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【東日本大震災の悲劇】大川小学校裁判で原告が勝訴も"事実"はわからないまま

TABLO / 2016年11月4日 18時0分

【東日本大震災の悲劇】大川小学校裁判で原告が勝訴も"事実"はわからないまま

 東日本大震災で児童74人が死亡・行方不明となった宮城県石巻市の大川小学校について、児童23人の遺族19人が宮城県と石巻市を相手取った訴訟で10月26日、仙台地裁(高宮健二裁判長)は、原告の主張を一部認め、県と市に14億円の支払いを命じる判決を言い渡した。判決では、津波襲来の予見性を認め、裏山に避難しなかったのは過失だとした。しかし、多くの遺族が求めていた「事実」は、わからないままだった。

 判決要旨によると、地震後、集まってきた地域住民の対応をしながら、ラジオ放送で情報を収集。午後3時半ごろまでに、従来と格段に規模の異なる大きな津波が三陸沿岸に到来し、大津波警報の対象範囲が拡大されたことを認識した。

 石巻市の広報車は、遅くとも午後3時半ごろまでに津波が北上川河口付近の松林を越えたことを告げて高台への避難を拡声器で呼び掛け、学校前の県道を通過した。教員らはこれを聞いていた。そのため、津波襲来の予見可能性を指摘している。

 その上で、被害を避けるために裏山に避難することができたのに、それをせずに、新北上川に近い、いわゆる「三角地帯」に避難場所を選択し、結果が児童や教職員が津波に巻き込まれた。裏山避難について「斜面の傾斜が20度を上回る場所はあるが、児童はシイタケ栽培の学習などで登っていた。避難場所とする支障は認められない」として、裁判所は過失と認めた。

 原告の思いの中で、「学校に責任がある」という点は、裁判所に通じたことになる。ただ、裁判で勝つこともさることながら、地震が起きて津波にのまれるまでの約50分間、どうして、なぜ避難が遅れたのか?が知りたいとも願った。そのため、当時、学校にいたものの、唯一生き残った教職員Aの証言を聞きたかった。しかし、心的外傷後ストレス障害となっていることを理由に、法廷に立つことはなかった。

 教職員Aは最大のキーマンだ。原告側は、検証委が証言を得られなかったことで、裁判という場に移して、チャンスを待った。が、裁判でも実現しなかった。心的外傷後ストレス障害を診断した主治医によってストップがかかっているからだ。

 教職員Aはこれまでにまったく証言してないわけではない。第一回目の保護者説明会で「体育館の通路のところから見ているときに何度も揺 れが来て、山の方で木が倒れたり、様子を見ました」「余震が来 て揺れるたびにメキメキと木が倒れる音がしました」などが、他の証言と違う。

 第二回目の保護者説明会の前日、生存教諭から市教委にファックスが届いた。翌日の説明会では公開されず、のちに明らかになった。以下はその一部。

◇◇◇

 子どもたちが校庭に避難した後、私は校舎内に戻り、全ての教室、トイレを含めてすべて場所を残留者がいないか一つ一つが確認しました。開かないドアがあったりして、全部回るにはかなり時間がかかりました。

 確認後校庭に戻り、教頭に報告に行った後、教頭とYS教諭(ファックスでは実名)を中心に何人かが集まって(誰がいたかは記憶がありません)話していました。私が「どうしますか。山へ逃げますか」と聞くと、この揺れの中ではだめだというような答えが返ってきました(どなたが言ったかは覚えていません)。(その理由は余震が続いていて揺れが激しく木が倒れてくるというようなことだったと思います)。

 そのほんの僅かなやりとりをしているとき、おじいさんやおばあさんなど近所の方々が避難所になっている体育館へ入ろうとされていたので、私はすぐその場を離れ、体育館に行って、危険だから入らないようにお話をしたりするなどの対応に当たりました。そのとき教頭や他の教員は迎えにきた保護者の対応にあたっていました。そのときも頻繁に強い揺れが続いていました。

 そのうち地域の方々が来て、釜谷の交流会館に避難しようという話があり、危険だからだめだといったやりとりを教頭がしているのが聞こえてきました。

◇◇◇

 教職員Aの証言は何度かあるものの、内容に一貫性がない。信用できる情報がどれなのかわからず、遺族は、本当のことを知りたいと願っていた。

 震災後、市教委の対応を一部の遺族としては不誠実と受け止め、不信感が増すなかで、文部科学省が仲介。2013年2月、第三者による「大川小学校事故調査委員会」が設置された。14年3月、検証委は「報告書」を石巻市に提出した。

 報告書によると、教職員Aの証言として、教頭に「山に逃げますか?」と声をかけたが、返事や指示がなかった。このため、 自分が校内にどこか安全に避難できる場所がないか探すと伝え、再び校舎内へ入った、という。

 なぜ、このとき「山」への避難が、教職員Aの頭をよぎったのか。なぜ、返事や指示がないのに、校舎に向かったのか。こうした緊急時には組織的な対応が求められるはずではないのか。その点は明らかではない。

 また、津波が来たために裏山に避難することになるが、「山の斜面を登ったところで、倒れてきた樹木に身体の一部が挟まれ、頭から水をかぶった。斜面の上の方から児童の声が聞こえたため、「上に行け、走れ」などと叫んだ。その後、挟まれていた部分から抜け出すことができ、自身も斜面を上へと登っていったが、その過程で眼鏡などを失った。

 しかし、その後、避難することになる山の反対側にある自動車整備工場の人は、教職員Aは「水に濡れていなかった」と証言している。その際、教員だと言うことも名乗っていない。証言の食い違いはなぜ起きたのか。こうした点も確認したかったのだ。

 遺族の一人は「学校の責任が認められた点はよいが、津波の予見性が争点になってしまった。その点も重要だが、裁判には勝っても、(生き残った教職員Aが証言していないので)その前提となる事実はわからないままだ」と話していた。

Written Photo by 渋井哲也

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