い人を探している”ということで、翌日にはバンドに入れてもらいました。そこで初めて『ミミズのラブソング』という曲の歌詞を書きました」

 中野くんがバンドに加入した翌月にはバンドコンテストに出場。ヤマハが主催で、デビュー前の『カシオペア』『サザンオールスターズ』が出場したロックの登竜門『イースト・ウエスト』

 バンドは決勝大会に進み、会場は『中野サンプラザ』だった。

河合らと盛り上がって“俺たち才能あるから、プロを目指そう!”となって。だけど、週に1回2時間くらいしか練習しなくて(笑)。それでも、翌年は準グランプリをとりました」

「絶対、優勝だね」と言われていたのに

 コンテストで結果を出したほかのバンドは次々デビューしたが、彼らには声がかからない。ガッカリしていたら、ヤマハ会長の川上源一氏が気に入ってくれて、世界歌謡祭に出ることに。

 会場は日本武道館。スタッフからは「君たちは会長の肝いりだから絶対優勝だね」と言われていた。結果は『完全無欠のロックンローラー』を歌った『アラジン』がグランプリに。

「もう打ちひしがれて……」

 という中野くんだったが、ある日、同じコンテストに出場していた『爆風銃(バップガン)』ドラム担当のファンキー末吉と河合が、何やらヒソヒソ話をしているのを目撃。どうやら一緒にバンドをやらないかと話している。それで、すかさず「俺も入れてくれ!」と頼み込んだ。

 こうして、爆風銃ベース担当の江川ほーじんを入れて、2つのバンドが合体した4人組バンド『爆風スランプ』が生まれた。

デーモン閣下とチェッカーズ

「俺が脱退した『スーパースランプ』には、デーモン閣下がボーカルで加入しました。

 チェッカーズともヤマハの別大会で出会って、同じ宿舎で食事したことも。藤井フミヤくんのカッコよさは当時から群を抜いていました」

 デビュー後、同じソニー系列のレコード会社に所属する『聖飢魔II』『米米CLUB』とともに“ソニー3大イロモノバンド”と呼ばれた。

「ライブハウスでは希望したお客さんを逆さづりにしたけど、テレビじゃ無理というので、自分が逆さづりになったこともありました。

 アルフィー用のセットを壊したときは、やりすぎちゃったと思ったけど、しばらくたって高見沢さんにお会いしたときに謝ったら“面白かったよ”と言ってくれました」

1984年発売のファーストアルバムに収録した1曲が注目される。

「ほーじんが“笑いのセンスがわからない”と言うので、いろいろ教えたら『無理だ!!』という曲を作ってきた。これはロングバージョンも作ろうと思って、みんなで完成させたらソニーが気に入ってくれて、テレビ出演が増えました。本当は、その前に出したCMタイアップ曲が売れると思ったんですけどね」

 1985年に初めて、武道館公演を行った。

「1984年12月に初めてのホール公演を成功させた打ち上げで、翌年の武道館公演が発表されました。

 ただ、武道館を満席にできず、空席が出たときの言い訳のために『大きな玉ねぎの下で』という曲を書いておきました

 歌詞は、武道館ライブへ一緒に行く約束をしたペンフレンドが、結局は来なかったというドラマ仕立てにした。

「ライブでバラード曲が欲しいと話していたこともあり、いい曲ができたと思っていたのですが“どうして彼女は来なかったの?”という手紙がいっぱい届いちゃって」

 1998年にデビューした女性アイドルデュオ『YURIMARI』を中野くんと河合がプロデュースした際に『初恋』という曲で女性側の“アンサーソング”を書いた。

「それでようやく“彼女は武道館に遅れて来ていたのですね、よかった”という声をたくさんいただきました」

脱退するメンバーを見て『Runner』を書いた

 爆風スランプのもう1つの代表曲、1988年リリースの『Runner』は、応援歌ではなかった。

「イロモノバンドの印象が強まって、末吉とほーじんが方向転換のために事務所の移籍を考えて実行したのですが、音楽プロデューサーと対立。移籍を先導した、ほーじん自身がバンドを脱退することになり、去っていく彼を見て『Runner』を書きました。それがテレビ番組で使用されてから応援歌として定着して……。奇妙な感じです」

 応援歌として書いたのは、1996年に発売された『進め!電波少年』で猿岩石によるユーラシア大陸横断ヒッチハイク企画の挿入歌『旅人よ』だという。

 その後もヒット曲を連発しながらも、1999年に活動休止。

「当時は毎年のようにアルバムを発売してツアーという、言うなれば“消耗品”状態でした。新しいベースにバーベQ和佐田が加入したけど、末吉が日本の音楽業界に嫌気が差して中国に拠点を移したので、バンドは休止することに」

デビュー40周年のうち、26年間を休んで

 中野くんはソロ活動を始めるが、病に侵される。

「20年前に低血糖症と診断されて。父の死を機に健康を意識し始めました。まずはベジタリアンになろうと食生活を変えて。今は一番難易度が高いヴィーガンです。なかなか仲間が増えません」

 健康面から思いもよらず、新曲が誕生した。

「100歳を越える沖縄の長寿について特集した番組を見たら、彼らは定年後もリタイアせず普通に働いている。やれることをやって、地域に貢献して生活することが生きがいだと語っていました。

 英語で“生きがい”に相当する言葉がなくて《IKIGAI》という単語で浸透している。

 それらを知って、ひらめいたんです。かつて中高生だったファンのみなさんも、中高年となった今、生きがいを持って楽しく生きようという思いを新曲の『IKIGAI』に込めました」

 デビュー40周年だが、これまで26年間休んで申し訳ないという中野くん。中高年ファンに新曲でパワーを出してもらい、爆風スランプは今後もきっと走り続ける。

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