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【死後50年】チェ・ゲバラ、見せしめにされた死の真相

TABLO / 2017年10月5日 19時0分

【死後50年】チェ・ゲバラ、見せしめにされた死の真相


ゲバラを悩ませた厳しいボリビアの自然

2017年1月、私はボリビアを訪れた。

 この国は南米の中央部にある内陸の国だ。面積は日本の約3倍もあるが、人口は日本の10分の1の約1000万人。6000メートルを超えるアンデス山脈と熱帯ジャングルが広がる平地という、極めて多様な自然や文化が存在する国である。ボリビア多民族国という正式名称からもわかるとおり、この国には多種多様な人種が住んでいる。この国を構成している人種は黄色人種系の先住民のほか、侵略してきた白人、そして移民のために明治以降に渡ってきた日本人などである。

 ボリビア第二の都市、サンタクルスから彼の遺体が公開されたバジェ・グランデへはワンボックスカーで6時間、ひたすら山を上っていく道中となった。陸路の旅の途中で感じたのは、その自然の厳しさである。山を削り取って流れてきた渓谷の間を流れる川があったり、食べるものが育たなさそうな荒涼とした山々がどこまでも続いていたりしたのだ。

 私が道中、車の窓から見ていた光景は、ゲバラの苦難を物語っていた。こうした自然環境は、キューバ革命という成功体験の余勢を駆って、1966年にボリビアにやってきたゲバラを大いに悩ませた。彼が指揮するゲリラ部隊が山中の川を超える最中、何人かが濁流に呑まれて亡くなったり、慢性的な飢えに苦しまされたりしたのだ。

 

軍の嘘と政治利用

 約6000人が住む、標高2000メートルの町、バジェ・グランデに到着したとき、すでに夕方になっていた。バスターミナルの壁にペイントされた町の地図にはベレー帽をかぶったゲバラのシルエットを模したマークが点在した。これらは町のゲバラ関連スポット。いまやこの町はゲバラを観光材料として使っているのだ。

 ゲバラゆかりの地を巡るには時間が遅い。翌朝からゲバラゆかりの地を回り始めることにして、まずは投宿した。

ゲバラの遺体がさらし者にされた場所はセニョール・デ・マルタ病院というところにある。ここにある洗濯台こそが、ゲバラの亡骸が一時的に安置された場所である。ここはどのようなところなのか。ゲバラが処刑された直後の様子を資料を参考に、少し長くなるが記してみよう。

 1967年10月9日の夕方、病院の洗濯台にゲバラの遺体が置かれた。すると翌日から、彼の遺体を一目見ようと大勢の人が病院を訪れた。歴史的英雄的として世界中に名が知れ渡った今では信じられないが、彼ら町の人びとは、彼のことを、邪悪な侵略者として見に来ていた。中には大声で、

「私の国の兵士を殺した奴がどんな顔してるのか。それを見に来たんだよ!」

 そう言いながらやってきた女性すらいたという。

 ボリビア軍は10月9日、「ゲバラは24時間前(10月8日)、戦闘中に命を落とした」と発表した。しかしそれは事実とは違っていた。

 真相はこうだ。

 10月8日、渓谷に潜んでいたゲバラの部隊17人はボリビア軍の挟み撃ちに遭い、攻撃される。反撃するも多勢に無勢であった。ボリビア軍との戦闘でゲバラは負傷。捉えられ、8キロ先の村へとヘリで連行された。連れて行かれたのは村にある小学校の校舎。彼はここに監禁され一夜を明かした。そして翌9日の昼、つまり遺体が公開された日の昼頃に銃殺された。

 遺体の公開は処刑される前から決まっていたようだ。というのも、処刑を担当する兵士たちには「頭は打たず、首から下を狙え」という指令が下っていたそうなのだ。公開が決まっていなかったら、そんな指令は下るはずがない。公開が決まっていたからこそ、きれいな状態で、ボリビア軍の残虐さや非道さを諸外国に印象づけないように、細心の注意が払われたということらしい。

 しかし公開が終われば、無惨なものであった。ゲバラの遺体は二日目の公開の後(10月11日未明)、左右の手首のところで分離され、遺体は一部が隠蔽された。

 隠蔽されたのは、両手を切り離された方の遺体であった。公開が終わった日の未明に、ボリビア軍が運び出して、墓標を建てずに埋めてしまったのだ。ゲバラの友軍によって遺体が奪還されれば、捕虜として捉えられた後、裁判もなしに一方的に処刑されたことがバレてしまう。そのことを軍は何より防ぎたかった。それに埋葬されている場所が、ゲバラ信奉者たちの聖地となることも避けたかった。ボリビア政府が遺体を隠蔽したのはそうした理由からだった。

 一方、ゲバラの両手は首都のラ・パスに送られた。ゲバラの祖国アルゼンチン政府が身元を確認できるようにするためであった。遺体すべてを引き渡せば、処刑したことが明るみになる。かといってまったく渡さない訳にはいかなかった。そのための苦渋の策であったのだろう。

洗濯台の今

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 バジェ・グランデに到着した翌朝に話を戻そう。

 セニョール・デ・マルタ病院を訪れると、そこは広い中庭のある、平屋造りの病院だった。訪れたとき、朝の診療時間。患者で渡り廊下は医者や患者らが忙しく歩いていた。病院の建物を通り過ぎて、中庭に出ると、ゲバラの顔が描かれている建物が眼に入った。そしてその奥には、鉄の柵で覆われている、意味ありげなあずまやが目の前に現れた。ガイドの男性は言う。

「50年前、この上にゲバラの遺体が置かれて公開されたんですよ」

 ガイドを務めてくれた男性が鍵を開け、敷地の中に入ると、あずまやの屋根の下に、コンクリートの台だけがあるのが眼に入った。

 私は息を呑んだ。

 コンクリートの台といい、そのまわりの壁といい、落書きという落書きで埋め尽くされていた。

 50年前、ゲバラはその遺体を意に沿わぬ形で公開された。そして、今は今でその場が落書きしつくされ、別の意味で見世物にされていたのだ。

 呆然として、突っ立っていると、後にいた男がひやかすように私に声をかけた。

「おまえも記念に名前でも書けよ」

 演歌歌手の鳥羽一郎に似た、粗暴そうなその男は、私がその日、雇っていたタクシーの運転手。無邪気な彼の行動に悪気はまるでなさそうであった。

 無言の私に対し、運転手は続けた。

 「ゲバラは私たちの英雄だよ。彼のお陰でたんまり儲けさせてもらってるからな」

 彼は相変わらず無邪気な様子で、そう言った。そんな彼に私の戸惑いの色はまるで眼に入っていなかった。

(写真・文/西牟田靖)

参考:「ゲバラ最期の時」戸井十月/「チェ・ゲバラ 旅、キューバ革命、ボリビア」伊高裕昭/「増補版 チェ・ゲバラ伝」三好徹

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