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【ニッポン隠れ里奇譚】津山三十人殺し犯の亡骸が眠る岡山県倉見村

TABLO / 2014年6月1日 17時0分

【ニッポン隠れ里奇譚】津山三十人殺し犯の亡骸が眠る岡山県倉見村

 前回に続いて、「津山三十人殺し」ゆかりの隠れ里を一つ、紹介したい。"倉見(くらみ)"である。

 倉見は、昭和十三年五月二十一日に発生した津山三十人殺しの犯人、都井睦雄が生まれ育った村である。僕は前代未聞の大量殺人を引き起こした睦雄の犯行の動機の、そもそもの原点は、この倉見で醸成されたと考えている。

 僕は津山三十人殺しを調べるために、まずアメリカへ渡り、事件の詳細を記した失われたレポート「津山事件報告書」と出会った。その報告書を調査、分析する過程で、睦雄と祖母いねの間に血縁関係がないことがわかった。そして、睦雄が真っ先に祖母いねの首を刎ねた動機を探るうちに、睦雄一家が因縁の地・倉見で身内の一族から受けた、苛酷な差別や裏切りが存在していたことが判明した。それこそ睦雄の人生を、そもそも歪めてしまった原点だった。《詳細は拙著「津山三十人殺し 七十六年目の真実」(学研)を参照》

 睦雄が生まれた翌年(大正七年)から翌々年にかけてのこと。

 倉見の"支配者"であった都井宗家の当主の祖父、そして父、母を、睦雄はほんの一年半ほどの間にたて続けに失った。いずれも死因は肺病と言われ、その後幼い睦雄一家(睦雄、姉)は、宗家の資産からするとほんのわずかな手切れ金(それでも三人が慎ましく生きるのに十分な額だったが)で村から放逐された。

 その後睦雄一家にお目付のように張り付いたのは、睦雄の祖父の後妻で、睦雄とは血縁関係のない"いね"だった。睦雄一家が手にした手切れ金は、睦雄成人の時まで、いねが管理することになり、睦雄一家はいねの郷里である貝尾に移り住んだ。

 そして、それらのことを睦雄は知らずに"いい子"として育った......。

 睦雄が全てを知ってから、しばらくして「津山事件」は起こった。

 津山三十人殺しには、自分を見捨てた村の女たちへの復讐の念以外の、これまで語られなかった、もう一つの伏線が隠されていたのだ。

 津山三十人殺しを語るとき、倉見の村は、貝尾以上に因業に満ちた"隠れ里"と言っていい。

 さて、倉見の場所だが、周囲を山に囲まれた巨大盆地である岡山県の旧:加茂町(現:津山市)の北端にある。尾根一つ越えると、そこは鳥取市佐治町で、中国山地奥深くの実に狭隘な谷地にあった。

 倉見のクラとは「闇で暗い」という意味で、地名としては日中でも十分な陽のあたらない「深い谷」のことをさす。そしてミとは日本古代の言葉である「"み"そなわす」が語源で、「統治する」の意味である。

 つまり倉見とは「深い谷を統治する地」という意味で、古来、加茂谷を統べる支配層が住んでいたものと思われる。

 その支配層はまさに都井家のことであり、都井の姓を名乗る一族はすべからくこの倉見に起源する血統なのである。睦雄は加茂谷の支配者の末裔だったのだ。

 今現在の倉見の村には、ほんの四十人ほどしか住んでいない。そして、倉見には、都井一族は五家の系統しか残っていない。十数年後には、倉見の村は無住の廃村になるのではないか、とも言われている。

 そんな過疎地にある倉見の都井家が、かつて隆盛を誇ったのはなぜだろうか。

 今でこそ僻村とも言える位置にある倉見だが、かつての倉見からは山を越えて、東西南北、四方八方へ抜けていく山道のネットワークが整備されていた。尾根沿いに発達した街道が蜘蛛の巣のように発達しており、鳥取や津山はおろか、遠く京都あたりまで、山道をつたって往来することができた。

 しかも加茂谷は、山奥にも関わらず、平地が多く、水田もたくさんあった。倉見にも水田はかなりあり、豊かでにぎやかな村だった。倉見は、明治の頃は単独で"倉見村"という一地方自体であり、過疎化の始まった昭和五年の時点でも三六一人もの人が暮らしていた。

「加茂は田どころ米どころ」ともてはやされ、鳥取の山村では「嫁にゆくなら加茂へゆけ」と言われており、実際大勢の女が山を越えて加茂谷へやってきたという。

 そして、何よりも倉見の地位を決定づけたのは、古代から鉄生産の中心地だったということだ。

 古代、日本海側から製鉄の技術に長けた一族が、この地に移り住み、鉄を生業に隠然たる勢力を誇った。中世以降、倉見の地の支配層となった都井一族は、おそらく古代の製鉄の一族の末裔か、由来する一族だったのだろう。

 今の倉見は杉や檜に覆われた山の間に、ひっそりとたむろする、村とも言えないような寒村である。

 しかし、今も残る家々をよく見ると、その造りは重厚で格調が高く、かつての隆盛を今に偲べるものばかりだ。

 県道から倉見の村へ入ると、ほどなく右側に数軒の茅葺きの古民家が軒を連ねる。そのうちの一軒は、都井睦雄が生まれた家だ。明治の末か大正の初めに建てられたものと思われ、立派な土蔵まで残っている。

 大正時代のほぼそのままに今も残る。しかし、今現在は誰も人は住んでいない。

http://n-knuckles.com/discover/img/kurami02.JPG

 睦雄の生家の近くには、小さな墓地がある。

 その墓地に睦雄と祖母いねの墓がひっそりとある。

 睦雄は貝尾には葬ってもらえなかった。睦雄の自決した遺体は車で倉見まで運ばれ、父と母の墓の傍らへ静かに土葬された。墓碑や墓石はなく、近くの倉見川の河原石が遺体の上に置かれた。

 祖母いねの遺体も一緒に倉見へ運ばれた。車に乗せられる前に、斧で分断された首と胴体は、針と糸で縫い合わされたという。

 その墓地の土中には、今も睦雄の亡骸が眠っている。

 倉見の北端、自動車で行けるぎりぎりのあたりに倉見温泉というひなびた温泉がある。

 山を越えて北から倉見へやってきた古代の旅人は、その疲れた身体をこの温泉でぬくませ、癒したのであろう。

 そして、もしかしたら都井睦雄もこの温泉の湯につかっていたのかもしれない。

 倉見は"津山三十人殺し"の発端の地であり、稀代の殺人鬼である都井睦雄の生まれた、今はとてものどかな村である。

http://n-knuckles.com/discover/img/kurami03.JPG

http://n-knuckles.com/discover/img/kurami04.JPG

Written Photo by 石川清

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