「お母さんに家を建ててあげたい」中山美穂さんの“育ての親”と共演俳優が明かす“忘れられない素顔”
週刊女性PRIME / 2024年12月16日 21時0分
「ありがとう、美穂。本当に頑張ったね……」
12月12日、都内で行われた中山美穂さんの葬儀に参列した“育ての親”は、そう別れを告げたという。
中山さんは12月6日、都内の自宅で亡くなった。54歳で急逝した元トップアイドルの訃報に、悲しみの声があふれた。所属事務所の発表によると、死因は入浴中の不慮の事故。事件性はないとされる。
「葬儀では、もう涙が止まらなくて。人生で一番泣いたんじゃないかってぐらい。私は独身ですし、美穂は娘のような存在でした。2人で芸能事務所を立ち上げて、人生の半分は一緒にいたんですから」
冒頭に続けてそう語るのは、中山さんの所属していた芸能事務所『ビッグアップル』の創業者・山中則男氏。中山さんを発掘し、世に送り出した人物だ。
1982年、中山さんの人生は、山中氏との出会いによって動き出す。
「私が東京の原宿でスカウトし、その後に母親と3人で食事をしたときのことです。美穂は“お母さんは、すっごく苦労してきたの。だからね私、頑張って、頑張って、お母さんに家を建ててあげたいの”と、涙を流しながら言うんです。その言葉を聞き、私は新たに自分が代表の事務所を立ち上げることを決めました」(山中氏、以下同)
オーディションで軒並み落選するも
1980年代は、毎年のように数多のアイドルがデビューしていた。中森明菜や小泉今日子のように輝けるのは、ほんのひと握り。
「私が新しく事務所を立ち上げると言ったら、周囲は“何を考えているんだ、おまえはばかか”と、散々言われました。でも、私は絶対に売れると信じていたんです」
オーディションは軒並み落選。多くのレコード会社も興味を示さなかった。だが、中山さんに可能性を見いだした人物がいた。レコード会社『キングレコード』で音楽ディレクターだった福住朗氏だ。福住氏が話す。
「第一印象は、目力がすごい子だなって思いました。無口でしたが、この子には何かありそうだと思って、デモテープを録ることにしたんです」
中山さんは、中森明菜の『スローモーション』を選んで歌い、福住氏は、その姿に圧倒されたという。
「とにかく歌っている表情が素晴らしくよかった。声に透明感があり、言葉がすごくキレイに聞こえたんです。まだレッスンとかやっているわけじゃないのに、いい感じだなって。なにより発散する圧力が違う。人は、それをオーラと呼ぶのでしょうが、美穂さんは、それがすごく強い人でした」(福住氏、以下同)
魅了された福住氏は、社内で中山さんを猛烈にプッシュしたが反対される。
「キングレコードは、アイドルというジャンルに経験がなかった。先輩スタッフからは“やめておいたほうがいい、考え直せ”と、かなり反対されました。けれど、若造だった私は余計に燃えて(笑)」
デビュー前に「私、頑張りますから」
多くが、その可能性を否定したが、事態は一変する。1985年、中山さんの女優デビュー作となったTBS系ドラマ『毎度おさわがせします』の第1話が放送された翌日のことだった。
「さまざまな出演オファーが届き、電話が鳴りやまないんです」(前出・山中氏)
周囲から否定されても、それを支えてくれる多くの大人がいた。そんな後押しを感じていたのか、中山さんは懸命に走り続けたという。
キングレコードで中山さんの宣伝担当をしていた竹中善郎氏は当時、彼女が語った言葉が忘れられないでいる。
「デビュー前に“私、頑張りますから”って、私の目を真っすぐ見て言ったんです。その言葉どおり、美穂さんは本当にひたむきなんですよ。なんでも一生懸命やる。どんなに忙しくても弱音を吐かないし、熱が出ても休まない。口数の少ない子だから、自分から頑張っているなんて言わないけれど、伝わってくる。私も含め、みんなそういう彼女の姿に惹かれていきました」
ドラマ『毎度―』が放送された1985年の大みそか、日本レコード大賞の最優秀新人賞を受賞。15歳だった中山さんは涙を流して喜んだが、その夜に異変があった。
「授賞式の後、祝賀会があったのですが、美穂は30分ぐらいで“もう疲れたから帰りたい”と言う。大人の集まりですから、退屈なのだろうと思ったのですが……」(前出・山中氏、以下同)
そうではなかった。中山さんが向かったのは、所属事務所。そこに大勢のファンが詰めかけていた。
「美穂は事務所にファンが集まるのを知っていたんです。だから、一刻も早くそこに行きたかった。彼女は一晩中、ファンの子たちと話していました。誰とでも分け隔てなく接する。それが彼女の魅力なんです」
その後、中山さんはトップアイドルへと駆け上がるが、その人柄は変わらなかった。
共演俳優が明かす“美穂さんの素顔”
「美穂さんは、まったくの無名だった私を、1人の俳優として見てくれた、初めての人でした」
そう話すのは、俳優の中野英雄。中山さんとは、1990年のドラマ『すてきな片想い』と1992年のドラマ『誰かが彼女を愛してる』(共にフジテレビ系)で共演した。
「当時の僕は、俳優であり柳葉敏郎さんの付き人でもありました。『すてきな片想い』は、柳葉さんと“セット”で出演させてもらったんです。美穂さんは、すでにトップアイドルだったのですが、無名の私にも“一緒にごはん食べようよ”と声をかけてくれるんですよ。僕を下に見るでもなく、本当に1人の出演者として接してくれた。僕からしたら、かけてくれるそのひと言、ひと言が本当にうれしくて」(中野英雄、以下同)
共演していた柳葉は、緊張した様子だったという。
「美穂さんの大ファンである柳葉さんは、共演できることをすごく喜んでいた反面、そうとうなプレッシャーの中で演じていました。おそらく“ドラマを成功させて、俺が美穂さんを盛り上げる。浮かれた気持ちで演じて、絶対に失敗させてはいけない”と強く思っていたはずです」
そんな中野には、忘れられない“シーン”がある。
「ドラマの中で僕がどうしても言いたいと思ったアドリブのセリフがありました。しかし、監督からは却下。すると美穂さんが“そのアドリブを、ぜひやってほしい”と言ってくれて、通ったんですよ。美穂さんは、よく人のことを見ていて“この人には、この人の考えがあるから、それを大切にしてあげなきゃ”と思ってくれているのが、すごく感じられました」
「ママと社長とした約束を果たしたよ」
トップスターとして活躍を続けた中山さんは、デビュー当時に立てた誓いを叶える。前出の山中氏が明かす。
「あるとき美穂が“私はママと社長とした約束を果たしたよ”と言ってきて、家を建てたことを報告してくれました。母のために家を建ててあげたい。親孝行したいという気持ちがあったから、頑張れたんだなって」
果たせなかった約束もあったという。前出の竹中氏は、涙ながらに語る。
「かつて美穂さんと一緒に仕事をした人間は、今もつながっていてね。みんなで食事をすることもありました。私はもうすぐ70歳だし、みんな年をとってきたんですが、美穂さんは冗談めかして“私がちゃんとみんなを見送るからね”なんて言っていたのに……早すぎるよ」
葬儀の後、中山さんの妹・中山忍は、こうコメントを発表した。
《私にとって姉は「大好きなお姉ちゃん」であるとともに「みなさんの中山美穂」であり、「永遠のシャイニングスター」です》
その思い出は、今もキラキラと輝き続ける─。
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