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『べらぼう』の蔦重に恋して30年、浪速の“バンギャ”から蔦重の語り部に至った時代小説家の軌跡

週刊女性PRIME / 2025年1月25日 16時0分

時代小説家、江戸料理文化研究家・車浮代(60)撮影/吉岡竜紀

 車浮代さん(60)は、誰にも負けない“蔦重(蔦屋重三郎)”推しだ。今年の大河ドラマの主人公が蔦屋重三郎ということもあり、蔦重関係の本をこれまでに7冊、今年2月にも1冊出す。それも、それぞれの本で趣向が違い、多角的に蔦重の魅力を浮き上がらせている。巷には江戸時代の研究本、歴史小説などあまたあるが、エンターテインメントで読ませながら、蔦重と江戸への愛を熱く感じさせるのは浮代さんの著書がピカイチ。

 蔦重と周辺の浮世絵師や戯作者たちだけでなく、当時の食文化、庶民の暮らしも地道に調べて著してきた。今回の大河ドラマは、戦ではなく江戸の市井の人々の生活が描かれ、浮代さんが愛する江戸文化に衆目を集めるときが、ようやくやってきた!

ガールズバンドにアートディレクター。時代の先端をいった娘時代

 浮代さんの肩書は、時代小説家と江戸料理文化研究家の2つ。「うきよの台所」という江戸時代風のキッチンスタジオも設えて、江戸料理のレシピを再現し、本も出している。

 江戸にどっぷりハマっている浮代さんだが、実は生まれも育ちも大阪だ。江戸に行き着くまでに、紆余曲折の歴史があった。

 浮代さんは1964年、高度成長期の大阪で生まれ、国語と美術が得意な少女だった。

「両親共働きの鍵っ子だったので、2歳年下の弟と隣家に預かってもらい、家の中で本を読んだり、絵を描いたりしていました。本や漫画は好きに買わせてくれたんです。初めて小説を書いたのは小学5年生のとき。空想少女だったんですね」

 と浮代さん。浮代さんが大学に進学するころの日本は景気がよく、活気にあふれていた。書籍『ジャパン・アズ・ナンバーワン』がベストセラーになり、斬新なパルコの看板や「不思議、大好き。」「おいしい生活」など百貨店の広告が話題を呼ぶ、そんな時代だった。

「アートディレクターやコピーライターなど、カタカナ職業が人気で、私も憧れました。美大に行きたいと父に話すと、“弟がいるのだから、おまえは短大で我慢しろ。四大なんて行き遅れるぞ”と。そういう時代でしたね。すると、初めて母が“この子の好きにさせてあげて!”と父に逆らってくれたんです。その父は2020年、コロナで亡くなりました」

 美大卒業後は大阪の大手印刷会社に就職。アートディレクター、グラフィックデザイナーとして念願のカタカナ仕事に就く。

「在学中からガールズバンドを組み、就職しても続けていました。当時は土曜日が半ドンで、楽器を持って会社に行き、仕事終わりにスタジオに集まってオールナイトで演奏して、朝帰り。そんな生活をしていました」

 浮代さんはベース担当。当時人気だったガールズバンド『プリンセス プリンセス』と『SHOW―YA』の間を目指したロックを演っていた。カーリーヘアに網タイツなどのハードなファッション。江戸時代とはまったく無縁の、時代の先端をいく現代っ子だった。しかし、もろもろの事情でバンドは解散。ぽっかりと心にあいた穴を埋めたのが、浮世絵だったのだ。

「バンドのメンバーとは今も定期的に会っていて、将来一人ぼっちになったら一緒に住もうねって言っています」

 ある日、浮代さんが勤める会社のクライアントの美術館で、“大浮世絵展”が開催され、東京から摺師を呼んで、実演を行った。

「そこで摺師のおじいさんが喜多川歌麿の『ビードロを吹く女』を摺っていました。初めて聞く下町の江戸弁で、粋ってこういうことなんだ、としびれました」

 摺師は、実演をしながら、絵の具やバレンをどう作るかなど、べらんめえ調で解説しながら、何色も重ねて摺り上げていった。1枚の紙を何枚もの版にのせても、一分の狂いもなくピタッと色が重なっていく。

「以前から超絶技巧が好きで。美術大学出身なので、浮世絵の仕組みはわかってはいたのですが1ミリの間に髪の毛3本を彫る技術や、それを目詰まりさせずに摺る技術に感服しました。江戸の当時は、版元という、今でいう“書店プラス出版社”が、企画を立てて、絵師に依頼して、彫師や摺師を決める。読み本の場合は、それを綴じて本にして、店頭で売る。そういうシステムがすでにできていたことにも、目から鱗でした」

 自分がいる、今の印刷会社のシステムと同じだと感じ、浮世絵の世界に深くのめり込んでいく。

 ちょうどそのころ、200人以上が参加する営業全体会議で浮代さんに発表が回ってきた。選んだテーマは、“浮世絵版画と印刷の関係”だった。

「バブル期ですから、みなさんいろいろな異業種交流会に入っていて、“その話面白いから、この会でもあの会でもやって”と言われまして。年上のおじさまたちに教えるのですから、下手なことは言えません。浮世絵だけでなく背景となる江戸時代についても猛勉強しました」

歴史や浮世絵に自然と触れてきた子が長じて時代小説を書く

 振り返ると、子どものころには、テレビの時代劇をよく見ていた。

「歴史にそこまで興味のあるほうではなかったんですが、親がNHKの大河ドラマをはじめ、『水戸黄門』や『大岡越前』などが好きで、一緒に見ていました。私は『必殺シリーズ』が大好きだったんです。わりとエログロなシーンも出てくるというのに、親もよく見せてくれたなぁ、と大人になった今では思いますが(笑)」

 また、『永谷園のお茶づけ海苔』に浮世絵の名画カードが入っていて、浮代さんは子どもながらにそれを熱心に集めていた。

「そのカードが浮世絵である、という意識もなく集めていましたね。『富嶽三十六景』なら46枚、『東海道五十三次』なら53枚集めて永谷園に送れば、箱入りのフルセットになって送られてくるんです。それがうれしくて」

 これが浮世絵と浮代さんの、最初の出会いだったかもしれない。

「高校生になると、杉浦日向子さんの『お江戸でござる』や、高橋克彦先生の『写楽殺人事件』シリーズなどにハマりました」

 大阪の会社員時代には、お茶やお花も習っていた。

「福利厚生が充実した会社で、社長が支援する先生方を招いての教室だったので、格安で習うことができたんです。着付けも小唄も教えていただきました」

 バンド活動をやりながらも、日本文化もしっかりと身につけていたのだ。

 子どものころからの趣味である小説は、会社員時代も書いていた。

「あちこちからお声がかかるようになった講演会のために、浮世絵や江戸のことをこれだけ一生懸命に勉強したのだから、せっかくなら、時代小説を書いてみようと始めたら、それが700枚近くにもなってしまいました」

 講談社の時代小説大賞に応募し、最終選考まで残った。何ともパワフル、そして多才だ。しかし、ここから小説家への道は、そう簡単なものではなかった。

嫁ぎ先の信州伝統料理にカルチャーショック。これが江戸料理の下地に

 夫になる人と出会い、結婚したのは32歳のとき。大阪の印刷会社を辞め、夫の住む長野県松本市に移り、そこでエプソンに就職する。エプソンはプリンターがメインの会社、浮世絵含め、すべて“印刷”とは奇遇だ。

 大阪の実家では母親が食事の支度をしてくれたので、浮代さんはほとんど料理をしたことがなかった。夫は、ヨーロッパの日本料理店の厨房で働いていた経験を持つ。そんな夫が「料理は俺が教えるから」と基礎から教えてもらったのは、ありがたかった。ただし、嫁ぎ先の台所には和の調味料しかなく、胡椒もない。同居の義父は、塩・みそ・しょうゆ・砂糖を使った和食しか食べない人だった。

「ケチャップやソースを使った料理は作れない。大阪は粉もんソース文化ですから、カルチャーショック。薄口しょうゆもなかったですね」

 さらに、義母の月命日に親戚一同が集まる食事会があり、10人前くらいの料理を作る必要があった。

「近所に住む義姉が、鍋いっぱいに煮物とか作ってきてくれるんですよ。おばさんたちも作り方を教えてくれる。助かったし、鍛えられました」

 食べ慣れた信州のものしか食べない義父は、野沢菜漬を自分で仕込んでいた。2月の寒い時季に大きなバケツに3つも4つも漬けた。

「売っている野沢菜とは味が全然違う。すっごくおいしいんです。親戚のおばさんたちに、発酵させたり天日に干したりして作る保存食をいくつも習いました」

 この経験が後に江戸料理研究のベースとなる。

 40歳で子宮外妊娠し、子どもを諦め“このまま何も残さず終わっていいのだろうか。やっぱり書きたい”との思いが強くなる。

「講談社の時代小説大賞に応募したとき『キャラは立っているけど、構成力が弱い』って言われたんです。構成力を勉強するのなら、シナリオがいいだろうと思い、日本シナリオ作家協会の通信教育を受けました」

 課題の原稿を書いて送り、添削されて戻ってくるシステム。半年後の最終課題が2時間ものの映画のシナリオだった。浮代さんは、勝山太夫という元禄時代に実在した男装の麗人を主人公に、時代劇のシナリオを書いた。それは、新人脚本家の登竜門である大伴昌司賞の佳作に残った。

「シナリオ協会の理事をやっていらした新藤兼人監督が、私の作品を推してくださったそうです。その後監督が『少数精鋭で私が教える』とおっしゃって、選ばれた3名の中に私も入ったんです」

 月に2回、松本から上京し、新藤監督のもとで、半年間シナリオを学んだ。そして見事、大賞を受賞。

「夫には“大賞を受賞したら東京に出るからね”と言っていたので、エプソンを辞めて、単身上京しました。東京に行けば、何とかなると思ったのも、甘かったですね」

 浮代さんは、脚本家の下で学びながら、仕送りで生活していた。

「先生が高齢で引退され、その後、離婚。さあ、これからどうしようかと思ったころ、ボジョレー・ヌーボーのパーティーで柘いつかさんに出会ったんです」

 この出会いが、浮代さんの人生を大きく変えていく。

柘いつかさんにブランディングされ江戸料理研究家の道へ

 出会いから18年。今ではいつか事務所にスタジオを提供してもらっているが、出会ったころの浮代さんは独立してやっていける状態ではなかった。一方、いつかさんは、すでに何十冊も本を著し、十数万部のベストセラーも出す売れっ子作家。多くの著名人とも付き合いがあった。最初に会ったときのことを、いつかさんは振り返る。

「2人でそのパーティーを抜け出して、新宿二丁目に行ったことがないというので、案内しました。映画の話で意気投合し、いろんな作品の話をしました。本ばかり書いていたので、久しぶりに映画の話ができて楽しかったですね」

 いつかさんは、ちょうど『大江戸散歩道』という東京の中の江戸を紹介するガイドブックを出すことになっていた。いつかさんは3代目の江戸っ子。だが、東京は知り尽くしていても、江戸には詳しくない。浮代さんは扉に使えそうな浮世絵をたくさん所蔵していたこと、また江戸に精通していたことでアシスタントに入ることになった。

 いつかさんは浮代さんに「まずは着替えなさい」とアドバイスした。バンドをやっていたときのような黒ずくめのファッションに、コテコテの関西弁。これで江戸文化を語っても説得力がない。東京言葉を身につけさせるべく、親代わりの三遊亭圓窓師匠のもとで落語を習わせた。着物を着せ、雑誌にも登場させた。

「実は私が1歳上なんですけど、いつかさんの人生経験は素晴らしく豊富。肝が据わっていて人脈も多く、精神年齢は大会社の会長クラス(笑)。アドバイスに素直に従いました。今も叱られることは、ままあります」(浮代さん)

「私はプロデュースが得意。せっかく東京に来て縁を持ったんだから、うまくいって、喜んでもらえたらうれしいですし」(いつかさん)

 浮代さんを売り出し、本が出せるようにするには、セールスポイントが要る。車浮代の強みは何か?といつかさんは考えた。浮世絵に詳しいといっても、大学教授でもないので、世間には通らない。小説は書いていたが賞を取っていないから、作家になるのは厳しい。シナリオも書けるが、書いたものがすぐに映画やドラマになるわけがない。あれこれ出し合ううちに、いつかさんはひらめいた。

「“江戸料理”はどう?」

 これもひとつの転機となる。

「言われてみれば『大江戸散歩道』で江戸の食文化について調べていたとき、松本で作っていた料理に非常に近いと感じていたんです。

 江戸の調味料の基本は、塩・みそ・しょうゆ。冷蔵庫がないので、いろんな方法で保存していた。干したり、漬けたり、発酵させたり。私、これ松本で作っていたわと」(浮代さん)

 江戸時代に、千葉県の野田や銚子で濃口しょうゆができたことで、江戸前の鰻や天ぷら、そば、寿司などが発展したそうだ。

「日本料理のルーツは京都ですが、おかずのルーツは江戸。きんぴらや煮っころがしなどの惣菜的なものは江戸から全国に広がったんですね」

 江戸時代にも料理本は出されている。料理人のための料理本しかなかった中で『豆腐百珍』という庶民のための料理本が出され、ベストセラーになった。

「豆腐がヒットすると、こんにゃく百珍、大根百珍など次々出されたんですよ」

 古い資料もひもときながら江戸料理を調べて、自分で再現しながら覚え、2010年には「さしすせそで作る〈江戸風〉小鉢&おつまみレシピ』を出す。これをきっかけにテレビで再現料理を披露したり、解説をしたり。『江戸っ子の食養生』など、江戸料理の本を何冊も発表してきた。

 昨年の春には“うきよの台所”という江戸風のキッチンスタジオをオープン。博報堂系の空間デザイナーと、大河ドラマのセットも手がける美術会社に依頼した、博物館級の丈夫なセットだ。台所以外の全室は自分たちで、DIY用の漆喰を塗った。美大卒の才能を生かして細部にもこだわって、江戸情緒漂うスタジオが完成。ここで料理撮影をしたり、貸しスタジオとして使うことも。

「いま執筆に忙しくて、再現動画のほうが手薄になっているのが気がかり。もっと世界中の人たちにも見てほしいと思っているんですが」

きら星のごとき江戸文化を世に送り出した蔦重を主役に書きたいと願って

 実は浮代さん、30年も前から蔦重に惚れ込んでいた。

「浮世絵のことを調べれば、必ず蔦重が出てくる。江戸時代の出版文化で、どんなに重要な役割を果たしてきたかもわかります」

 しかし、これまで喜多川歌麿や葛飾北斎らの有名浮世絵師や、山東京伝や曲亭馬琴などの戯作者の陰で、蔦重自身はあまり注目されなかった。彼らの才能を見いだし、プロデュースし、ヒット作を生み出したのは蔦重だというのに。

 料理をはじめとする江戸文化で知られるようになった浮代さんは、10年前に『蔦重の教え』を出版した。この本は、現代から江戸中期にタイムスリップしたサラリーマンが、蔦重のもとで働くというエンターテインメント作だ。版を重ねて、文庫本にもなっている。

 浮代さんにとって蔦重の魅力はどこにあるのか?

「すごいアイデアマン。それまで誰もやらなかったことを、どんどん実現した人です」

 吉原で生まれ育った蔦重は、廃れかけの地元のために何とかしたいと思う。でも、お金はない。だったらアイデアと行動力だ。

「今で言うクラウドファンディングで資金を集め、プレミアム本を作るんです。その絵を描いたのが有名絵師で、序文は平賀源内。弱冠23歳、貸本屋をやっている若造が、手塚治虫にイラストをお願いするようなもの。物おじしないでアタックしています。お茶屋さんで育っているから、人当たりがよくて、大物にも好かれたんですね」
“人たらし”だけど“人に媚びる”タイプではなかった。

「才能ある人に力を貸すことを惜しまなかったんです。腕があるのに腐っている北斎や歌麿に住まいや仕事を与え続け、ちゃんと面倒も見て」

 十返舎一九も山東京伝も、曲亭馬琴も、蔦重に見いだされ、戯作者として名を上げる。

 日本で初めて作家に原稿料を払う制度をつくったのも、広告を載せ、付録をつけたのも蔦重だといわれている。

 浮代さんは、そんな蔦重の魅力を何冊もの本で紹介している。蔦重のお墓がある浅草の正法寺の住職・佐野詮修さんは『蔦重の教え』を読んで、浮代さんのファンになった。佐野住職は、ゆっくり丁寧に話してくれた。

「この本はフィクションだけど江戸時代の生活がリアルで、他の小説にはない魅力を感じました。台東区の講演会でお会いして、お話しさせていただいた。穏やかで話しやすい方で感激しました。その後はメールのやりとりをさせていただいているんですよ」

 浮代さんの本は、昨年末に出たものまで読んでいる。

「すべて蔦重をテーマにしていますが、一冊ごとに趣向が違うので、どれも楽しませていただいています」

 関東大震災や空襲で元の墓は現存していないが、記録は残っており、現在の墓は史料を元に復刻されたもの。

「ドラマのおかげで、お参りの方が増えてくれました」

 正法寺も火災で焼けているが“火事と喧嘩は江戸の花”と言われるくらい、江戸時代は火事が多かった。浮代さんは言う。

「2、3年に一度大火事があるから、みんな刹那的に生きているんです。大きなものは持って逃げられないから、持って歩ける根付など小さなものに人気が出た。超絶技巧、細密技法になっていくんです。江戸っ子が人をびっくりさせることに情熱を傾けていたところも、面白いですね」

 蔦重も人を驚かせることを考え続けて江戸に出版文化の花を咲かせたが、47歳の若さで脚気で亡くなる。浮代さんは、次のように考えている。

「田沼時代は宴会料理を食べていても、松平定信の寛政の改革以降はそれもなく、激務に追われて、白米のおむすびやご飯と漬物などばかりを食べていたのでしょう。このころ糠漬けはまだ広まっていないですから、ビタミンB1がとれなかったんですよね」

 記録によると、江戸時代の成人男性は1日に白米を五合食べていたらしい。脚気は、“江戸患い”とも言われ、白米偏重の江戸っ子特有の病気でもあった。

「江戸後期になると、ご飯とみそ汁に糠漬け、焼き魚に惣菜などのおかずも庶民の食卓に上ります。これは、世界一の健康長寿食。日本人のDNAには、米をエネルギーに変えるアミノ酸があります。ちゃんとお米とみそ汁を食べてほしいですね。食もそうだし、日本文化って素晴らしいんです。今、外国の方が日本に興味を持ってたくさんいらしていますが、日本人自身がもっと日本の文化に誇りを持ってほしい」

日本の文化やスピリットを海外に。ふたりは世界を驚かせるか

 着物姿も板についた浮代さんは言う。

「子どものころ、米一粒一粒に神様が宿っているから、きれいに食べなさいと命をいただく大事さを教えられました。お天道様が見ている、というのもいい教えですよね。そんな日本のスピリットも含めて、これからも大切にしたい」

 浮代さんは講演会やラジオ、テレビで話す機会も多い。よく通る美声で、わかりやすく話してくれるのが魅力だ。

「私は人前で話しても緊張しないんです。子どものころ、父が家でそろばん塾をしていて、帰ってくるまで先生役をやらされていました。バンド時代には、ステージに立っていたし。そういう素養があったのかもしれません。人生に無駄な経験は一つもない、というのが信条です」

 どこへ行っても平常心で話せる浮代さんと、その名プロデューサーであるいつかさんは、江戸文化を海外にアピールしたいと考えている。

「浮代さんは、探究心旺盛なオタク。明るくて信頼できる人です。私の提案も真摯に受け止め、考えてくれます」

 世界50か国以上を訪れ、各国にセレブ人脈を持ついつかさんは浮代さんにとって心強い先輩だ。

「2年前に亡くなった私の父と浮代さんは誕生日が同じ、父親同士の命日も同じ。今では宝塚の大階段のような神楽坂のお寺で、トップスターよろしく、てっぺんのセンターに墓石が仲良く並んでいます」(いつかさん)

「『蔦重の教え』に登場する蔦重のモデルはいつかさん。パワーと発想力と実行力が蔦重に似ています。いつかさんは、人のいいところを見つけて、引き上げてくれる人。私にとっては令和の蔦重のような、ありがたい存在です」

 ふたりが世界にどんな変革を起こしてくれるか楽しみだ。

<取材・文/藤栩典子>

ふじう・のりこ フリーライター&編集者。料理、ガーデン、インテリアなど生活まわりを取材・編集。『島るり子のおいしい器』(扶桑社)『上條さんちのこどもごはん』(信濃毎日新聞社)『美しきナチュラルガーデン』、『66歳、家も人生もリノベーション』(主婦と生活社)ほか。

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