未だ続く東日本大震災の余波...大川小卒業生が校舎保存を訴え
TABLO / 2014年4月14日 11時0分
東日本大震災で、児童74人、教職員10人が犠牲となった宮城県石巻市の大川小学校の卒業生5人が仙台市内に集まり、母校の大川小学校の校舎=写真左上=を遺してほしい、と訴えた。石巻市では有識者で震災遺構を保存するかを検討しているが、大川小はその検討対象から外されている。遺族の間でも、保存か解体かは意見は別れている。
集まりは「大川小学校卒業生による意見表明 2014」として開催された。この日までの意見表明に協力し、会を主催したのは「ここねっと発達支援センター緊急こどもサポートチーム」で、震災後、大川小の子どもたちや遺族への心のケアをしてきた。また、受験生の学習支援もしてきた。
「大川小の校舎を遺したい」と言い、この意見表明のきっかけを作ったのは、当時5年生だった只野哲也君(現在、中学校3年生)=写真右上=。津波に飲まれながらも、奇跡的に助かった生存者の一人だ。只野君は震災当初から自身の体験をメディアを通じて話して来た。
大川地区は自然が豊かだったと言い、「大川小はいつも地域の中の中心でした。学校行事があるたびに地域の人が集まって、盛り上げていました。僕は『ここに生まれて本当に幸せだ』と思っていました」。しかし、震災によって多くの地域の人たちが犠牲となった。「僕はこんな思いを二度と他の人に味わってほしくない」と訴えました。
只野君のイメージにあるのは、登米市にある明治村だという。明治村には「旧登米高等尋常小学校校舎」が保存されている。木造2階建てで、コの字型の吹き抜け廊下、正面にはバルコニーがある。国の重要文化財にも指定されている。また、明治から昭和初期の子どもが来ていた服があり、試着もできる。当時使用されていた机や椅子もある。
当時6年生だった成田涼花さん(高校1年生)は=写真右下=大川小よりも下流にある長面(ながつら)地区に住んでいたが、地域は浸水し、現在は仮設住宅で暮らしている。また震災後に大川中学校に入学したものの、間借りの校舎のまま卒業となった。その大川中学校の校舎は一度も授業を受けることなく、解体された。
「大川小学校があることでみんなが楽しく過ごした場所が蘇ってきます。そして現地を見に来る人も、広島の原爆ドームみたいに震災の辛さを訴えられると思います。また、5年後、10年後、大川小学校のところに、もともと卒業制作で作る予定だったものを作りたいです」
卒業制作では風力発電と太陽光発電を組み合わせた発電装置、そしてビオトープをつくる予定だったという。
同じく当時6年生で高校1年の三条こころさん=写真下右から2番目=は、成田さんと同じ長面地区に住んでいた。「震災は私にとって、友だち、家族を失って、毎日生きることで精一杯で辛くて、毎日泣いていても、生きるのに必死でした。でも、家族や友だちとあってしゃべることで生きる実感が沸きました」。友人や家族を失いながらも、必死で生きて来たことがわかる。勉強会の自己紹介でも「一生懸命生きています」と言っていた、という。
「大川小を遺してほしい。大川中がなくなり、大川小しかないので、大川小はちゃんと遺ってほしい。そして大川小はみんなと過ごした場所だし、なくなったらみんなと過ごした思い出もなくなってしまう。大川小に行くと、亡くなった友だちのこともを思い出します。だから、大川小を遺してほしいです」
浮津天音さん=写真下右から3番目=も当時6年生で、現在高校1年生。地震後に校庭に避難した天音さんは母親が迎えに来て、帰宅するが、その途中、津波が堤防を超えて来た。津波に追われながら、大川小よりも約2キロ上流で山側の針岡地区に避難した。翌朝、瓦礫と海水で道は寸断されて、地域の人の救助によって避難所となった河北総合センターまで行くことができた。
「3~4日が経ってようやく情報が入ってきた。しかしそれらは全て悲しい情報だった。どうしようもない喪失感の中、避難所生活をしていた。一週間が過ぎても、友だちや家族が亡くなった実感がわかない日々だった」という。そして、今日までの辛い気持ちやなじめない避難生活や間借り校舎での話をした。そんな中で心を拠り所にもなるが大川小の校舎だと訴えた。
「大川小は大川で遺った唯一の形ある思い出のある場所で、唯一、私たちの心が安らぐ場所。ちゃんと手を合わせることができます。いわば、私たちの唯一の心の居場所です。大川小がなくなったらどこに行けばいいのかわからないです」
最後に、震災当時は中学2年で、現在高校三年生の佐藤そのみさん=写真左下=は、津波の浸水域外に住んでいるために自宅は無事だったが、当時6年だった妹のみずほさんを亡くした。佐藤さんが校舎を遺してほしいとする理由は2つある。一つは「自分たちの大切な居場所である母校を遺したい」という。
「本当にいい思い出ばかりで、中学生になってからも放課後にみんなで遊びに行ったり、行事に参加してりしていました。全校児童が少ない分、どの学年の、どの子も名前がわかるほどで、本当に仲良しの学校でした。先生達も大好きです。今でも、あの校舎に入ると6年間のことが思い出されます」
もう一つは「大川小で起きたことをこれからも伝え続けたい」。
「震災でたくさんの児童や先生が犠牲になったからこそ、この学校を伝えていく意味があると思います。写真や映像で語り継いでいくことは可能だと思います。それでも、校舎があるのとないのでは伝わり方が全然違うと思います。校舎を壊してしまったら、本当にあそこはただの更地になってしまいます」
筆者のようなメディア関係者や、研究者、支援者、または行政関係の間では、被災した建物を「震災遺構」と呼ぶ。現に、この大川小の子どもたちの意見表明を伝えたニュースの一つには、見出しにも使っていた。しかし、今回意見を表明した子どもたちの口からは「校舎」や「母校」という言葉が使われた。そこで過ごした子どもたちだからこそ出た言葉に、筆者はその重みを感じた。
石巻市内では「市震災伝承検討委員会」が設立され、震災遺構として遺す建物候補を検討しているが、「第三者検証委員会に影響を及ぼす可能性がある」として議論の対象外となっていた。一方、宮城県南三陸町では、町職員ら43人が犠牲となった「防災対策庁舎」を一旦は解体を決めたものの、県がストップさせ、県震災遺構有識者会議の結論を待つ。岩手県では、陸前高田市では犠牲者のあった建物は早い段階で解体を決めた。釜石市では、200人以上が犠牲となった「鵜住居地区防災センター」について、地域や遺族の意見を聞き、最終的に解体を決めた。
なお、大川小の避難行動を巡っては、「第三者検証委員会」(委員長・室崎益輝神戸大名誉教授)は避難を開始する判断が遅れた原因として、△「正常性バイアス」による楽観的な思考△動揺する児童や一部の保護者を落ち着かせようとした△地域住民が校庭や近くの釜谷交流会館に避難したことや児童を引き取りにきた保護者が校庭に残っていたこと△ハザードマップで予想浸水域外であったことーなどをあげた。しかし、当日の避難行動に関しては、遺族調査の域を超えなかった。そのため、「事実を知りたい」として一部の遺族が県や市を相手に損害賠償請求の提訴をした。
Written Photo by 渋井哲也
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