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ヤクザ、無縁仏、輸血拒否...葬儀業者が語る「異常な最期の光景」

TABLO / 2014年3月29日 19時0分

ヤクザ、無縁仏、輸血拒否...葬儀業者が語る「異常な最期の光景」

 人生最後のセレモニーである葬儀は、その人の人生を表すという。できることなら、自分の葬儀を見てみたい。そう思う人も、少なくないはないだろう。今回は二十年以上に渡って葬儀専門の花屋(業界では仕事屋と呼ばれている)に従事し、現在までに二万人を超える「知らない人達」の葬儀をこなしてきた男性(42)の告白から、様々な人間模様が渦巻く終末の風景に迫ってみよう。

 現役の仕事屋である俺は、多い時で一日四人、年間平均で千人以上の葬儀に立ち会ってきた。最近の風潮を言えば、経済不況や無縁社会の影響からなのか、参列者の少ない寂しい葬儀が増えている。大量に余った会葬御礼を持ち帰る喪主さんの姿を見かける度に、世の中の無情みたいなものを感じて、見知らぬ故人に同情してしまうこともあるほどだ。

 それ以上に悲惨なのは、身寄りのない人の葬儀だろう。そうした場合には民生委員の指示によって葬儀が執り行われるが、故人が金を残していなければ、お経をあげる僧侶はもちろんのこと、祭壇や遺影が用意されることもない。棺桶の他にあるのは、俺が持ってきた一対の花だけという状況だ。誰一人として焼香に来ない葬儀も珍しくなく、ひとり寂しく亡くなった故人が、時間の経過を待つだけの葬儀を経て無縁墓地に葬られることを思えば不憫でならない。

 もちろん、金を惜しまない豪快な葬儀もある。その代表格は、任侠団体の人達の葬儀だ。最近は暴対法の影響で少なくなったが、以前に有名組長の葬儀を担当した時には、我が目を疑う光景を目の当たりにした。いよいよ最後のお別れという時に、組長の棺を囲む人達が、分厚い財布や百万円の札束を棺桶の中に次々と投げ入れていくのだ。見たところで判断すれば、その額は一千万円を優に超えていた。

(燃やすくらいなら、俺にくれ)

 そんな思いの中、どうにかして取れないものかと考えてはみたが、釘で打たれた蓋を開ける術はなく、全ては灰になった。この葬儀だけは、いま思い出しても悔やまれる。

 この仕事で一番辛いことと言えば、親が死んでしまっていることがわからず、棺桶の中の故人を無邪気に起こす幼児を見る時だ。

「ねえ、パパ起きないよ。なんで、ずっと寝てるの......」

 こうした光景は、子供を亡くした親を見るより辛く、何度見ても慣れることなくもらい泣きしてしまう。それと同じく、仏さん自身が幼児の時も辛い。自分の孫に「高い高い」をしている最中に誤って落として、初孫を死なせてしまったおじいちゃんを見た時は、見ていられないほど可哀相だった。遺族席の険悪な雰囲気の中で、針のむしろに座らされているようなおじいちゃんの姿は痛々しく、その場にいるだけで息が詰まる思いがしたものだ。あのおじいちゃんの余生が気になるが、それを知る術はない。

 その一方、身内の死を喜ぶような遺族には同情できない。最近では、まるで旦那が死ぬのを待っていたかのように、まだ葬儀場にいる段階から保険会社に連絡する未亡人を目にすることも増えた。

「手取り額はいくらになるの? 入金日はいつ?」

 その見苦しいほどに浅ましい顔を見れば、あまりにも憎らしく、罰があたるように願うばかりだ。

 さらには、こんな挨拶で父親の葬儀を締めた長男もいた。

「ウチのダメ親父は、ずっと病気に苦しんで、その治療に家族の稼ぎを全て使ってきました。いままで我慢してやってきましたが、やっと死んでくれて、いまは清々した気持ちで一杯です」 

 介護疲れで身内を殺してしまう事件も増えているから、その気持ちは分からないでもないが、父の死を悼む参列者に話すべきことではないだろう。 

 もうひとつ、ある宗教の信者である母親が、交通事故で命を落とした小学生の子供の死に顔を見ながら嬉しそうに放った言葉も忘れられない。小耳にはさんだ話によると、信仰心の強い子供が自分の意志で輸血を拒否したために、助かる命も助からなかったという。

「みて! 正しい宗教をやっていたから、いい死に顔しているでしょう」

 宗教の教えに従って死んだ息子の死に顔をみて喜ぶ母親の狂気に触れた参列者は、皆一様に慄き、接待を受けることなく早々と退散していた。

 こんな嫌な気分になる葬儀ばかりだと気が滅入ってしまうが、なかには思わず笑ってしまうハプニングが起こることもある。それは、白血病で亡くなったという女子高生の葬儀で、参列者が最後の別れとして花を入れている時のことだった。故人の恩師だという初老の男が、前振りもなく突然に「千の風になって」をアカペラで熱唱し始めたのである。

「○○のお墓の前で泣かないでください。そこに○○はいません」

 しかも、歌詞にある私というところを、故人の名前に変えて歌うという念の入れようだ。それを、ものまね調で真剣に歌うのだから堪らない。我々の仕事は何があっても笑ってはいけない仕事だが、この時ばかりは笑いを堪えられきれずに吹き出してしまった。咳き込むフリをして、その場を凌いだのは言うまでもない。

 様々な感情が交錯する葬儀は、まさに人生の縮図だ。よりよい葬儀で故人を見送るためにも、葬儀中の言動や振る舞いには、充分に配慮していただきたいと願う。死者に鞭を打って得られるものは、何ひとつないのだから。

Written by 東郷龍司

Photo by djandyw.com

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