第一次被害で人命が失われていたかも知れなかった福島第一原発事故 「自分の呼吸音と周囲のアラーム音しかなかった」(爆発から逃げる作業員)
TABLO / 2021年3月15日 18時0分
作業員が付けているAPD。
当時の民主党関係者が「第一被害は避けられた」と言い訳っぽく話していましたが、とんでもない。このレポートを読むと一次被害は奇跡的に避けられた、と言ってよいでしょう。
僕が驚愕したのは14日の3号機の爆発時の様子です。これは「マサさん」らが「命拾ったな」と言うように正に間一髪で未曾有の危機を避けられた、「偶然」(「マサさん」らにとっては不幸中の幸い)でした。
本サイトと朝日新聞で掲載されたように9年前、朝日新聞奥山俊宏記者(現・編集委員)と僕は福島第一原発事故に遭い「フクシマ・フィフティー」と同様に避難せずその場にとどまった「もう一人のフクシマ・フィフティー」とも言うべき作業員の「マサさん」のインタビューを試みました。
奥山記者とは15年以上前、歌舞伎町・ゴールデン街で知り合い、常々その仕事ぶりはリスペクトしていました。司馬遼太郎賞や日本記者クラブ賞を受賞する前の事です。
僕は僕で別ルートで、福島県・双葉郡、「原発の街に生まれ、原発の街で育ち、原発に勤め、原発事故に遭った」作業員の若者たちの話を聞いて『原発アウトロー青春白書』(大洋図書)という本を上梓しました。彼らは事故直後、避難するのですが、別ルートで踏みとどまった作業員「マサさん」の話を聞く事になりました。
東京で奥山記者に話したところ、興味を持ち(確か、東京大学工学部で原子力工学を専攻していたはず)一緒にインタビューをしに福島県いわき市に行きましょうという運びとなりました。電源喪失する中、「マサさん」らがどのように「闘った」のかは本サイトが連載した記事(記事末のURL参照)をお読み頂ければと思います。「マサさん」の仕事の都合上、9年前に取材したこの話は出せずにいました。が、ここに来て環境も変わり発表する事ができました。
奥山さんが「この話は10年後でも出すべきです」と言ったのを覚えています。いつも冷静な奥山さんの熱意を僕は感じたので「そこまでの話なのか」と再確認しました。奥山さんは原子力の専門家と言ってよい記者です。
というより、調査報道のプロ中のプロです。その人が言うのなら、是非10年経っても出したいと思うようになりました。
■「音的なものは自分の呼吸音と。マスクしてるんで。自分の呼吸音とまわりのアラームの音しかなかった」(爆発から逃げる途中)
僕が驚いたのは3号機爆発の時の模様です。6話をまとめてみます(文末のURLで全部読めるようになっています)。
奥山:3号が爆発する恐れがあるっていうこともご存じなかった?
マサ:わかんないです。あれねぇ、東電の賠償になんか足してくれないかなとか思ってて。そんなとこに行かされたぼくらは(笑)。
奥山:そうですよね。しかも、知らされもせずに。
マサ:冗談じゃねぇなと思って。
奥山:自衛隊の人がケガして、なんにも知らされてなかった、ということで。
マサ:自衛隊の人もいましたし。3号の爆発のときには、ぼくら、それから、メーカーの人、それから、自衛隊は注水やってた人、それぞれいて。逃げるルートは同じとこなんで、みんなで一斉にいろんな人がそこのところを、2号と3号のあいだのガレキの上をみんなで走って逃げて。
奥山:それは、しばらく収まるまでどれくらいの時間を置いたんですか?
マサ:あのときドカーンといったあと逃げて、「なんなんだ」って外を見たときに真っ茶色になってたんですけど、ちょっと様子を見てるうちに、あのとき風が強かったんで、フワーッとなんにもなくなったんですよ。きれいになって。で、誰が言ったかわかんないですけど、「今だ!」っていう声が聞こえて、一斉にそこから逃げた。
奥山:その2号と3号のあいだにほこりがワーッともやってたのが、風で?
マサ:そうです、たぶん消えたと思うんです。ぼくらは大物搬入口しか見えてないですけど、なくなったんで、「今だ!」って誰かが言ったので、そこから屋外のガレキに。
奥山:2号と3号のあいだを走ったわけですか?
マサ:走った。たしかに、そのときには何もなかったですね、ほこりもなにも。きれいな感じでしたね。いい天気だったんですよ。覚えてます。全然、目の前はガレキだらけだったけど、ほこりとかは一切なかったです。そこをとにかく走って逃げるばっかりで。
奥山:3号の建屋は見ました?
マサ:見てないです。見えたのは、自分たちが乗りつけた車がガレキでグジャグジャになってるのだけは見えたんです。そのときは3号は見なかったです。一目散に前だけ見て、坂を歩きましたね。
奥山:2号と3号のあいだを抜けて。
マサ:そう、免震棟側にずっと、とにかく行くしかない。免震棟に帰るしかないんで。そのときも、ぼくら含めて40人から50人ぐらいの人数いますから、2号と3号のあいだをみんなで走ってるんですけど、あちこちからみんな持ってるアラームが鳴ってて鳴っててすごいです、あっちもこっちも。
久田:ピーピー鳴ってるんですか。
マサ:そうです。その音しか記憶にないですね、音的なものは。あとは自分の呼吸音と。マスクしてるんで。自分の呼吸音とまわりのアラームの音しかない。
久田:他の皆さんのも鳴ってるわけですよね。
マサ:鳴ってたと思う、自分のはわかんないですけど。でも、マスクつけてそんなに走れないんで。30メートルちょっと、ガレキを越えたぐらいのところでみんな、「もう走れねぇ」みたいな感じで。あとは歩きましたけどね。それが14日ですね。俺、半日か1日かちょっとあれがあるんですけど。
奥山:ちょっと話は戻るんですが、2号のケーブルの接続は、ほぼでき上がってたわけですよね。
マサ:それはもう終わってました。終わって帰るときの話なんで。
奥山:実際に電気を通すっていうところまではしてなかった?
マサ:それは2号と3号のあいだに電源車を置いて中に引いてるんで、3号が爆発した時点で全然使えなくなっちゃった。やったことは全部無駄になっちゃった。
奥山:電源車も壊れた?
マサ:そうですね、あとから行って見たときには、電源車から建屋に引き入れたケーブルにガレキが突き刺さってて、とてもじゃないけど使える状況になってなかったです。だからミッション的には何も成果なしです。
奥山:3号機が爆発しなければ、2号機をその電気で救えてたかもしれないですね。
マサ:たぶんできたかもしれないです。
奥山:1号機の爆発で壊れたものを直したっていうことですよね。
マサ:ぼく、5日間で自分が行った現場で、成果はひとつもないんですよ。1回目は途中で帰ってきてるし、2回目は爆発でダメになっちゃうし。なんにもないです。
奥山:2号のディーゼル発電機がダメだったとか、あるいはバッテリーも直流電源もダメだったとか、そういうのは?
マサ:ないですないです、全然わかんないです。ぼくらは実際、なんの目的でこれをやってるのかは、あんまりよくわかってない。この電源を生かす、あれを調べてこいって言われたときに、それは何のため、何を目的としてやってるのかっていうのは説明されてないです。そんな時間もないというか。
奥山;2号のRCIC(原子炉隔離時冷却系)という炉に注水するポンプは、まったく制御のない状態だったんですけど、自然に動いてたらしいんですが、それは14日の爆発の前後ぐらいに止まったようなんですけれども、そのあたりは当時お話は聞いてました?
マサ:わかんないです。ホントにプラントの中の情報っていうのは、ひとつもわかってないんで、ぼくらは。
奥山:2号のタービン建屋の中にいて、爆発音を聞いたけれども、その衝撃、身体への振動があるわけではなかった。
マサ:ないです。ぼくらはもともと震災のような大きな地震があったとしても、どっかの事務所とかにいるよりは、建屋の中にいたほうが
安全だと思ってますんで、もともと。
奥山:そのあと走って逃げて、免震棟に戻られてっていうことになる?
マサ:そうです。14日の午後に戻って、その段階で、それ以上はもう仕事はなかったですね。
個人的には以下の表現、
「自分たちが乗りつけた車がガレキでグジャグジャになってるのだけは見えたんです。そのときは3号は見なかったです。一目散に前だけ見て、坂を歩きましたね」
この言葉にゾッとしたのを覚えています。え? それならもしかしたらまだ車に乗っていたら。瓦礫が皆さんに直撃していたら。そう思わずにはいられませんでした。で、あるなら第一次被害で犠牲者が出ていたのかも知れなかった訳です。さらに別日でこれについて聞いた話は以下のようなものでした。
久田:どの程度の衝撃でした?
マサ:1号機って、モノがちっちゃいし古いんで、ブローアウトも薄いんすよ、すごく。だからあんまり大きいドッシリした音じゃなくて、わりと軽い、パカーンみたいな音でいっちゃうんですけど、3号は違うんで。ホントに爆発です。ドカーンッていう。
久田:1号機はブローアウトだから?
マサ:3号も同じブローアウトなんですけど、でも、つくりがちょっと違うんで。3号のほうが全然重いんですよ。僕らは隣の2号にいて、その大物搬入口の隣がすぐ3号ですから。だから2号から出ていくタイミングがもし間違ってたら、これに当たってたんですけど、たまたま当たらなかったんで。
久田:よくそこで犠牲者出なかったですね。
マサ:出なかったですねぇ。
久田:出てもおかしくはなかった?
マサ:そのときにみんな外に出てた状況だったら、みんなガレキに当たってました。でも、たまたま中にいたので。
久田:それはいま思い返せば、「命拾ったな」みたいな感覚ですか?
マサ:「拾ったな」ですよ、ホントに。あのときはタイミング的には自分の仕事は終わってたんで。車でそこまで来てたんで、戻ろうと思ってたんですよ。でも中でやってる人間がまだ終わってなかったんで、様子見に戻ったんですよ。それで助かったんです。
久田:同僚のかたもみなさん同じような感じだったんでしょうかね、九死に一生じゃないですけど。
マサ:逆に外に出てたほうが線量が高いんで、建屋の中にいたほうが線量が低いんで、待つなら中で待ってたほうがいいんです。だから終わっても中で待ってて。みんなが終わったら出ようねと待ってたんです。それで助かったんです。
久田:ホントにギリギリですよね。
マサ:ギリギリです。
久田:爆発がすごいって聞いたんですよ。飛び散った瓦礫が突き刺さってるし、みたいな。
マサ:だから乗ってきた車は3台全部グチャグチャですね。屋根はつぶれてるし。
久田:当たったらホント死んじゃいますね。
マサ:死にますよ。ドーンといったあとに、外が見えるじゃないですか。そこが一瞬ブワーッとすごいホコリだったんだけど、そのとき風がけっこう吹いてたんで。そのときにうちの会社の人間じゃないんだけど、放射線管理やってる人間もいて、「いま出ちゃダメ」って言われて。で、煙がうわっと風でなくなったときに、「今だったら行けるから」って言われて、それでみんなで一斉に逃げたんです。
「命拾った」。これが本音でしょう。放射線のことばかり注目していますが、実は「飛行機が落ちても壊れない」と作業員に豪語していた福島第一原発の建屋は地震と津波と水素爆発によってボロボロになったしまいました。その中、放射線ではない事故によって人命がさらされていようとした事実は残しておかなければならないでしょう。(インタビュアー@奥山俊宏(朝日新聞編集委員) 文・写真@久田将義)
福島第一原発事故 10年目で出て来た新事実 「フクシマ・フィフティー」のアナザーストーリー 第1回(インタビュアー│奥山俊宏、久田将義) | TABLO
福島第一原発事故 10年目で出て来た新事実 「フクシマ・フィフティー」のアナザーストーリー 第2回(インタビュアー│奥山俊宏、久田将義) | TABLO
福島第一原発事故 10年目で出て来た新事実 「フクシマ・フィフティー」のアナザーストーリー 第3回(インタビュアー│奥山俊宏、久田将義) | TABLO
福島第一原発事故 10年目で出て来た新事実 「フクシマ・フィフティー」のアナザーストーリー 第4回(インタビュアー│奥山俊宏、久田将義) | TABLO
福島第一原発事故 10年目で出て来た新事実 「フクシマ・フィフティー」のアナザーストーリー 第5回(インタビュアー│奥山俊宏、久田将義) | TABLO
福島第一原発事故 10年目で出て来た新事実 「フクシマ・フィフティー」のアナザーストーリー 第6回(インタビュアー│奥山俊宏、久田将義) | TABLO
10年目の福島第一原発事故 「僕らはこの震災前までは安全だと思っていた」(福島第一原発作業員) 最終回(インタビュアー│奥山俊宏、久田将義) | TABLO
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