福島第一原発事故 10年目で出て来た新事実 「フクシマ・フィフティー」のアナザーストーリー 第2回(インタビュアー│奥山俊宏、久田将義)
TABLO / 2021年3月9日 6時0分
事故直後の福島第一原発内。
第1回から続く2回目の記事になる。今まで証言されていになかった「フクシマ・フィフティ」のもう一つの声。約10年前にインタビューを敢行。取材相手の「マサさん」の仕事の都合上、当時は公開できなかった。が、今回許可を得る事が出来た。あの時「現場」では何が起きていたのか。まだメディアに出ていない真実の一端がここにある。これは何があの時起きたのか貴重証言である。(文責・久田将義)
福島第一原発事故 10年目で出て来た新事実 「フクシマ・フィフティー」のアナザーストーリー 第1回(インタビュアー│奥山俊宏、久田将義)
■11日午後、地震と津波が発生
2012年2月29日にインタビューを受けた時点で彼は40歳台。福島県外出身で、高校を卒業して電気設備会社A社に入った。
振り出しは福島第一原発。その後、新潟県の柏崎刈羽原発に転勤し、再び福島第一に戻ってきた。福島第一原発での勤務が通算で20年ほどだった2011年3月11日。午後2時46分に東北地方太平洋沖地震は発生した。震源は福島第一原発から180キロ離れた三陸沖の太平洋の地底で、マグニチュードは9だった。
奥山:地震のときはどちらにいらして、どんな?
マサ:ぼくは11日の午後は事務所にいたんで。事務所はプレハブじゃないんですけど、そんなにしっかりした建物ではない3階建ての3階にいたんで、揺れはすごかったですね。
奥山:ふだんのお仕事的には、定期検査中のところの電気関係が主な。
マサ:そうですね、うちは、電気関係のことをとりあえずすべてにおいて。同じ業種の業者もいますんで、そこらへんを棲み分けする感じで、何号機はどこ、何号機はどこ、みたいな感じでずっと棲み分けができてるんで。その中で。やっぱり1F(いちえふ)ってもうできてるものなので、そういうメンテナンス的な要素しかないんですよね、仕事的に。あと改造と。改造とメンテナンスしかないんで。
奥山:地震が起こったあと、津波が来た。それはどういうふうにして知りました?
マサ:現場に行ってた人間がいて。その人間たちが徒歩で海岸のほうからずうっと上がってきて、「すげえことになってる」と。ぼくは見てないんですけど。事務所はけっこう高台のほうにあって。下のほうの現場に行ってた人間が徒歩で上がってきて、「すげえことになってる」と。
奥山:事務所は、協力企業が集まってるセンターみたいなところに?
マサ:そうですね、そういう企業棟というのが。
奥山:内陸側のほうに?
マサ:そうです。
奥山:そこに現場から戻ってこられて?
マサ:そうです。
奥山:4時過ぎぐらい、夕方ぐらいに?
マサ:そうですね。
奥山:それは津波ですごいことになってる、と。
マサ:そうです。
奥山:覚えてる言葉とか印象に残ってることは。
マサ:いや、やっぱり現場の人間は、あんだけの時間差があってよかった。津波が来るまで30分ぐらいありましたよね。地震で動けなかったけれども、とりあえず様子見てるうちに海がこう来るんで、「ヤバい、ヤバい!」って上がってきて。で、高台にいて、なおかつちょっと様子見てるときに、今度第2波。第2波は今度もっとデカいのが。もうそのときには、うしろも見ずに帰ってきたって言ってましたね。
【福島第一原発の1.5キロ沖合に設置された波高計によれば、津波の第1波は午後3時15分ごろに始まり、なだらかに高まって午後3時27分ごろに高さ4メートルほどのピークに達した。いったん波高は低くなったものの、午後3時33分ごろから再び急上昇し、これが第2波となった。波高計は午後3時35分に測定限界の7.5メートルを超える津波で破損。TBSテレビの映像記録によれば、午後3時36分22秒、福島第一原発の建屋(おそらく4号機のタービン建屋)に津波が激突し、波しぶきが垂直に立ち上がって建屋の高さを大きく超える様子が、福島県富岡町の小良ケ浜(おらがはま)の岬にテレビユー福島が設けていた「お天気カメラ」(定点の情報カメラ)によってとらえられている。】
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奥山:そのあと重要免震棟に行くわけですか。
マサ:11日の午後2時何分に(地震が)あって、そのままホントは「帰れる人は帰っていいよ」っていう話があったんですけど、ぼくらも当然、そういうことがあれば、このあと「復旧やらなきゃいけないね」っていうのがあるんで。会社としても、ある程度の人数は残さなきゃいけないし。指示があったというか、そのときに全、構内から全部の人たちが出ていこうとしてるんで、渋滞でどうしようもないんです。だから、「そんなにあわてて出なくてもいいんじゃない?」って思ってて。きっと復旧っていう話にもなるし。ぼくもそれを「関係ない」って言える立場ではないんで。「とりあえずちょっと様子見て」って言ってるうちに、やっぱりお客さんのほうから「これから復旧やらなきゃいけないんで、とりあえずある程度の人数と、仕事ができる作業員をちょっと残してくんねぇか。連絡がとれるようにしてくれねぇか」っていう話になったんで、そう言われちゃうと帰れないですよね。
奥山:「お客さん」というのは東電ですよね。
マサ:そうです。
奥山:それは当日(3月11日)の夕方?
マサ:そうです、4時、5時ぐらいですね。
■11日夜、中央制御室に照明を仮設
【彼によれば、2011年3月11日午後に震災が発生した当初は「今夜徹夜すれば帰れるかな」というような気持ちだったという。しかし、津波被害は彼の認識よりはるかに深刻だった。
2012年2月15日にいわき市内の居酒屋で久田氏のインタビューを受けた際、彼は、前年3月11日の夕方から夜にかけての出来事について次のように振り返った。】
久田:11日は避難されたんですか?
マサ:いや、避難してないです、そのまま。そうこうしてるうちに、お客さんから、東京電力から「対応しなきゃいけないから、待っててくれ」という連絡がきて。そうすると、うちの会社として、誰が残るか、何人残るかっていうのを、所長をはじめ。そういう話がくるのはわかってたんで。
久田:復旧作業っていうことですか?
マサ:そうそうそう、これだけの地震だったから、絶対どっかイカれてるんで。それに対しての復旧作業は絶対あるな、と。
久田:その時点でメルトダウンとか考えられました?
マサ:全然考えてないです。だってもう、「今夜徹夜すれば帰れるな」ぐらいの気持ちですもん、気持ち的には。やっぱりそこで津波を想定してないですからね。地震でガチャガチャになっちゃっただけだなと思ってるから。
久田:一番デカいのはやっぱり津波ですか。
マサ:そのあと津波が来て、電源全部ダメっていうふうになったあとですよね。
久田:46分から30分とかそのぐらい後に津波が来て、これはヤバい、みたいな感じになった。
マサ:それから、でも、「待機しててくれ」っていうことで、それが4時ぐらいで、で、実際に動き出したのは夜7時とか、たぶんそのくらいの時間なんです。ずっと待機してて。それまでいっぱい電話、連絡がかかってきて、「バッテリーはねぇか?」とか、「発電機はないか?」とか、「ケーブルはないか?」とか、そういうのがうちの会社にどのぐらいあるのかを調べてて。そういうのでずっと、それをやってて。実際に動き出したのは、その日の夜7時ぐらいに一番最初の、その、向こうから来た依頼が、各その中央制御室の電気が全部消えちゃったんで、それの……。
久田:津波で?
マサ:そうです。電源もそのときに全部なくなっちゃってるので。とりあえず中操が、中央制御室が明るくないと、どうにもならないんで、まずその照明を生かしてよと。
久田:中央制御室が真っ暗だった?
マサ:そう、真っ暗なんで、仮設でとりあえず生かしてくれっていうことで。
久田:その真っ暗をなんとかしろっていう作業をされた?
マサ:そうです。
久田:それは夜7時過ぎぐらい?
マサ:たぶん夜7時くらいか、そのぐらいだったと思うんですけどねぇ。
久田:その時点では津波が来てるわけじゃないですか。13メートルとか10メートルとか言われてるわけですけども、そこで電力が全部止まってしまったので、それによって、これは地震じゃ済まないな、みたいな認識はお持ちだったんですか?
マサ:そうですよ。その時点では「電源どこも生きてないよ」っていう話で、「中操、全部電気消えてるよ」っていう話はもう来ていたんで。
久田:そうすると、放射線とかがどうなるのかなとか、そこまでは考えてなかったですか?
マサ:そこまでは考えてないですね。
久田:これは3月11日の夜の話ですよね。
マサ:そうですね。
久田:中央制御室って別に電気が戻ったわけではないですよね。
マサ:戻ってないです。仮設でエンジン発電機。エンジン発電機を外に置いて、で、そこからケーブルを引っ張って中央制御室に照明をつけて。エンジン回して。
久田:それは○○工業とかA社さんとか、みなさんでやられたんですか?
マサ:うちだけですね、それは。
久田:そのときに残られたのは、東電のかたとあと何人ぐらいいらっしゃったんですか?
マサ:ぼくらは、何人いたかなぁ、当初。うちの社員が10人ぐらい。で、うちの協力企業の人が10人ぐらいかなぁ。
久田:11日から退避命令が出る15日まではどういう作業をされてたんですか?
マサ:11日の夜に中央制御室の電気をつけにいって、でもう、その日の夜遅くに周辺の放射線量が上がってるんで、「みんな自分の事務所にいないで、免震棟に集まってくれ」っていうことで、各業者の残ってる人全員。
久田:そのときは600人ぐらいですか?
マサ:そのときはもっといたと思います。だって事務員の人も女の人もいたし。逃げ遅れたというか、帰れなかった人たちが。
久田:免震棟というのはマグニチュード10ぐらいでも大丈夫と言われています。柏崎の勉強を経てという感じで。そのときは線量とか考えたことありました?
マサ:だから線量が上がってるって言われて。それまでは全然意識なくて。「上がってる」と言われて免震棟に集まれって言われたんで、そうなのかっていう。
久田:電力のほうから、「線量が上がってる」と。
マサ:そうです。周辺線量が上がってるんで。
久田:免震棟って結構デカいわけですね。
マサ:デカいんだけど、2階建ての事務所なんだけど、そのときは廊下から階段から全部人がいるような感じで。空いてるところにはすべて人がいるような状況。
久田:700人ぐらい?
マサ:いや、700じゃ足りないと思います。
久田:では1000人ぐらい。
マサ:たぶんそのときは。で、15日までにどんどんどんどん減っていくんですよ、保守に関係ない人たちが。東電がバスを用意して、随時退避させてって。
久田:事務員とか女性とかを。
マサ:はい、関係ない人を。
久田:1000人くらい免震棟にいたのが750人くらいになった?
マサ:たぶんそうですね、ずっとみんな帰してたから。
久田:それは3月15日ぐらいですかね。
マサ:3月11日の晩にその仕事を一個やって、その日はそれしかなかったんです、うちやることは。
久田:で、泊まったところは免震棟?
マサ:そう、免震棟です。で、何ごともなくというか。そのまま次の日の朝に、今度は「1号機のほうにいってくれ」と。(次回に続く)
〈インタビュアー@奥山俊宏(朝日新聞編集委員) 文責・写真@久田将義〉
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