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「マッカーサーと対談」上皇さまは“歴史の証人”、佳子さまらが学ばれる“祖父からの証言”

週刊女性PRIME / 2024年12月22日 21時0分

10月1日、有明コロシアムでジャパンオープンテニスの試合を観戦された佳子さま

 明治以降の皇室で最高齢となる101歳で亡くなった三笠宮妃百合子さまの本葬に当たる「斂葬の儀」が11月26日、東京都文京区の豊島岡墓地で営まれた。秋篠宮ご夫妻や次女の佳子さま、長男の悠仁さま、それに天皇、皇后両陛下の長女、愛子さまら皇族、石破茂首相ら三権の長、ゆかりのあった人など約500人が参列した。喪主は、孫の三笠宮家の彬子さまが務めた。

両陛下と上皇ご夫妻は葬儀に出席せず

 両陛下と上皇ご夫妻は慣例で葬儀に出席せず、両陛下は、使者として侍従長らを派遣し、上皇ご夫妻は、上皇侍従長らを送った。

 午前10時からの「葬場の儀」は、司祭長が祭壇の前で百合子さまの生涯に触れる「祭詞」を読み上げた。両陛下や上皇ご夫妻の使者に続き、彬子さまが祭壇に玉串をささげ、深々と頭を下げた。秋篠宮ご夫妻や佳子さま、悠仁さまたちも順番に拝礼した。

「葬場の儀」に先立ち、百合子さまの柩を乗せた霊車は午前9時過ぎ、港区の赤坂御用地にある三笠宮邸を出発し、午前9時35分ごろ、豊島岡墓地正門に到着した。この日午前8時過ぎから、百合子さまに最後のお別れをするため、私は豊島岡墓地正門前の、車道を挟んだ反対側の歩道上で霊車の到着を待ち受けていた。晴れてはいたが、とにかく寒かった。1時間以上、屋外にいると手の指先がかじかんできた。

 周辺は制服の警察官や警備担当者らでいっぱいだった。通勤途中の会社員や幼稚園児を連れた母親たちが、私の背後を次々と通り過ぎた。時折、青い空を見上げ、黄色や赤色に色づき始めた豊島岡墓地近くの樹木を眺めながら、寒さをしのいでいた。午前9時前、「あれは、秋篠宮ご夫妻を乗せた車ですかね」と、隣にいた人が気づき、私に声をかけた。

 それらしい車が正門から入っていったが遠いので、車内の様子は確認できなかった。「これは、佳子さまたちかな」。また、声をかけられた。しばらくすると、車の通行が規制されたようだ。目の前の道路から一般車両がなくなり、白バイや警備車両に守られながら百合子さまの柩を乗せた黒塗りの霊車が、静かに正門から豊島岡墓地へと入った。宮内庁の職員たちだろうか、深々と頭を下げていた。

 百合子さまの夫である三笠宮さまは2016年10月27日、100歳で亡くなったがその伝記『三笠宮崇仁親王』が、三笠宮崇仁親王伝記刊行委員会によってまとめられ、出版されている。以前、この連載で触れたが、三笠宮さまの誕生から晩年までをたくさんのエピソードを交えて、やわらかく、明るく紹介したのがこの中にある、百合子さまのオーラルヒストリー(口述記録)である。

戦争の継続を求めて大激論

 三笠宮さまは戦前、旧陸軍軍人として、大本営参謀などを務めた。1945年5月25日夜、米軍のB29爆撃機による空襲で三笠宮邸は焼失し、家族は防空壕での生活を余儀なくされた。防空壕の入り口前に、宮邸の焼け跡から見つけたトタンで屋根を設け、そこに机と椅子を並べて、食事や宮さまの面会などに利用した。

 百合子さまの記憶によると、終戦前日の8月14日、陸軍士官学校の同期生らの青年将校たちが、戦争の継続を求めて三笠宮さまと大激論となったという。政府は、昭和天皇の聖断を仰いで、すでに「国体護持」を条件にポツダム宣言受諾を決定していた。終戦と和平に向けて大きく舵を切っており、三笠宮さまもこうした政府や兄、昭和天皇の考えを支持していた。このとき、三笠宮さまは29歳、百合子さまは22歳だった。

《8月14日に(宮家の防空壕に)陸軍の若手将校が訪問してきた様子はね、ご同期生とか、いわゆる青年将校、まあ、何人か次々に見えて。その人達とは激論になって。みんなもっと戦争を続けるべきだということだし、若い人達は。宮様はもう終わりにした方が良いっていう方でいらっしゃったし。

 激論になって、今にもピストル(の弾が、筆者注)が飛び交うかと思うような緊迫したことで。私は防空壕の中で、宮様はその防空壕の入口の前で相対して、その人達とお会いになってらっしゃいました。私は防空壕の中で、それをうかがってまして、すごい怖い雰囲気であったことを覚えております。それで散々大議論になったんですけど(略)》(百合子さまの口述)

 戦争に敗れた日本は、アメリカなど連合国によって占領された。そのトップである、連合国最高司令官だったダグラス・マッカーサー元帥と佳子さまの祖父である上皇さまは、直接、会って、対談しているのだ。しかも、英語で会話をした。1949年6月27日夜、15歳の上皇さまは英語の家庭教師、ヴァイニング夫人に付き添われて、当時の連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に元帥を訪れた。ヴァイニング夫人の著書『皇太子の窓』から主なやりとりを紹介しよう。

元帥「あなたのお友達はどこの大学に行きたがっているんですか?東京大学?早稲田?」

殿下「東京と学習院です」(略)

元帥「世界を見るのはいいことです。合衆国や英国をお訪ねになるといい。外国の大学で勉強されるといい。アメリカには、ハーバード、エール、プリンストンが、英国にはオックスフォードとケンブリッジがあります。世界は狭くなりつつあります。(略)

 他の国々を見、他の人々を知り、理解し、友人になるというのはいいことです」

殿下「はい、私もそう思います」

 元帥のお付きのバンカー大佐から夫人に電話がかかってきた。そして、大佐は、「(略)殿下はものの見事に元帥の試験にパスされたようです。元帥は部屋から出て来るとすぐ、殿下から実に良い印象を受けた、殿下は落ち着いて、まことに魅力的なお方だった、と言っていましたよ」と、話したという。

 このように、昭和天皇の長男である上皇さまは、戦前、戦中、戦後を生きた「優れた歴史の証人」である。このマッカーサー元帥との対談も、その思い出や元帥の印象などについて、ぜひ、私たち国民に話していただけないものだろうか。人生100年時代といわれている。三笠宮さまや百合子さまは100歳を超す長寿だった。

 私は、上皇さまに歴史的に価値の高い証言を期待している。そして、佳子さまもまた、祖父の話や証言から多くのことを学ぶだろう。12月23日、上皇さまは91歳の誕生日を迎える。

<文/江森敬治>

えもり・けいじ 1956年生まれ。1980年、毎日新聞社に入社。社会部宮内庁担当記者、編集委員などを経て退社後、現在はジャーナリスト。著書に『秋篠宮』(小学館)、『美智子さまの気品』(主婦と生活社)など

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