親黙り、子黙り「お兄ちゃんは木の間に入っていって見えなくなった」|川奈まり子の奇譚蒐集二五(上)
TABLO / 2019年5月6日 11時37分
「ほら、寄ってきましたよ。見えますか?」
――少年は闇を湛えた水の中に両手を深く潜らせ、ゆっくりと「∞」を描いた。すると海の底から光の粒が無数に湧きあがり、彼の手首の周囲に銀河が生まれた。
子どもと妻が歓声をあげる。さっきまでの恐ろしいほどの静寂が破られて、少し緊張が緩んだ。非日常という言葉がポッカリと頭に浮かぶ。今朝まで自分たちは東京にいたのだ、と、なぜかあらためて思った。
そして、東京の日常から自分たちがどれほど離れてしまったか気がついて、なんとなく怖くなった。でも、上の息子は父親の気も知らず、少年のそばに駆けていこうとしている。
「転ばないように気をつけて。僕につかまっているといいよ」
少年が濡れた手を差し伸べて親切に振る舞うのを見て、下の息子も、「僕もやりたい」と訴えた。
「じゃあママと行こう」と妻が言って、小さな手を握り、慎重な足つきで波打ち際を少年の方へ進んでいく。
気がつけば、眼前に夢のような情景が顕現していた。
愛しい妻と幼い息子たちが少年を囲んで、暗い海に手足を浸し、不思議な星々に囲まれている。あれは星ではなく夜光虫だ、海洋性のプランクトンにすぎないのだとわかっていても、なんという妖しい煌めきか。
それに……こうして眺めると、思っていたよりずっと綺麗な少年だ。夕食のとき、高校生かと訊ねたら「はい」と答えたが、きっとまだ1年生だろう。腕も脛も毛が薄く、胸も腰もすっきりと痩せて、中性的な面差しをしている。島の子にしてはあまり日焼けしていないが、なぜだろう。海辺に住む人々はかえってあまり海遊びをしないものだと聞いたことがあるけれど、本当なのだろうか。
「あなた、写真を撮ってよ」
妻の声にハッと我に返り、首から提げていたデジカメを構えた。
「うまく撮れるかな」
一枚、撮った。別のアングルを探そうとしたが、
「僕が撮ります。交代しましょう」
少年がそう申し出て、浜に上がってきたので、デジカメを手渡した。
妻子のそばに行って浜の方を向く。するとすぐに細い指が後ろから腰のあたりにしがみついてきた。息子がつかまろうとしたのだろうと思った。
「うん? どうした? 転びそうになったか?」
「え? 僕こっちだよ?」
「いや、おまえじゃなくて……」と長男に話しかけたが、途端に次男が妻の足もとにいるのが目に入った。
「あなた、ほら、撮るって! ハイ、チーズ!」
驚くタイミングを失って、笑顔で写真に納まった。背後からしがみついていた手の感触はいつの間にか消えていた。
――それは二〇〇八年の夏のことだった。
東京都の港区で暮らす高橋祥吾さんは、妻の正美さん、6歳の長男・隼人くん、4歳の次男・翔琉くんと式根島へ旅行した。
式根島を含む伊豆七島は、東京圏の住人にとっては手軽なリゾート地だ。竹芝桟橋から高速ジェット・フォイルを使えば、式根島までは片道3時間。リーズナブルなファミリー向けの宿泊施設、幾つかの海水浴場や、シャワーやトイレが完備された天然温泉があり、釣りやキャンプも楽しめる――というようなことを、祥吾さんと正美さんは、ファミリー向けの旅行ガイドブックで読んだのだった。やんちゃ盛りの息子たちを連れていくには最適な場所だと思えた。
4泊5日の旅だった。島でいちばんメジャーな海水浴場のそばに宿を取り、早朝に自宅マンションを出発した。
竹芝桟橋は自宅と同じ港区内にあり、車で20分足らずの距離。タクシーを拾って桟橋へ。そして午前8時頃に船に乗り、正午に島に到着した。午後の1時前後には早くも島の海水浴場でビーチパラソルを広げていたので、「なんだか夢を見ているみたいでした」と当時を思い出しながら祥吾さんは私に言った。
「あっという間に、こんな沖縄みたいな所に来れちゃうなんて、嘘みたいで。僕も妻も伊豆七島は初めてでしたからね……。宿のそばの海水浴場は遠浅の入り江で、波がほとんど無く、安全に子どもを遊ばせられました。その日は浜辺の売店で買った焼きそばなどで昼食を済ませて、夜は宿が用意してくれたバーベキューを楽しみました」
宿はコテージではないが、一室ごとに独立性が高い造りになっていた。宿泊棟が平屋造りで、各客室の玄関はどれも玉砂利を敷いた中庭に面している。これならば、静かにさせておくのが難しい小さな子どもたちを連れていても、他の宿泊客や宿のスタッフに気を遣わずに出入りができるわけだ。実際、以前、旅先で息子たちの声のせいでトラブルになり、厭な思いをした経験があった。だからこの宿を選んだのだ。さらに運の好いことに、チェックインしてみたら祥吾さんたちの部屋は角部屋で、しかも隣の部屋は空いていた。子連れで滞在するのに理想的な環境と言え、夫婦で大いに安堵したのだった。
おまけに、室内は長方形の洋室で広々としており、トイレとバスルーム、エアコン、テレビが完備されており、掃除が行き届いていた。ツインベッドの部屋だが、子ども用の簡易ベッドを1台用意してくれていた。
旅の滑り出しはこの上なく順調だった。
午後の早い時間に訪れた宿から至近の海水浴場はびっくりするほど綺麗で、入り江になっているためか波がほとんど無く、子どもを安全に遊ばせることが出来た。小さな魚やヤドカリ、蟹がいて、息子たちは大はしゃぎ。妻も満足そうで、いつもはあまり飲まないビールを祥吾さんに付き合って楽しんでいた。
さらに、バーベキューのときに給仕を務めた少年がある提案をしてくれたので、夜まで面白いことが続きそうな運びとなった。
「昼間に行った海水浴場に夜光虫がたくさん集まる場所があるから、もしよかったら案内すると言ってくれたんですよ。そうですね……16、7歳かな? 高校生だと言っていました。とても礼儀正しくて、でも話しかけると何でもハキハキ答えてくれるし、すぐに好感を持ちましたよ。タダで案内すると言うので、最初は遠慮したんですけど、子どもたちが行きたがって……。結局、食事の後、8時になったら部屋に迎えに来てもらうことになりました」
私も式根島で夜光虫を見物したことがあるが、宿のオプション・ツアーになっていて、幾らかお金を取られたと記憶している。祥吾さんにそう話すと、彼は「普通はそうですよね」と言った。
「実際、2日目の朝食のときに、宿のご主人が有料の夜光虫と星空見物ツアーの参加者を募ったのです。妻と顔を見合わせてしまいましたよ。じゃあ昨夜の男の子は何だったんだろうって……。夜光虫を見に行ってから変なことが起きたせいもあって、ちょっと薄気味悪く感じ、だから朝食後すぐに宿のご主人に昨夜のことを話したんです。すると、ご主人はそんな少年は知らない、給仕として雇った覚えもないと言うので、いよいよ怖くなってきました」
――少し時間を戻そう。正体不明の少年だとも知らず、夜の8時に祥吾さんたち家族は部屋で彼が迎えに来るのを待っていた。
8時ちょうどに砂利を踏む音が聞こえてきたと思ったら、すぐにドアがノックされた。
祥吾さんがドアを開けると、バーベキューのときの少年が静かな面差しで佇んでいて、「ご準備は出来ましたか?」と訊ねた。
そのとき初めて、祥吾さんは少年の名前を聞いていなかったことに思い至った。
そこで訊ねると、「鈴木です。鈴木太郎と言います」という答えが返ってきた……というのが祥吾さんの記憶なのだが。
「妻は、違う。そんな名前じゃなかった。佐藤タケシだったと言うんです。それも変な話ですよね」
ともあれ、少年はTシャツにハーフパンツ、ゴム草履で、大型の懐中電灯を持っていた。祥吾さんたちが部屋の外に出ると、先に立って歩きだしたが、日中に海水浴場に行ったときとは違う道を行こうとする。
「こっちじゃないんですか?」
「……近道なんです。3分もかからないと思います」
そう言って灌木や葛の繁みの間に入ってゆく。祥吾さんは懐中電灯を持っていなかったが、ここはまだ宿の敷地内で、庭や通路の随所に据え付けられた常夜灯の明かりが届いているため、足もとが見えた。
とは言え、かなり薄暗い。確かに、少年について行ったら繁みの隙間に幅の狭い階段があったが、うっすらした不安を感じた。名前さえ、さきほど知ったばかりの他人を簡単に信用しすぎたのではないだろうか……。
幸い少年の言葉は嘘ではなくて、あっという間に浜辺に到着した。人気がまったく無く、真っ暗なので別の場所のようだが、懐中電灯で照らされた売店や監視員の櫓などに見覚えがあった。
「そこで夜光虫を見物したわけですが、家族と一緒の写真を撮ってもらうために僕も後から海に入ったときに、後ろから誰かにギュッとしがみつかれたんですよ。ズボンのベルトより少し上の辺りを、ポロシャツの布地越しに、小さな両手でギューッと。てっきり翔琉がしがみついてきたんだと思いましたよ! まだ4歳だったから、甘えたくなったのか、転びそうになったのか、と。でもね、よく考えたら翔琉は、僕より先に、妻と手を繋いで海に入っていったんです。実際、そのとき翔琉は妻の足もとにいました。隼人は僕のすぐ隣にいて……。じゃあ後ろの手は何だ?ってなるじゃないですか!」
その後、少年と4人は来た道を通って宿に戻った。少年が先頭を、祥吾さんがしんがりを歩いたのだが、繁みの間の階段を上りはじめたとき、後ろで大きな水音がした。「魚かな?」と少年が呟く。
祥吾さんが振り返ると、人の肩幅ほどもある蒼白く輝く帯が、自分たちがさっき立っていた辺りから波打ち際まで迫ってくるところだった。
「うわ! こっちに来る!」
祥吾さんは思わず大声でそう叫んだ。しかし同時に妻子が「綺麗だねぇ!」「凄いねぇ!」と歓声をあげた。見れば3人とも感動の面持ちで眺めている。
だから祥吾さんは怖いと思ったのは自分だけなのだと悟り、何も言えなくなってしまったのだという。
本当は、海で腰にしがみついてきた何かがこちらに迫ってくるように感じて恐ろしかったのだが……。
「パパ、写真撮ってよ」と正美さんに催促されて、仕方なくデジカメで光の帯を撮った。
「ごめん。うまく撮れなかったかもしれない。暗いから」
「そう? まあ、写真は適当でいいよね。しっかりこの目に焼きつけたから」
正美さんは弾んだ声でそう言うと、少年に向かって、「本当にどうもありがとうございました! そうだ。ここで渡しちゃってもいいかしら。宿の人たちに話し声を聞かれたくないから。あのぉ、まったくお礼しないわけにもいきませんから、どうぞこれを……」と言って、何か小さな物を手に握らせようとした。
「本当に少額ですから。遠慮しないで受け取ってください」
「いえ、でも、そんなつもりじゃなかったので」
少年は拒むあまり、階段を駆けあがってしまった。
祥吾さんは、内心、海から離れたくてたまらなかったから、この機を逃さず妻と息子らを急かした。
「さあ、早く行こう! お兄ちゃんに追いてかれるぞ!」
子どもたちは走って階段を上って行き、祥吾さんと正美さんも早足になった。
――にわかに辺りが静かになった。息子らが離れていったせいだろう。
後ろで繁みがざわざわと潮風に騒いでいる。それが何か、人の気配のようにも感じられてきた。
振り向かない方がいいような予感がした。しかし我慢できなくなり、後ろを向いて、今上ってきた階段を見下ろしてしまった。
すると、下の方に、次男坊と同じくらいの大きさの黒い影が佇んでいた。あまりのことに声が出ず、ただ、正美さんの肘を掴んで振り向かせるのが精一杯だった。
「なあに?」
「あれ。あそこ。何かいる!」
「……木じゃないの?」
「違うよ。あの辺は階段だ。今、登ってきたところじゃないか!」
「厭だ。変なこと言わないでよ。背が低い木に蔦が絡みついてるんだよ」
「でも、こっちを見ているような気がしない?」
「何言ってるの? 怖がらせるのやめて! もう行くよ!」
結局、二人で競争するかのように階段を駆けあがることになった。
上ってみれば、階段のとば口からは宿泊棟の建物が思っていた以上に近かった。常夜灯の明かりを頼もしく感じた。自分たちの部屋の前に息子たちがいるのが見えた。
少年の姿は無かった。
長男の隼人さんが、「お兄ちゃん、もう行っちゃったよ」と祥吾さんに言った。「もう帰らなきゃって。あっちに走っていった」と中庭の奥を指差す。そちらの方の玉砂利が濡れて光っていたが、足跡は判然としなかった。幼い子らの説明は要領を得ず、「お兄ちゃんは木の間に入っていって見えなくなった」などと言う。
「千円札、あげそこねちゃった」と正美さんが小声で言った。
「明日、御礼を言えばいいよ」
祥吾さんは部屋の鍵を取り出した。少し会話が途切れると海の方角から目には見えない、なんとも言い表しようがない、圧力を感じた。急いでドアを開けて、妻子を先に入らせた。
ドアを内側から閉める直前、中庭の奥に少年がこちらを向いて佇んでいたような気がして二度見したが、見直してみたら誰もいなかった。
「僕と息子たちはすぐにシャワーを浴びて、その後、妻がバスルームに入りました。次の日は朝食の後、自転車を借りて温泉や展望台に行ってみるつもりでした。体力を使うし、8時に朝食の予約を入れていたので、なるべく早く子どもを寝かせようとしたんですけど、思ったようにはいかなくて……妻が風呂からあがるまでゲームをすることを許してやりました。隼人も翔琉もDSを持ってきていたので。そのときにはもう時刻が10時近かったかな? だから妻が怒ったのなんの。バスルームから出てきた途端に、それはもう、えらい剣幕で。僕まで叱られちゃいました。それで、すぐに消灯して全員眠ろうということになりました。玄関からいちばん遠い窓際のベッドに妻と翔琉が寝て、その隣に簡易ベッドを用意してもらっていたので、そこに隼人がひとりで寝て、僕は玄関側のベッドに……。窓から庭の常夜灯の光がかろうじて差し込んでいました。眠る邪魔にはならないぐらいの程よい明るさで、妻と翔琉が寝ているシルエットがはっきり見えました」
正美さんと息子らは間もなく寝息を立てはじめた。
しかし、祥吾さんはなかなか寝つけなかったのだという。
いつもはもっと遅い時間に眠る習慣であることに加えて、海での出来事が気味の悪い後味を胸の底にこびりつかせていた。
五本の指を備えた小さな掌の感触が腰の辺りに残っているように感じたし、階段に立っていた黒い影にも、まだ納得がいっていなかった。断じてあれは木ではなかったと思うのだ。では人かと訊ねられたら、なんだか人でもないような。肩も脚も無い、あの格好は……海坊主?
しかし、「そんな馬鹿な」と自分で自分を嘲笑する余裕が、このときはまだあった。
(つづく)
川奈まり子の奇譚蒐集・連載【二五・上】
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