遊女55人虐殺事件の闇・おいらん淵と黒川金山:後編【ニッポン隠れ里奇譚】

東京ブレイキングニュース / 2014年9月20日 15時0分

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 実は黒川金山に限らず、鉱山周辺にはよく、秘密保持のために遊女や鉱夫を殺害してしまった、という伝説が残る。真偽はともかく、それに類する事件は、かつて実際に発生したことはあったのかもしれない。

 ただ、黒川金山に限って見てみると、ちょっと事情が異なる。

 まず武田時代の末期には、すでに黒川金山は枯渇しつつあり、秘密保持をする必要はほとんどなかった。

 また武田の金山衆の持つ高い鉱山技術についても、その後、彼らは徳川氏に取り立てられて、佐渡金山や奥秩父に展開する鉱山開発に用いられたり、水戸方面の土木開発に活用されたり、各地に金山衆の技術は伝播していったというのだ。

 こうして振り返ると、黒川金山については、大がかりな秘密保持政策がなされた形跡はほとんどない。むしろその後は彼らの技術移転が積極的に行われたのだ。

 さらに"おいらん"という名称自体、江戸後期の十八世紀頃に誕生した言葉であり、戦国時代には存在していなかった。

 ただし「遊女虐殺事件が全くなかった」と断言できるだけの証拠もない。

 本当の真相は歴史の闇の彼方に埋もれてしまっている。

 ただ、遊女集団虐殺事件があろうが、なかろうが、当時の山中での遊女たちの暮らしは、決して楽なものではなかっただろう。黒川金山鉱山街で働いた多くの遊女は、再び下界や故郷に戻ることはなく、山深い山中で若くして亡くなってしまったに違いない。

 僕は静かに手を合わせて、"おいらん淵"に向かって黙祷を捧げた......。

 黒川金山に生まれた鉱山街は「黒川千軒」と呼ばれた。「黒川千軒」は坑道にほど近い山裾にできたもので、その規模は谷に沿って上下六百m、標高差で二百十mにわたって広がっていた。野球場が2、3個は入るほどの大規模なもので、建物が建てられていたと思われるテラス状の土地が三百以上見つかっている。

 驚いたことに、黒川金山には「黒川千軒」のほかに2つの鉱山街跡が見つかっている。一つは「寺屋敷」といい、文字通り、かつては寺社が置かれた集落とみられている。

 もう一つの鉱山街跡は「黒川千軒」の北東側の谷にあり、「女郎ゴー」と称された。"おいらん淵"の哀しい伝説の主人公にもなった遊女たちがいた街と言われているが、鉱山道具が多数出土して、坑道にも近いことから、基本的には鉱夫の暮らす集落だったと思われる。

 実は「黒川千軒」には、武田氏が滅亡し、江戸幕府の時代になった後も、小規模ではあるが、人が住んで、採掘を続けていたという。

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