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『ひだる神』 通りすがりのあの場所で現れた黒い物体|川奈まり子の奇譚蒐集

TABLO / 2018年9月25日 15時0分


 山の妖怪に「ひだる神」というのがいて、これに取り憑かれると突然、猛烈な飢餓感をおぼえて倒れてしまうとされている。

 南方熊楠は『東海道七里渡』という本のなかで、1775年(安永4年)に今の三重県亀山市にあたる東海道・亀山宿の関所に現れたひだる神の逸話を書いた。 
 京都の旅商人が突然ひだる神に憑依されて倒れてしまったが、飯を与えられて満腹になると正気を取り戻したということだ。

 千葉幹夫編『全国妖怪事典』に載っている滋賀県甲賀市から伊賀(三重県西部)西山に続く御斎峠(おときとうげ)のひだる神はさらに恐ろしく、腹が膨らんだ餓鬼の姿で旅人の前に現れると、「茶漬けを食べたか」と尋ね、旅人が「食べた」と答えるや否や飛び掛かってはらわたを引き裂き、飯粒を貪り喰ってしまったのだという。

 諸説あるようだが、ひだる神は餓死した者が成仏せずに怨霊となった妖怪だという話がある。妖怪には害のないものも多いが、ひだる神は、自分が人として死んだ間際の苦しみを永遠に忘れず、同じように餓え死にさせる相手を探して彷徨っている怖いやつだ。しかも、ひだる神にとり殺された人間も怨霊化してひだる神になってしまうというのだから、まるで映画のゾンビか吸血鬼のようである。


――今回お届けするのは、このひだる神が現代に蘇ったかのようなお話。


 千葉県柏市に住む小菅浩美さんは、摂食障害に悩まされた経験をもつ。
 発症したのは10年前。浩美さんは当時28歳で、家族と同居する柏市内の自宅から都内の会社に通勤していた。
 5つ年下の妹がいる長女で、有名私立大学を何ら問題なく卒業して新卒採用で正社員になった。何不自由なく育ち、子どもの頃から学校の成績は良い方で、摂食障害になるまでは大きなトラブルも経験していない。
 性格は、ご本人曰く完璧主義で病気になる前はプライドが高かったという。それだけに、この障害を同僚に悟られただけで非常につらくなり、会社を辞めてしまった。

 2011年の5月下旬に、初めて過食嘔吐(大量に食べてからトイレで喉に指を突っ込んで吐くこと。摂食障害患者によくみられる異常行動のひとつ)した。退職したのは発症から半年後で、すでに過食嘔吐と1日中ほとんど何も食べない拒食を10日から1ヶ月ごとに交互に繰り返しており、体重は著しく減少し、常にめまいや脱力感を覚えるようになっていた。

 退職したのはちょうど29歳の誕生日で、うちひしがれた気持ちで帰宅すると、食卓のテーブルに高カロリーの生クリームやチョコレートで飾られたバースデーケーキが置かれ、母が台所で料理をしていた。母が「おかえりなさい!」と明るく声をかけてきた途端、頭が破裂したように感じた。

「視界が真っ赤になったと思ったら真っ暗になって、私の記憶ではそのとき気絶したことになっていたのですが、実際には、私は泣き喚いて手当たり次第に物を投げていたようです。ずっと後に家族から聞かされて知っただけでなく、1時間ぐらいしてハッと我に返ったときに、部屋のようすからわかりました。テーブルにあったお皿やコップが割れて料理が床に飛び散っていて、食卓の椅子が全部倒れていて、ケーキは壁際で潰れていました。壁がクリームだらけになっていて。

私は......私は、びっくりしてしまいました!

気づいたら母が泣いていて、父と妹が私を後ろから羽交い絞めにしていました。耳もとで犬が唸るみたいな声がするので振り向いたら、父の泣き顔が目の前にあって......。父が涙を流して泣くところを見たのは初めてでした。それで、なんだか......もう死んじゃうしかないと思ってしまいました」

 浩美さんは二階の自室に鍵をかけて立て籠もり、急いで引き出しからカッターナイフを取り出すと、一瞬の躊躇もなく手首を切った。
 すぐに父がドアの鍵を壊して入ってきたが、
「たぶん翌朝まで放っておかれても命に別状ありませんでした。傷は浅かったので」
 浩美さんは自嘲的な笑い声をたてた。

 私と彼女は電話で会話していた――電話インタビューの最中だった。
 時刻は午後7時すぎで、彼女は30分ほど前にパートタイムで働いている雑貨店から帰宅したところだ。
 現在、浩美さんは38歳で妊娠5ヶ月。一昨年、同い年の夫と結婚し、都内に中古の一戸建てを買って暮らしている。夫婦の共通の趣味は「我が家のリフォーム」と彼女は嬉しそうに話してくれた。子どもが歩けるようになったら犬と猫を飼うつもりだとも。

「当時のことを誰かに話しておきたかったんです。子どもが生まれたら、忙しくて、こんなふうにお話しする余裕は持てなくなると思うので、今のうちに」
 
 たまに、私が少し変わった体験談を集めているものだと思い込んでいる方がいらっしゃる。「変」と「不思議」は同じではないのだが、私の奇譚はルポルタージュ風のスタイルを取っているので、勘違いされやすいようだ。
 浩美さんもその口か、と、私は思った。
 しかし、私は早とちりをしていたのだった。

 浩美さんは手首を切った直後に意識を失い、救急車で病院に運ばれてからも目を覚まさなかった。出血量は少なく、脳や心臓にも異常はみられなかったが、まる二日間も眠っていたという。

「眠っている間、ずっと夢の中で、5月の終わり頃のある日に遭った出来事を思い出していました。少し離れたところから、記憶している景色を眺める感じで......私が登場するドキュメンタリー・フィルムみたいな夢でした。

5月の最後の週で、たしか金曜日か、勤め先はまだ完全週休二日制ではなかったので、もしかすると土曜日だったかも......。その日、私は風邪をこじらせて熱っぽかったので、『月曜日までに必ず治します』と上司に約束して早退したことを憶えています。柏まで帰ってきて......家から近い、あるアパートの近くを通りかかったら、報道の車が何台も停まっていて、人が集まっていました。私は好奇心から人だかりに近づいて......すると、3、4歳ぐらいの小さな女の子が人の隙間から出てきて、私を見て『ママ』と呼びました」

 浩美さんは、「ママじゃないよ」と答えた。
 女の子は悲しそうに口もとを歪めて、目に涙を溜め、「ママ」と繰り返した。見れば裸足だ。
「ママァ、お腹が空いたぁ」
「ごめんね。ママじゃないんだ。本当のママはどこかな......」
 こんな幼い子で、ましてや靴をはいていないのだから、すぐ近くに保護者がいるはずだと浩美さんは考え、あたりを見回した。
 だが、それらしい大人の姿はなかなか見つからない。周囲は、人だかりがしている以外は、なんの変哲もない住宅街の一角だ。空はどんよりと曇っていたが、まだ日中である。
「ママァ~。お腹が空いたよぉ~」
 浩美さんが視線を周囲に走らせている間も、子どもは、彼女のスカートを引っ張って、しつこく繰り返していた。
「ママァ......」

 困ったなと思いながら、ついに浩美さんは保護者を探すのをあきらめた。
 そして女の子の方を振り向いて――ギョッとした。
 女の子の足もとに赤ん坊のような形をした黒いものが四つん這いになっていたのだ。さらによく見ると、女の子の体は半ば透き通っていた。
 女の子の体を透かして、黒い赤ん坊が見えている。

「ママァ~! お腹が空いたぁ~! ママァ~! お腹が空いたよぉ~!」

 真っ黒な赤ん坊のような何かも、地べたに這いつくばったまま、目も鼻もない顔を浩美さんに向けて、「ママァ!」と叫んだ。

 浩美さんは無我夢中でその場を逃げ出した。「ママァ」と呼ぶ声が追いかけてきて、鼓膜に染み込んでしまうように感じた。
「ママァ! お腹が空いたぁ!」
 両手で耳をふさぐと、泣き叫ぶ子どもの声が頭の中にこだました。
「ママァ~! お腹が空いたよぉ~!」
 恐怖のあまり膝がガクガクしてうまく走れない。足がもつれてつまずきそうになりながら、急に重たくなった空気を両手で漕いで必死に前へ進み、しばらくして、恐る恐る振り返った。
 女の子も黒い赤子のようなものも、見えなかった。さっきの場所からは、いつのまにかだいぶ離れている。何も異常なところがない普通の景色を見て、少し安心した――その途端、胃袋が喉までせりあがってきたように感じて、浩美さんは思わず口を大きく開いた。
「カハッ!」
 体の外にある空気が口、喉を通って、真っ直ぐに胃の中まで繋がり、風船をふくらますように体の中にみるみる空洞を押し広げた。
 と、同時に目が回り、全身に寒気を感じた。今、興奮して走ったせいで、熱があがってしまったに違いないと浩美さんは考えた。

 しかし、違った。
 帰宅すると、浩美さんは本能に導かれたように真っ先に台所に行った。そして戸棚に置かれた食パンの袋が目に入るや否や飛びついて、袋を引き破り、食パンを掴みだして口に運んだ。

「......それが過食の始まりでした。何日か食べどおしに食べて、それでも食欲が止まらないので、太らないようにしようと思って吐くようになりました。戻すと、さらに飢餓感が激しくなって、また食べて......。それからずっと、治るまで、頭の中はいつも食べ物のことでいっぱいでした」


骸骨のような女性たち

 私は摂食障害について書かれた新聞や雑誌の記事を読んだり、拒食症患者をモデルにしたドキュメンタリー・フィルムを見たりしたことがあった。
 しかし、浩美さんのような発症の仕方は聞いたことがなかった。
 だから私は、彼女は入院中に見た夢と現実を取り違えているではないか、あるいは、ひょっとすると嘘をついているのかもしれない......と、疑った。
 そこで、次のような質問をした。

「辞職した日がたまたま誕生日で、隠していたつもりだった摂食障害が同僚にも家族にもバレていたというのは、とてもつらい状況だと思います。ショックが重なって倒れてしまい、精神がいわゆる遁走の状態に陥って異常な長時間、眠ってしまった......その睡眠中に夢を見たんですよね? 空想なのでは?」

 すると、浩美さんは電話の向こうで苦笑いしたようだった。

「そう思うのも無理はありません。目が覚めてから、退院する前に精神科でいろいろ検査を受けることになって、その後も3日ほど入院しました。そのとき、お見舞いに来てくれた母と妹に話したら、ただの夢だと言われました。悪夢を見ただけだろうって」

 とくに浩美さんの妹は姉の話を強く疑った。そして、退院した浩美さんに、怪しい女の子と黒い赤ん坊を見た場所を訊いて、自分でも訪れてみたそうだが、人だかりも報道陣も無く、住宅やアパートが建ち並ぶ、ごくありきたりな町の風景があるばかりだった。

 ひとしきり眺めまわして、家に引き返そうとしたのだが......。
「ンアアァ~! アアアァ~! ンアアァ~!」
 奇妙な叫び声が聞こえてきて、浩美さんの妹は足を止めた。
 いったん静かになったので気のせいかと思ったが、歩き出そうとすると再び声がした。
 彼女は、声の感じから赤ん坊か猫を想像したという。
そして、どうも後ろのアパートの方から聞こえるようだと思って振り向いた途端、激しい飢餓感に襲われた。
 この直後から、浩美さんの妹も過食症になってしまったのだという。

 さらに、二人を気遣って家に訪ねてきた従姉も摂食障害になり、浩美さんの学生時代の親友も家に遊びに来た直後から心身に変調をきたして心療内科に通うようになった。
 やがて、心労が重なって浩美さんの母は次第にげっそりと痩せ細り、持病の狭心症の発作を起こして倒れてしまった。

「母が倒れたのは私がおかしくなってからだいたい2年後で、これでもう家族4人のなかで健康なのは父だけになってしまいました。母は命に別状はなくて、わりとすぐに退院してきたのですが、そうしたら家の中で女3人がそろって骸骨みたいに痩せて目ばかりギロギロさせていることになったわけで、父は怖くなったんじゃないでしょうか」

 浩美さんはコロコロと笑い声をたてたが、骨と皮ばかりに痩せ細った女たちが一つ屋根の下にいるところを想像したら、正直なところゾッとした。とてもではないが笑えない。

「父はそれまで特に信心深くなかったんですけど、母が退院してきたら、急に、家族全員でお祓いしてもらおうと言い出しました」

 浩美さんの一家は、初詣や七五三のお祝いなどで馴染みがあった廣幡八幡宮で祈祷してもらった。「災厄消除」と「病気平癒」のご祈祷を受けた。
 そのうえさらにご祈祷から間を置かず、父の発案で家をリフォームし、廣幡八幡宮の神職を招いて、住まいと神棚のお祓いをしてもらった。

 浩美さんはご祈祷の効き目について最初は半信半疑だったが、リフォームと一連のお祓いの後、異常に飢えてしまうことがなくなり、みるみる心身の健康を取り戻した。
 同じように母と妹も回復したので、浩美さんは従姉と親友にもお祓いを勧め、2人ともそれぞれの地元の神社でご祈祷を受けて元気になった。

 浩美さんは、自分たちの摂食障害の始まり方と終わり方が一般的な症例とは異なっていることを知っていると私に語った。

「治療を受けていたときに医師やカウンセラーから話を聞きましたし、摂食障害について書かれた本も何冊も読みましたから......。川奈さんも、過食嘔吐が怪奇現象で始まって、お祓いをして治ったなんて、聞いたことがないでしょう? だから、私たちの場合は本当は過食症などではなくて、何かの祟りだったんじゃないかと......。私はそう信じているし、妹も......。私と妹は"あの辺り"には、今でも近づかないようにしています」

 あの辺り。
 浩美さんたち姉妹が恐れて近寄らないようになった、千葉県柏市内の某所。
 実は、私は、その場所に心あたりがある。

 そこは恐らく、2011年5月26日に2歳の男の子がネグレクトの末に餓死して、両親が逮捕された「千葉県柏市3歳児餓死事件」の舞台となったアパートの付近に違いない。
 事件が発覚し、報道陣が押し寄せたところに、浩美さんはたまたま通りかかったのではないか?
 この保護責任者遺棄致死事件で亡くなった男の子は、年齢は2歳10ヶ月だったが、死亡時の体重は5.8キロで、同年代の平均的体重13~15キロと比べると異常に痩せており、体格も非常に小さくて、見たところ赤ん坊のようだったという話だ。
 男児には8歳の長女と5歳の次女という2人の姉があり、発見時、次女も極度の栄養失調で体重が8キロしかなく、極度の栄養失調状態で話すことも出来なくなっていたそうだ。

 赤ん坊が黒かったのは死んでいたから、女の子が半透明だったのは生霊だったからなのではなかろうか。
 保護責任者遺棄致死容疑で逮捕された夫婦のうち妻の方は27歳で、浩美さんに歳が近かったこともあって、私はそんな気がして仕方がないのだ。(川奈まり子の奇譚蒐集・連載【十五】)

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