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遊女55人虐殺事件の闇・おいらん淵と黒川金山【ニッポン隠れ里奇譚】

TABLO / 2014年8月20日 17時0分

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 あなたは"おいらん淵"の哀しい伝説を聞いたことがあるだろうか。おいらん淵とは東京都と山梨県のほぼ境界に位置する有名な怪奇スポットだ。おいらん淵は山梨県甲州市(旧塩山市)にあり、もともと国道411号線沿いの交通の便のすごくいいところにあった。気軽に立ち寄れる怪奇スポットだったことから、ネットなどでもよく話題になった。

 しかし、2011年にバイパスが開通してしまったことから、自動車で気軽に立ち寄れる場所ではなくなってしまった。今回は、"おいらん淵"とも因縁のある金山にまつわる隠れ里と、歴史のかたすみに埋もれた奇譚を紹介したい。(実は僕がこの隠れ里の取材をしたのは、2000年のことである。一応、現状にあわせて内容をアップデートはしたが、現状と若干の齟齬が生じているとしたら、ご容赦願いたい)

 時は戦国時代。今から四百年以上昔のことである。山梨から長野にかけて勢力をふるった戦国大名の武田氏が、織田信長に滅ぼされた。因縁の事件は、その武田氏滅亡の過程で発生したという。

 当時、おいらん淵にほど近い黒川山の山中には、良質な金鉱山が存在していた。金山の採掘坑周辺には、鉱物の採掘を生業とする「金山衆」が集まり、いつしか5千人を越える人の集まる大鉱山街に発展していたという。その過程で、数多くの遊女もこの鉱山街に集い、男たちを慰めた。

 産出された金などの鉱物資源は、武田氏の財政と繁栄を支え、その軍事力の礎ともなった。

 しかし、繁栄は長続きしなかった。鉱山の産出量は急減し、武田氏の力は急速に衰えた。歴史ドラマでは、織田氏や徳川氏の挟撃や、武田氏の御家騒動などで、武田氏は滅んだとされているが、実は金山という基幹産業の急激な衰退と財政的破綻も、その滅亡の重大な原因の一つであったのだ。

 武田氏の滅亡で、黒川金山も閉山に追い込まれることとなった。だが、金山は重要な軍事上の要地であり、その採掘法や採掘場所は軍事機密であった。それらの情報が敵方に漏れるのは、なんとしても防ぎたい。

 そこで黒川金山を閉じる時、金山の秘密を知る遊女たちを口封じする計画が、秘かに練られたという。世にも残酷な方法で、五十五人にのぼる遊女を一度に屠る計画がたてられ、やがて実行に移されたのだ。

 ある日、金山の役人たちは渓谷の、深い谷の上に蔦や藤蔓を張り巡らして、大きな宴台を設けた。やがて宴会が開かれることになり、何も疑わない五十五人の遊女が呼ばれて、やってきた。

 遊女たちは宴台にあつらえられた華やかな舞台の上で華麗な舞を披露した。それは天女が演じるような、艶やかで見事な舞だったという。舞がいよいよ佳境に達したその刹那、隠れていた役人たちが宴台を支える太い蔓を切った。五十五人の遊女をのせた宴台はまっさかさまに十数m下の谷底に落下。遊女の哀しい末期の叫びが、峻険な谷にこだました。

 岸壁や大岩に叩き付けられ、多くの遊女が脳天を割って即死した。なんとか即死を免れた遊女も、次々と多摩川の激流に呑み込まれ、溺死したという。川は血に染まり、下流には大勢の遊女の死体が流れ着いたそうだ。こうして、五十五人の遊女の亡骸を呑み込んだその川の淵はいつの頃からか、"おいらん淵"と称されるようになったという。

 おいらん淵に向かうには、JR青梅線の終点、奥多摩駅から丹波山村方面へ向かうバスに一時間ほど乗って、終点の停留所で降りる。その時点で、すでに周囲はうっそうとした山林に覆われているのだが、目指すおいらん淵はその停留所からさらに2時間余り山道をのぼらなければならない。

 やがて、慰霊塔や看板の立つ目的の"おいらん淵"に到着する。しかし、そうやってたどりついたおいらん淵は、本当のおいらん淵ではないという。由緒書きの看板に、ちゃんと記してあった。

 そのおいらん淵は、地元の人には『銚子滝』といわれている、別の場所なのだ。伝説で伝えられる本当の"おいらん淵"はさらに1キロほど上流の藤尾橋の近くにある『ゴリョウ滝』のことではないかというのだ。どうしておいらん淵は二つあるのだろうか。いったい、伝説の真偽はいかなるものなのだろうか?

 僕は地元の教育委員会を訪ねたり、史書や史料を調べてみた。その結果、驚くべき伝説の真偽が判明したのだ。結論から言うと、明治時代になるまで、おいらん淵の名称や伝承は地元に伝えられてはいなかった。

 文明開化が進みつつあった明治の半ば頃のこと、欧米の情報が次々と入ってきた影響もあって、怪談話みたいなものが流行した。例えば、"こっくりさん"も、その頃に日本に流入してきたもので、元はヨーロッパの『テーブル・ターニング』という、一種の降霊術である。その頃においらん淵の伝承も生まれた。

 一番最初のきっかけは、明治の初期に水源調査でこの地を訪ねた役人が『ここはまるで"おいらん"の肌のように美しい淵だなあ』と言ったことから、その名前がついたという("おいらん淵"の呼称の由来には他にも諸説ある)。

 はっきり言えることは、慰霊塔の建つおいらん淵は、本当のおいらん淵ではありえない。なぜなら、黒川金山の鉱山街と麓を結ぶ昔からの旧道は、慰霊塔の建つおいらん淵からかなり離れているからだ。

 しかし、『ゴリョウの滝』は、その旧道のすぐ近くにあり、もし伝説のような遊女皆殺し事件が本当にあったとしたならば、『ゴリョウの滝』付近以外ではありえない。そこから「ゴリョウの滝のあたりが、本当の"おいらん淵"に違いない」と言われるようになったという。

 では、なぜ慰霊塔の建つ『銚子滝』が"おいらん淵"と言われるようになったのだろう。有力な理由の一つは、そこには若干の平地があり、車の駐車スペースがあったからだ。車道に近く、参拝に便利だということなのだろう。『ゴリョウの滝』のあたりは傾斜もきつく、参拝にはあまり向かない。

 さて、ところで遊女たちの集団皆殺し事件は、実際にあったのだろうか? その真偽を探ってみた。(次号に続く)

Written Photo by 石川清

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