『異邦人』で大ヒットの元・久保田早紀、結婚を機に引退、音楽宣教師として活動する“いま”
週刊女性PRIME / 2025年2月8日 16時0分
「わぁ、この題字、永六輔さんが書かれたんですね!」
見本誌として開いたこのコーナーの“人間ドキュメント”の文字を見て、驚いた久米小百合さん。'79年にリリースされ140万枚を超える大ヒットを記録した『異邦人〜シルクロードのテーマ〜』で知られる、あの久保田早紀さんだ。さぞや大スター然とした方なのではと思いきや、素顔の彼女はいい意味でとても普通。フレンドリーで温かなオーラに満ちている。
洗礼を受け、結婚を機に引退
'81年に洗礼を受け、結婚を機に引退。その後は音楽宣教師として活動している久米さん。音楽を用いてキリスト教の教えを伝えるという仕事だ。
「日本のクリスチャン人口は1%くらいなので、“キリスト教ってどういうものなの?”という方も多いと思うんです。それをわかりやすくお伝えしたいなと」(久米さん)
教会やライブ会場で賛美歌を歌ったり、聖書の教えをテーマにしたオリジナル曲でアルバムを制作したり。また、聖書に登場する“油”=オリーブオイルに関する資格も持ち、聖書で描かれる食べ物についての講座なども開催。10年以上の交流があるという日本オリーブオイルソムリエ協会の遠藤朋美さんは、「主婦目線でカジュアルに話してくださるところが魅力」と語る。
「おいしくお得に使う方法を教えてくださったり、質問をどんどん受け付けて語り合ったり、敷居が高くないんです」(遠藤さん)
揚げ物に使いたいけど高くて……という悩みには「ミルクパンで揚げ焼きすると少量で大丈夫ですよ」とアドバイス。「その後は同じお鍋で卵焼きなどに使ってくださいね。もったいないから」とひと言添える、まさに主婦代表なのだ。
そして、東日本大震災のときに立ち上げたNPO法人『LOVEEAST』も、力を入れている活動のひとつ。現在は能登の支援に注力している。
「キリスト教徒の団体ではあるけれど、お寺さんで倒れた灯籠を起こしたり、神社さんの復旧をお手伝いしたり。“困ったときは助け合おう”という思いから始めたので、無名の団体ですけど少しでもお力になれたら、うれしいです」(久米さん)
昭和の大ヒットシンガー・ソングライターから、聖書の愛を伝える音楽宣教師へ。その道のりを生い立ちから振り返ってみよう。
4歳で音楽と出合うさまざまな音と触れ合って
高度経済成長真っただ中の1958年、東京都多摩郡国立町(現・国立市)に生まれた久米さん。若いころアメリカ人家庭で働いていた縁で出会った両親のもとに、ひとり娘として生を享けた。住まいは団地の2階。タワマンなどまだ存在していなかった時代に、アメリカ人の生活を見てきた両親が「こんなところに住めたら素敵だよね」と申し込んだ公団の住居だった。
「広くはないけれど、ダストシュートやシステムキッチンがついていたんです。昭和30年代にしてはモダンな生活をさせてもらえていたのかな」
と振り返る久米さん。同じ団地の4階に住む友達の家に行くと、一橋大学の時計台が見えた。その美しい景色を、今でも覚えているという。
幼少期は外遊びが好きな少女。短距離走が得意で、「鬼ごっこの強さは、結構すごかったです」と笑う。
音楽との出合いは4歳。アップライトピアノが家にやってきたのだ。男の子が生まれたらバイオリン、女の子が生まれたらピアノをやらせようと決めていた母に言われ、「選ぶも何もなく、もう自動的に(笑)」習うようになったという。
「お稽古はもうずっと嫌で、仮病を使ったり突然お腹が痛くなったりよくしてました」
と苦笑するが、ブルグミュラーやバッハのインベンション、特に『アヴェ・マリア』はお気に入り。また小学校高学年になると、当時のヒット曲を、耳コピしたり譜面を見ながら弾くのを楽しむようになる。
中でも好きだったのが、そのころブームだったグループサウンズ。沢田研二がボーカルだったザ・タイガースのコンサートに友達と行き、大興奮した。
「子どもは私たちふたりだけ。周りのお姉さんたちの“キャー!!”という歓声に圧倒されましたね。ステージもすごい迫力で、夢のような時間でした」(久米さん、以下同)
ほかにも萩原健一のザ・テンプターズ、堺正章や井上順のザ・スパイダースなど、好きだったグループはたくさん。そしてここで、キリスト教との不思議なつながりが。
ピアノを始めてから賛美歌などの宗教的なメロディーに心惹かれるようになり、小学校低学年から友達に誘われて日曜学校に通うようになった久米さん。当時は聖書の教えより、賛美歌や毎回もらえる洋菓子に心奪われていたのだが。
「グループサウンズで好きだった曲が『神様お願い!』(ザ・テンプターズ)や『モナリザの微笑』、ノアの洪水がモチーフの『廃墟の鳩』(共にザ・タイガース)など、キリスト教に関係のある曲で。偶然だと言われるんですけど、とても印象深く響いたんです」
賛美歌と歌謡曲。正反対のように思えるが、久米さんにとっては矛盾なく、どちらも「いい曲だなあ」と夢中になっていた小学生時代だった。
中学3年生のとき初めて人前で音楽を披露
中学に入ると、久保田家は八王子へ。国立とは中央線で4駅しか離れていないが、まったく違う環境にカルチャーショックを受ける。
「アクセントがちょっと違ったようで、最初の挨拶で“気取ってんじゃねえよ”みたいなのがいきなりきて(笑)。あと、初めて“おめえ”と言われてびっくり。悪口ではなく、普通に“おまえ”が“おめえ”になるんです。これが八王子か!と大洗礼を受けました(笑)」
中1の1学期は新居完成前のため国立から登校していたが、2学期からは名実共に八王子っ子となり、クラスメートたちとも仲良くなっていく。
「水もおいしいし風情もあるし、ユーミンさんなど有名な方もたくさん出ていらっしゃっていて。すごく素敵な、私にとって第二の故郷になりました」
中学時代はニューミュージックやフォークソングなど、シンガー・ソングライターが活躍し始めた時期。周りの友達は吉田拓郎や赤い鳥、泉谷しげる、井上陽水、ガロなどをギターでコピーしていた。ピアノの稽古は小学校卒業時にやめていた久米さん、いっときギターに手を伸ばすが、自分はピアノのほうが自由に弾けると感じ、ギター譜をピアノにアレンジして楽しむようになる。
そんななか、中3のときに初めて人前で音楽を披露する機会が訪れた。バンドを組んでいた男友達から、「鍵盤、弾けるよな?」と誘われたのだ。ガロの『学生街の喫茶店』などヒット曲のコピーに加えて、久米さん作曲のオリジナル曲も演奏。「たいそうなものではなくて、教室での発表会ですよ」と謙遜するが、人生初ステージだ。
「アーティストの方々がオリジナル曲をやるようになったころで、“俺たちもやろうぜ”となったんです。女の子の友達が『地平線』というタイトルの詞を書いてきてくれて、私が曲をつけました」
久米さんにとって初めてのオリジナル曲。友達からの反応を尋ねると、「ヒット曲を聴くほうがうれしかっただろうから、覚えてないんじゃないかな」と笑いつつ、「大した曲じゃないけど、“俺たち、久保田の作曲でオリジナルをやったよな”って、仲間の心に少し残っていてくれたらいいなと思ってます」と。
『異邦人』でデビュー
メンバーのひとりはその後レコード店の店長になり、『異邦人』で久米さんがデビューした際には、レコードを棚の前のほうに出してくれたという。まだ誰にも知られていないデビュー直後。地元仲間との心温まる交流エピソードだ。
そして'74年、共立女子高校に入学。中学までは風紀委員なども務めるような模範的生徒だったが、その反動がきた。
「いい子で頑張ってきたんだから、ちょっとハメ外してみようと思ったんです。といっても色つきのリップクリームをつけるとか、若い人に“今は普通です”と笑われる程度のことなんですけど(笑)」
だが、先生たちからは大目玉。もともと地毛がアッシュブラウンで天然パーマだったこともあり、登校数日目で風紀担当と学年主任の先生から「その髪は何!?」と怒られることに。
このころ、父はイランのテヘランに単身赴任中。門限や服装などに厳しい父だったが、久米さんの反抗期には不在だったのだ。逆に「怒られた記憶がない」ほど、母は父と真逆。学校から呼び出されて“あなたのお嬢さんは〜”と注意を受けても、責めることはなかった。
「今、思い返すと、母には本当に申し訳ないことをしたと思います」と、しみじみ語る久米さん。'13年に逝去されたことを思うと、その気持ちもひとしおなのかもしれない。
音楽面ではユーミンこと荒井由実(現・松任谷由実)が人気を集めるようになった時期。“八王子といえばユーミンだよね”と校内放送でも定番で、久米さんもアルバムを買って耳コピをしながら、“私もこういう曲を作れたら素敵だろうな”と感じていた。またブラックコンテンポラリーやソウルミュージックなどに目覚めたのもこのころだ。
片や賛美歌や教会音楽に触れることは皆無。八王子に引っ越してからは、教会の日曜学校にも通っていなかった。
「家がキリスト教なら違ったんでしょうけど、うちは仏壇があるような家なので。自分は神様や仏様とは無縁の人間だと思うようになっていました。
それにダーウィンの進化論から、アダムとイブから始まる世界は伝説なのかという生意気な考えも出てきて。神様のことを考えるのはもう卒業という気持ちでしたね」
コンテストへの応募は曲を聴いてもらいたいだけだった
ちょっとアウトローな生徒ではあったが、高3のクリスマスから猛勉強。内部進学の合格ラインを突破して、'77年に共立女子短期大学へ入学する。クラブ活動は文芸部を選んだ。
「子どものころから文章を書くことが苦手で、作文の時間がすごくつらかったんです。曲を作っても詞が書けないから歌えなくて。入部したのは、言葉を紡げる人への憧れが大きかったのかなと思います」
ここで久米さんは大きなものを得る。思ったことを気負わずに何でも書いてみればいいと、部の友人から教えられたのだ。
それまで起承転結がうまく結べなければ書いてはいけないと思い込んでいたが、譜面は音を記憶するために書く。言葉も同じでいいと知ったのだ。そこから、ふと浮かんだ言葉たちを書きとめていくようになる。
そんな青春真っ盛りな時期の久米さん、地元では絶世の美女と呼ばれていたらしい。前出の遠藤さんが、とっておきの秘話を教えてくれた。
「講座にいらした男性が終了後にこっそり話してくださったんです。同郷の方で、学生時代にみんなで隣の車両からのぞいてたって。先生は気づいていなかっただけでマドンナ的存在だったようです」
そして短大1年のときに転機が訪れる。『ミス・セブンティーン・コンテスト』への応募だ。だが、タレントになりたかったわけではない。コンテストの名称は知らず、母が持ってきた新聞の切り抜きに書かれた“自作自演も可”の一文に惹きつけられたのだ。
「曲を作ってはいたけれど、中学の文化祭以来、誰にも聴かせていなかったので、誰かに聴いてもらいたかったんです。そして欲を言えば、いい曲だとか全然ダメだとか、何でもいいので評価してほしかった。家でマイクもなしにピアノの弾き語りを録音して、譜面と一緒に送りました」(久米さん、以下同)
反応が返ってくるとは夢にも思っていなかったが、ある日、“ほかの曲はありますか?”とCBSソニーから連絡が来た。呼ばれた先は六本木のスタジオ。何曲か歌い、その後“一緒にやってみませんか?”と誘いの電話が。
「『デビューの約束はできないから申し訳ないけど、4年制の大学に行ったと考えて、私がいるソニーを大学だと思ってちょうだい』と声をかけてくださったんです」
短大を2年で卒業してそのまま就職という人生もあるが、ほかの道を考えてもいいのかもしれない。しかも、自分の曲を面白いと言ってくれている。
「そんな人がこの先いるとは限らないし、これは出会いなのかなと思ったんです。『大学3年、4年をソニー大学で一緒に曲作りしたいです』とお答えして、それがスタートでした」
こうして、短大に通いながら、できあがった曲の譜面をCBSソニーに持っていく日々が始まる。直しが入ることも多々あったが、「“話にならないからさよなら”じゃなかったのは励みになりました」と久米さん。
『白い朝』から『異邦人』へ
そんなある日、中央線で自宅へ帰る途中、車窓からの夕景に心が動かされた。
「『ドラえもん』に出てくる土管があるような空き地が、まだたくさんあった時代。そこで子どもたちが楽しそうに遊んでいて、夕焼けも美しくて。そこから生まれた『白い朝』というタイトルの曲が、その後、『異邦人』になったんです」
提出した当初は、“イマイチかな”と自己採点。将来のことを思い悩み、短大2年の夏休みをもどかしく過ごしていた。
ところがCBSソニーではCMのタイアップソングとして、この曲に白羽の矢が立っていた。商品は三洋電機の大型カラーテレビ。シルクロードブームを予見して、撮影は中東を予定。原曲はフォークソングテイストだったが、手直しをすればエキゾチックな映像にハマりそう、と評価されたのだ。
話を聞いたときの驚きを「まさに青天の霹靂でした」と久米さんは形容する。
「キャリアを積んできた方なら“やった!”となるんでしょうけど、まったくの素人だったのでピンとこなくて。“え、あの曲ですか?”とポカンとしてました(笑)」
当初は、誰が歌うかは決まっていなかった。自分の曲は自分で歌いたいと思いそうだが。
「いえ、全然。曲を使っていただけるだけでありがたいし、普通は自分の曲をプロの方に歌っていただけるなんて、あり得ないこと。それが実現するなら、こんなうれしいことはないと思ってたんです」
ところが最終的に、本人が歌うことになる。久米さんにとっては“マジ!?”という心境で、「歌入れは一晩に100回直されて、“『異邦人』テイク100”と有名になりました」と苦笑いしながら明かしてくれた。
'79年3月に短大を卒業し、10月にデビュー。芸名の久保田早紀は、21世紀を先取りするという意味で、自身で選んだ。大型CMタイアップ曲でのデビューだっただけに、さぞや華々しいスタートだったのではと思いきや、「最初は誰もヒットするとは思ってなかったんです」と意外な舞台裏が。
「CMソングだから少しは引っかかるかな、くらいでした。それが、レコード店からの注文がだんだん増えていき、万単位になって初めて“うわ、じゃあこの子をテレビに出さなきゃ”みたいな感じだったんじゃないかな。大誤算ってみんな言ってましたから(笑)」
だが、ここで浮き足立たないのが久米さんだ。芸能界に入りたくてたまらなかったわけではなく、もともとの性格も裏方気質。中3の文化祭も男子メンバーの脇で目立たないから出られた、というタイプなのだ。それだけに、突然の大ヒットで増したのは、うれしさよりも不安。
「すぐ売れちゃったからどう言われるか心配でしたし、私が好きなニューミュージックなどの世界では苦節何年とか、長くやってきたからこそのカッコよさがあって。こんなのはダメだと感じてました」
ブラウン管越しに見ていたスターたちと共演
『ザ・ベストテン』『夜のヒットスタジオ』など、音楽番組花盛りだった時代。ブラウン管越しに見ていたスターたちと共演し、優しく話しかけられても、居心地の悪さは消えない。ポルトガルのリスボンでアルバムをレコーディングしたり、ツアーで全国を回ったりと活躍を続けながらも、自信を持てないままでいた。
そんな中で考えるようになったのは、自分の音楽のルーツ。ユーミン、グループサウンズ、ビートルズ、歌謡曲、……好きな音楽をたどっていくと、最後に行き着いたのは賛美歌だった。“じゃあ久しぶりに教会へ行ってみよう”と思い立つ。だが、どの教会に? 困っていた久米さんに、不思議な偶然が訪れる。『笑ゥせぇるすまん』の喪黒福造役で知られる声優、大平透さんのラジオ番組にゲスト出演したときに八王子の教会を紹介してもらったのだ。
「CM中の雑談で、行きたいところはある?と聞かれて、教会と答えたんです。そうしたら大平さんのお宅がクリスチャンで、教会を建て替えているので家を礼拝堂に貸していると。しかも場所は八王子。こんな偶然があるなんて!と、びっくりしました」
道に迷ってしまい、たどり着いたのは別の教会だったのだが、今、久米さんが属している教派は大平さんが紹介してくれたところと同じバプテスト派。少しずつ糸が連なるように、縁はつながっていくものなのかもしれない。
そして、偶然たどり着いた教会も、素敵なところだった。アメリカ人の宣教師から、久米さんいわく「目から鱗のような」メッセージをたくさんもらい、婦人聖歌隊の歌う賛美歌に“これが音楽なんだよな”と深い感動を覚える。
「愛や平和、救いといった歌詞の内容と歌っているご本人たちの心にズレがないというか。本当にこういうことを思って歌っていると感じたんです。当時の私は、一応プロのシンガー・ソングライターとして活動していたけれど、私のほうが素人で、聖歌隊のみなさんのほうが本物なのかなと」
そこから約半年後、'81年の秋には洗礼を受けた。賛美歌だけでなく、キリスト教の教えに惹かれた理由を尋ねると、「ひと言で説明するのはすごく難しいんですけど」と前置きしつつ、次のように語ってくれた。
「それまでの私は、自分教の信徒だったんです。自分の考えや、やる気を信じていた。でも実際の私はそこまで強くないし、先々まで見通して行動することもできないんですよ。そこに牧師さんのお話がすっと入ってきたんです。『波に翻弄されながら目的地もわからずにひとりで進む人生と、ナビゲーターを隣に乗せて進む人生、どちらがいいですか?』って。今まで自己流で生きてきたけれど、やっぱり波がたくさんあった。
これからはそうではなく、聖書の神を自分の神様として受け入れて生きようと思ったんです」
結婚を機に電撃引退「シャッターを閉めます」
ちょうどこのころ、夫との出会いもあった。ザ・スクェア(現・T-SQUARE)というフュージョンバンドでキーボードを担当していた久米大作さんだ。'81年にバンドを離れてからは、映画『その男、凶暴につき』の音楽をはじめ、作曲・編曲や音楽プロデューサーとして活躍中。同じ事務所だったこともあり、ライブの打ち上げで話すようになったのがきっかけ。
「ミュージシャンの方って、当時は青山や表参道に住んでいる方が多かったんですけど、彼はずっと三鷹在住。八王子の実家から通っていた私は、同じ中央線というところに親近感が湧いて。あと、鍵盤の先輩なのでいろいろ教えてもらいたいと思ったのが、惹かれた理由ですかね」
対する大作さんは出会ったころ、久米さんにどんな印象を持っていたのだろう。
「心が強く、自分が求めていることに真摯に向き合う人だなと。こう言うと硬いイメージですが、普段は天真爛漫で明るく、生まれ育った地域も文化圏も近いので、出会いから和気あいあいでしたね」(大作さん)
その第一印象は、今も変わっていないという。
音楽について相談するうちに、ふたりの仲はいつしかお付き合いへと発展。大作さんが久保田家へ来ると、それまでのボーイフレンドの場合はいつも不機嫌だった父が、上機嫌だったという。明るくて屈託がない大作さんを「だから大ちゃんが好きなんだ」と、よく母にも言っていたそうだ。
交際期間は約3年。その間に大作さんも洗礼を受け、久保田早紀名義のラストアルバム『夜の底は柔らかな幻』のサウンドプロデュースも手がけた。
'84年の秋、久保田早紀として最後のコンサートツアーを行い、結婚を機に引退を決めた久米さん。迷いや未練はなかったという。
「最後のコンサートでも言ったんですけど、“久保田早紀という商店で売るものは全部売り尽くしたので、もうシャッターを閉めます”という気持ちでした。全部やりきったという思いがあったんです」(久米さん)
新婚生活の傍らでバプテスト神学校で勉強
そして'85年3月、結婚。久米小百合としての新たな生活がスタートした。新米主婦として最初の数か月は苦労の連続。曜日に関係なく動く業界にいたので、ゴミ出しの曜日を覚えるのが苦手だった。
特に大変だったのは料理。
「母が調理師免許を取ったり教室を開くくらい、料理が上手だったんです。なので、実家では私が手間をかけて料理することがなくて。結婚後、しばらくは、おみそ汁を作るのでも『え、こんなに時間がかかるの?』と主人が言うくらい。ワカメをもどしたらすごい量になっちゃったり、恥ずかしい話です(笑)」(久米さん、以下同)
普通の主婦として淡々と生きていければそれで十分。そう考えていたが、教会音楽の仲間たちとの縁で、結婚した年に大作さんとともにアルバム『歌う旅人』に参加。'87年には初ソロアルバム『テヒリーム33』を発表した。
また、教会やミッションスクールからの誘いで、ミニコンサート開催などの活動も増えていく。そんなある日、ミッションスクールで質疑応答の時間が設けられた。自身のことについてはこれまでも話してきたが、そこで出てきた質問は「聖書に出てくる三位一体って、何ですか?」。
「当時はまだ全然、聖書の勉強をしていなくて、高校の世界史レベルの知識しかなかったんです。もう、赤っ恥どころじゃないレベル。教会のお手伝いをするには聖書の基礎くらいは知っていないとダメだったと感じて、神学校に入ることにしたんです」
こうして'88年、最初は聴講生として東京バプテスト神学校での勉強がスタートする。その後、大作さんから「せっかく入ったんだから、卒業を目指したら?」との言葉に背中を押され、本科に入学し直し'94年に卒業。聖書や歴史、ギリシャ語やヘブライ語の基礎、そしてキリスト教の根底にある“愛”について。一心不乱に吸収した日々を「今の私があるのは、この神学校のおかげ」と久米さんは言う。
そして、神学校に通うなかで、音楽宣教師としての道を考えるようになる。小坂忠さんをはじめ、素晴らしい先輩たちを間近で見て共に活動するうちに、芽生えた思い。それは卒業後に「フォートス」(ギリシャ語で光の意)と名づけたミニストリー(伝道団体)の設立につながっていく。音、絵画、音楽を軸に、チャペルコンサートやクリスマスブック、エッセイ本、そしてオリジナルアルバムなど活動は多彩。“集った人たちとともに神の大きさや深さを感じられるようなミニストリーにしたい”という思いが根底に流れている。
主婦として充実した日々39歳で子どもを授かり─
その間、大作さんとの結婚生活はどうだったかというと、イギリス〜ヨーロッパを1か月旅行したり、聖地を巡るツアーに参加したり、音楽制作をしたりと、夫婦ふたりでの充実した日々を過ごしていた。そして結婚から12年後、新しい命が誕生する。
それまで子どもをつくることは特に考えていなかった久米さん。妊娠を告げられたのも、体調不良で更年期障害かと思い病院に行った先でのことだった。
出産直前は回旋異常で大きな病院へ急きょ搬送され大変だったが、無事にかわいい男の子を出産。'97年、39歳の秋に久米さんはお母さんになった。
「子どものころは私に似てるってよく言われたんですけど、(息子も)四捨五入すると三十歳なので、そのころの主人に似てきました。あんなに可愛くてむにむにしてたチビちゃんが、もうこんなに大きくなっちゃったのかって、びっくりですよ」
そう語る表情は、優しい母の顔だ。呼ばれ方は“お父さん、お母さん”。
「でも何か頼み事をするとき、“すいません、久米小百合さん”と言ってきたり。外を歩いていて“小百合さん”と呼ばれて振り返ると息子だった、なんてこともあるんですよ」
驚くのが、幼稚園から高校まで毎日お弁当を作っていたというお話。小中高一貫の私立で給食がなかったのだ。好物の高野豆腐の煮物と卵焼きを欠かさず入れていたという。高校3年生のお弁当最終日にサンキューレターのようなものは受け取ったのだろうか。
「いえ、何もなかったですね。でも、一度も残したことがなかったんです。いつもお腹をすかせて早弁しちゃうくらいだから、当たり前なのかもしれないですけど(笑)。でもそのことが、私にとってはサンキューレターなのかなと思うんですよね」
今では料理好きの息子さん。オリーブオイルでチャーハンを作ってくれたりするという。それをニコニコ食す久米さんと大作さん。ほのぼのした光景が目に浮かぶようだ。
また大作さんに、ご夫婦の関係を何かに例えるなら?と尋ねると、ユニークな答えが返ってきた。
「クラスメート夫婦、でしょうか。出会ったのは20代前半ですが、小学校からずっと隣同士で机を並べていたふたりのような。あるときはどちらかが学級委員、あるときはどちらかが生徒会長。どちらかが落第でどちらかが満点のときもあったり。そんなクラスメートのような関係です」(大作さん)
今の仕事は「心のエステ」ちょっとすっきりする方が増えたら
子どもが小さいうちはセーブしていたが、手が離れてくると音楽宣教師の活動を本格再開。幼稚園の保護者礼拝で“聖書に出てくるおいしいもの”について話したことがきっかけで、聖書のエッセンスを楽しく学ぶ「バイブルカフェ」を始めたり。学びをより深めるためにカーネル神学校に入学したり。さらにゴスペル音楽院(現・ワーシップ!ジャパン)ではクラスを持ち、学生たちを指導する立場に。そして歌のほうでも現在までに久米小百合名義のアルバムを4作発表している。
久米さんにとって、音楽宣教師として喜びを感じるのはどんな瞬間なのだろうか。
「久保田早紀の時代は、コンサートに来てくださるのは私のファンの方々だったんですけど、今は私のことを知らずに来てくださる方も多いんですね。それで帰りがけに“悩みがあったけど心の荷が下りたよ”と声をかけてくださることもあって。すごくありがたくて、うれしいんです。私は、このお仕事って心のエステだと思っていて。モヤモヤしていたけど、ちょっとスッキリしたなという方が増えたらいいなと思って、続けているんです」(久米さん)
心が軽くなる久米さんの歌。その秘密を、大作さんが音楽家の視点でひもといてくれた。
「中域から高音にかけてビブラートの少ない歌声が魅力。と言うと堅苦しいですが、歌が暑苦しくならない声なんです。さらに、ドライな質感なので押しつけがましく聴こえない。そういう意味では音楽宣教師として稀有な存在かもしれませんね」
現在、66歳の久米さん。これからの彼女へ向けてのメッセージを遠藤さんにお願いすると、「そのままの先生でいてください!」と即答。
「お願いするまでもなく、先生は変わらないと思いますが(笑)。優しくて気を使ってくださる、みんなの憧れ。『少しでもみなさんの心が晴れやかになったらいいね』と、よく先生と話すんですが、そのお手伝いを今後もできたらと思っています」
今年で結婚40年を迎えるご主人の大作さんからは、
「あっという間で、“あれ?こんなにたってた”という40年でした。仕事面では、今まで関わってきたことをまとめていく時期にきていると思います。その力も十分備わってきているような気がしますので。応援します」
という言葉が届いた。そして最後は「いざ質問されるとなかなか言葉が出ないので、“クラスメート夫婦”としては、お互いの休み時間に伝えます」と、ユーモラスな一文が。仲の良さが伝わってほっこりしてしまう。
そして久米さん自身は、「この先も今の活動をずっと続けていければありがたい」と語りつつ、
「キリスト教が日本の文化に貢献してきた分野のことを、学校などであまり習わないんですね。歌謡曲や小学唱歌にも、賛美歌がルーツのものが多いんですが、知らない方も多くて。なので、そんなお話も伝えていけたらなと思っています」(久米さん)
神様にナビゲートしてもらいながら進んできた半生。この先も、その道には温かな光が降り注ぎ続けるだろう。
<取材・文/今井ひとみ>
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