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福島第一原発事故 10年目で出て来た新事実 「フクシマ・フィフティー」のアナザーストーリー 第1回(インタビュアー│奥山俊宏、久田将義)

TABLO / 2021年3月8日 6時0分

福島第一原発事故 10年目で出て来た新事実 「フクシマ・フィフティー」のアナザーストーリー 第1回(インタビュアー│奥山俊宏、久田将義)

安全神話が崩れた瞬間。

「この話、10年後になっても世に出すべきですよ」。

この言葉を今でも覚えている。朝日新聞記者奥山俊宏(現・朝日新聞編集委員)さんが、取材後にぽつりと僕に言った台詞だ。2012年、福島第一原発事故取材で「もう1人のフクシマ・フィフティー」とも言うべき人にインタビューを終えた後だった。「10年後か。それって本当に出来るものだろうか」とぼんやりと思ったものだ。そして実際にそれを現在、公開する運びになったのも感慨深いものがある―ー。

2011年夏。僕はある人の紹介で福島第一原発作業員に取材を試みていた。作業員たちは皆、20代。福島県双葉郡(双相地区)で生まれ育った若者だった。原発の街に生まれ育ち、原発で勤める事になり、そして原発事故に遭ってしまった青年たち。故郷を自動車で案内してもらったが、道路はでこぼことしており、船が陸上に乗り出し、また店、住宅は崩壊していた。信号はずっと赤点滅のままだった。ある大臣が「ゴーストタウンだ」と言ってひんしゅくを買ったが、彼ら自身が「あの発言、合っていますよ。ゴーストタウンです」と自虐的に笑いながら話してくれた。

あの当時、「彼ら」はどういう思いだったのか。どういう思いで故郷を失ったのか。なぜそれでも原発に帰り、廃炉作業へ行ったのか。どういう気持ちで放射線を浴びながら作業をしているのか。時には酒を飲みながら話を聞いた。「お前、今日、何ミリ食った?」そんな会話が交わされた。

「食った」というのは「放射線を浴びた」という彼らの「専門用語」である。酒も進むと勢いからか、「俺、子供出来なくなるんすかねえ」そんな事を言う若者もいた。何と悲しい言葉だろう。取材から帰る常磐線の中、恥ずかしい話だが取材ノートを見直して涙腺がゆるむ事もあった。それら彼らの生の声を通じて、当時はどういった心情で作業員であり、被災者の彼らは働いていたのかを一冊の本にした(『原発アウトロー青春白書』(ミリオン出版・大洋図書)。

こういった「情」を伝える事は出来る。しかし、そこに専門家の分析・解説をプラスした「報」を加えて「情報」を残しておかなければならない。旧知のジャーナリスト朝日新聞の奥山俊宏記者という人がいる。

ある夜、恐らく新宿・歌舞伎町のゴールデン街で作業員の取材をしていることを奥山さんに言ったら非常に興味を示した。奥山さんとはゴールデン街でお会いするくらいだが、知り合ってからは15年以上になるだろう。『内部告発の力―公益通報者保護法は何を守るのか』(現代人文社)を上梓されたころに知り合ったと思う。その後、『ルポ 東京電力  原発危機1カ月』(朝日新書)などを発行している。
奥山さんとメールや電話でやり取りした後、福島県いわき市に作業員の取材をしましょうという事になった。そして僕が取材をしていた作業員とは別ルートである人にインタビューする事が出来た。それが今回の記事になる。「フクシマ・フィフティー」という言葉がフィーチャーされたが、これは「フクシマ・フィフティー」のアナザーストーリーである。

※記事中のマサさんに発言の引用部分をチェックして頂いた後、電話をしたら「こんな事を言っていたんですね」と呟いた。「もう一言ありますか?」というメールを出してみた。「もう一言ですか? 震災さえなければ……ですかねぇ」というメールが2021年1月29日に返ってきた。(文責・久田将義)

原発爆発に屋外・至近で遭遇した現場主任「1号機はパカーン、2号機はダーンッだった」

大手電機設備会社の社員として長年にわたって東京電力の原発で働いてきた彼は、2011年3月11日から15日にかけて事態が悪化しつつある福島第一原発の現場にいた。1号機の爆発は「パカーン!」という軽い音。3号機の爆発はそれとまったく異なり、「もっと速い、ダンッ!みたい」な音。4号機の爆発は「地下を伝わってくるような感じの、ズンッていう感じ」の音だった。

2012年2月、彼は、福島県いわき市内で、ニュースサイトTABLO編集長の久田将義氏と朝日新聞記者の奥山俊宏のインタビューを受け、1年弱前の記憶をたどった。記事にしない前提のインタビューだったが、このほど、事故発生10年を前にその前提を解除。氏名や勤務先の会社名を伏せた上でインタビューの内容を公にすることに彼は同意した。福島第一原発で発生した3回の建屋爆発に遭遇した人による、3回の爆発音の質を比較しての、ここまで具体的な体験談は他に見当たらない。現在、久田氏はウェブサイト「TABLO」の編集長を務め、奥山は朝日新聞の編集委員としてウェブサイト「法と経済のジャーナル Asahi Judiciary」の編集に携わっており、このインタビューの内容はそれらのメディアで一斉に発信することにした。

■14日夜から最悪の15日朝まで

福島第一原発が最悪の事態に至ったのは2011年3月15日朝のことだった。同原発構内にある免震重要棟に彼やその同僚は3月11日から詰めていたが、15日朝、ついにそこを去ることになった。JRいわき駅前の居酒屋で2012年2月29日夜、彼は次のように振り返った。

奥山:15日は何時くらいまでいらしたんですか?

マサ:逃げた日が15日なんで、15日は朝がたに解放状態です。15日朝に「いったん福島第二のほうにみんな避難してくれ」という話だったんで、おのおの、各会社で。そのときにはうちの人間て3人しか残ってなかったんで、その3人で。
15日(に福島第一原発にいたの)は朝だけですね。朝、そういうふうに言われてすぐ2Fに行っちゃったので。

東電関係者の間では、福島第二原発のことを「2F(にえふ)」と呼び、福島第一原発のことを「1F(いちえふ)」と呼ぶ。彼は3月15日朝、福島第一原発(1F)から12キロほど南にある福島第二原発(2F)へと避難した。

奥山:それは何時くらいか覚えておられますか。

マサ:朝ですね、ほんとに朝。

奥山:きっかけみたいなのは何かあったか覚えておられますか。

マサ:14日の晩の時点でもう「ちょっと今の状況で、やることがない」。とりあえず、14日の晩に第一弾で、「今いる人数は必要ないんで、ちょっと選別して、連絡員とかそういう人は残ってほしいんだけど、全部はもう、いる必要がないんで」ということで、14日の晩にいったん解散してるんですよ。で、だけれども、だれもいなくなるわけにはいかないんで、14日の晩から15日の朝まで残ったのが3人だけなんです。

奥山:14日の晩までは何人くらいいらしんたんですか。

マサ:11日から14日の晩までは随時、避難バスみたいなのが出てたんで、体調が悪くなった人間や家庭の事情やいろんな人間で、最初にいた人間からどんどん減っていくんですけど、14日の晩の時点では、どのくらいいたのかな? 8人くらいかなぁ?

奥山:これはA社(彼が務めていた設備会社)全体でということなんですか、それともマサさん(インタビューを受けている彼)の班で、ということですか。

インタビューでは、彼が勤務する会社の名前や彼自身の名前を出して会話したが、この原稿では彼の名前を「マサ」とし、会社名を「A社」と仮名にする。

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マサ:彼らは別に、一緒には仕事していないんで、ぼくのA社の元請けとして下に使っている会社も含めて確か8人くらい。

奥山:それが14日の夜の段階で3人まで減った?

マサ:そうです。14日の夜にほかの人は避難して3人だけが残って。で、15日の朝を迎えたらすぐ、「いま、線量が高い。危ない状況なんでいったん2Fに行ってください」という話で。もうすぐ朝に。8時か8時半くらいかなぁ。

奥山:そのときは何号機(が原因)ということだったんですか。

マサ:そのときはたぶん14日の晩に、2号機の爆発? あれはよく分からないですねぇ。みんな4号と言ってるんですけど、そのときの情報は「2号のサプチャンが爆発した」という話で、そのときはぼくらも音だけは聞いてるんですよ。免震棟にいて。ズシーンという音がしたんで、「これは地震じゃないだろう」という感じで。で、そのまま朝を迎えたら、「避難の準備をしてください」。詳細は伝わってないんですけど。

【ここで彼は「14日の晩」と述べているが、正しくは15日午前6時12分のできごとを指しているのだと思われる。その時間に4号機の原子炉建屋が水素爆発を起こしたことが判明するのは後のことで、当時、福島第一原発敷地内の屋外でそれを目撃した人はおらず、東電社内では、4号機ではなく、2号機の原子炉格納容器サプレッションチェンバー(圧力抑制室)で午前6時14分に爆発が起きた、と情報が伝わった。サプレッションチェンバーのことを略して「サプチャン」と呼ぶ。】

奥山:15日朝の音は1回ですか?

マサ:1回ですね。

奥山:6時過ぎということになってますよね。

マサ:そうです。寝てて、朝がた、その音でみんな起きて、それから2時間くらいしてるうちに、「いったん避難しますんで、準備をしてちょっと待ってください」ということで。そうこうしているうちに「随時、各社で、行ける車で、とりあえず2Fまで行ってください」。

奥山:「だれが残る」という話はそのとき何か聞いてますか。

マサ:どっちですか。14日の晩ですか?

奥山:15日。

マサ:15日はもう、東京電力以外はみんな避難です。東京電力もある程度の人たちはみんな避難です。いわゆるフィフティーと呼ばれている人たちだけ、が残ってる状態。でも、それがだれが残ったとかどういう人たちが残ったとかはぼくらは情報ないんで、分からないんですけど、ある程度、ぼくらの担当しているお客さんなんかも東京電力さんなんかも逃げてますからその時点ではみんな。もうほとんどの人が逃げてますから。

【この15日朝、午前8時35分に東京電力本店で始まった記者会見で、東電は次のとおり発表した。
「本日、午前6時14分頃、福島第一原子力発電所2号機の圧力抑制室付近で異音が発生するとともに、同室内の圧力が低下したことから、同室で何らかの異常が発生した可能性があると判断しました。今後とも、原子炉圧力容器への注水作業を全力で継続してまいりますが、同作業に直接関わりのない協力企業作業員および当社職員を一時的に同発電所の安全な場所などへ移動開始しました。」
この記者会見で、「現場に何人いるんですか?」という質問に対して、原子力設備管理部の黒田光課長(当時)は「正確な数字は分かりませんけど、五十人程度プラス・アルファぐらいだという情報があります」と答えた。同日午後3時44分に始まった東電本店の記者会見で、黒田課長は「残ったのが五十数名というふうに聞いていて」「750人くらいが退避をして、五十数名が残ったということでございました」と説明した。】

3月15日朝、多くの人が避難した後になお福島第一原発に残った人々について、やがて海外メディアを中心に「フクシマ・フィフティー」と呼ばれるようになった。

奥山:ふだんは重要免震棟の中に詰めておられるんですか?

マサ:いえいえ、あの施設自体は震災の起こる前の年の秋にできたばっかりなんで。そこはふだん誰もいないというか。何かあったときのための設備なんで、だれもいないんです。ぼくらもふつうに構内の自分の事務所で業務をしてるんで。そこの中にいたっていうのは、11日の晩に「もう線量が上がってるんで、みんな構内の人は入ってください」っていう話になったんで、そこから5日間そのまま。

奥山:あの建物(免震重要棟)の中では吉田所長以下がいるラウンドテーブル、あそこの周りにシマがあるんですよねぇ。

そのとき福島第一原発の所長を務めていたのは東京電力の執行役員でもあった吉田昌郎氏。3月11日に震災が発生して以降、吉田氏は、免震重要棟の2階にある緊急時対策室に陣取り、対応を指揮した。

マサ:そこらへんは全部東京電力さんで。ぼくら請負業者は……、その中のテーブルがあって、いっぱいいますよね。もうひとつ、その脇に部屋がいろいろ会議室とかいろんなのがあって、そこを割り当てられたというか。自分たちでスペースを見つけて、そこに収まって。11日の晩からずっとそこに、「A社はここで」みたいな感じでそこにいて。で、随時、お客さんが「あれやってくれ、これやってくれ」っていうのを言いにきてっていうような状況です。

奥山:中のやり取りっていうのは聞こえたり見えたりするものなんですか?

マサ:いや、あそこはほとんど中心ですけど、別室みたいな感じになってるので。ぼくらは「入らないでくれ」とか、そういうことは言われてはいないんですけど、基本的に入らないですね。

奥山:15日の朝、「2Fに行ってください」っていうのは、部屋に東電の人かなんかが来て?

マサ:そうですね。

奥山:理由としては「線量が上がってるんで」っていうことなんですか?

マサ:「線量が上がってるんで」、そうですね。一応みんな、とりあえず、「本当に重要な運転の人を残して、とりあえず退避することになったんで」っていうお話で。

奥山:「残して」っていうのは言ってたんですね?

マサ:そうですね。全部退去じゃなくて。

奥山:所長とか一部を除いて全員退去って話が前の晩(14日夜)というかその日(15日)の未明から総理大臣官邸でゴチャゴチャあったっていう話なんですけど、そういう話は何か。

マサ:あれねぇ、たぶんねぇ、ぼくの感覚ですけど、本当の全員退避、言葉どおりの全員退避って、出てないと思うんです。吉田所長以下、何十名かは「も、すべて退避」っていう話は、たぶん出てないと思うんです。

奥山:逆に、「残れ」と言われた人というのが見当たらないんですけど…。

マサ:うーん……。

奥山:結果的に50人、みんなボランティアで残ったみたいなんですけど、「残れ」って言われて残った人っているのかなって、ちょっと疑問に思ってるんですけど。

マサ:そこはあれなんでしょうねぇ、きっと。これも想像ですけど、「人情」的なものだと思うんですよ。きれいに言えば使命感みたいなものかもしれないですけど。東京電力の中でも、自分の今の立場、たとえば、東京電力の中でも末端の保安員と、保安要員の人と、それから部長クラスの人間とかは考え方が違うだろうし。そこの人間がやっぱり命令的に「残れ」って言われて残るとか、そういうことではないと思うんですよね。

■11日午後、地震と津波が発生

【2012年2月29日にインタビューを受けた時点で彼は40歳台。福島県外出身で、高校を卒業して電気設備会社A社に入った。
振り出しは福島第一原発。その後、新潟県の柏崎刈羽原発に転勤し、再び福島第一に戻ってきた。福島第一原発での勤務が通算で20年ほどだった2011年3月11日。午後2時46分に東北地方太平洋沖地震は発生した。震源は福島第一原発から180キロ離れた三陸沖の太平洋の地底で、マグニチュードは9だった。】

奥山:地震のときはどちらにいらして、どんな?

マサ:ぼくは11日の午後は事務所にいたんで。事務所はプレハブじゃないんですけど、そんなにしっかりした建物ではない3階建ての3階にいたんで、揺れはすごかったですね。

奥山:ふだんのお仕事的には、定期検査中のところの電気関係が主な。

マサ:そうですね、うちは、電気関係のことをとりあえずすべてにおいて。同じ業種の業者もいますんで、そこらへんを棲み分けする感じで、何号機はどこ、何号機はどこ、みたいな感じでずっと棲み分けができてるんで。その中で。やっぱり1F(いちえふ)ってもうできてるものなので、そういうメンテナンス的な要素しかないんですよね、仕事的に。あと改造と。改造とメンテナンスしかないんで。

奥山:地震が起こったあと、津波が来た。それはどういうふうにして知りました?

マサ:現場に行ってた人間がいて。その人間たちが徒歩で海岸のほうからずうっと上がってきて、「すげえことになってる」と。ぼくは見てないんですけど。事務所はけっこう高台のほうにあって。下のほうの現場に行ってた人間が徒歩で上がってきて、「すげえことになってる」と。

奥山:事務所は、協力企業が集まってるセンターみたいなところに?

マサ:そうですね、そういう企業棟というのが。

奥山:内陸側のほうに?

マサ:そうです。

奥山:そこに現場から戻ってこられて?

マサ:そうです。

奥山:4時過ぎぐらい、夕方ぐらいに?

マサ:そうですね。

奥山:それは津波ですごいことになってる、と。

マサ:そうです。

奥山:覚えてる言葉とか印象に残ってることは。

マサ:いや、やっぱり現場の人間は、あんだけの時間差があってよかった。津波が来るまで30分ぐらいありましたよね。地震で動けなかったけれども、とりあえず様子見てるうちに海がこう来るんで、「ヤバい、ヤバい!」って上がってきて。で、高台にいて、なおかつちょっと様子見てるときに、今度第2波。第2波は今度もっとデカいのが。もうそのときには、うしろも見ずに帰ってきたって言ってましたね。

【福島第一原発の1.5キロ沖合に設置された波高計によれば、津波の第1波は午後3時15分ごろに始まり、なだらかに高まって午後3時27分ごろに高さ4メートルほどのピークに達した。いったん波高は低くなったものの、午後3時33分ごろから再び急上昇し、これが第2波となった。波高計は午後3時35分に測定限界の7.5メートルを超える津波で破損。TBSテレビの映像記録によれば、午後3時36分22秒、福島第一原発の建屋(おそらく4号機のタービン建屋)に津波が激突し、波しぶきが垂直に立ち上がって建屋の高さを大きく超える様子が、福島県富岡町の小良ケ浜(おらがはま)の岬にテレビユー福島が設けていた「お天気カメラ」(定点の情報カメラ)によってとらえられている。】

奥山:そのあと重要免震棟に行くわけですか。

マサ:11日の午後2時何分に(地震が)あって、そのままホントは「帰れる人は帰っていいよ」っていう話があったんですけど、ぼくらも当然、そういうことがあれば、このあと「復旧やらなきゃいけないね」っていうのがあるんで。会社としても、ある程度の人数は残さなきゃいけないし。指示があったというか、そのときに全、構内から全部の人たちが出ていこうとしてるんで、渋滞でどうしようもないんです。だから、「そんなにあわてて出なくてもいいんじゃない?」って思ってて。きっと復旧っていう話にもなるし。ぼくもそれを「関係ない」って言える立場ではないんで。「とりあえずちょっと様子見て」って言ってるうちに、やっぱりお客さんのほうから「これから復旧やらなきゃいけないんで、とりあえずある程度の人数と、仕事ができる作業員をちょっと残してくんねぇか。連絡がとれるようにしてくれねぇか」っていう話になったんで、そう言われちゃうと帰れないですよね。

奥山:「お客さん」というのは東電ですよね。

マサ:そうです。

奥山:それは当日(3月11日)の夕方?

マサ:そうです、4時、5時ぐらい

〈インタビュアー@奥山俊宏(朝日新聞編集委員) 文責・写真@久田将義 次号へ続く〉

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