ネット言論はどうあるべきか 「言論の自由とは何か」を考えてみた 言論の自由の向こう側には暴力が存在する
TABLO / 2021年5月6日 6時0分
写真はイメージです。
突然ですが、皆さんは「自由」という言葉にどいうイメージを抱いているでしょうか。僕も含めて、大体良いイメージを持っているかと思います。自由が良いに決まっています。逆に「不自由」な社会など誰が望むでしょうか、という話です。自由とは行動、判断、言動、表現など人間の行為の全てに保障されています。少なくとも、この日本では。その情況を僕らは謳歌している訳ですが、先人たちが命を犠牲にして得たものという事も忘れてはいけません。ですから、その為にも僕たちは「自由」であるこの社会を守っていく義務があるはずです。
少し話がそれますが義務という言葉は尊いと捉えていて、動物と人間の違いは義務を感じるかそうでないか、と思っています。動物は本能で子育てや狩りをしたりします。義務は本能を抑制する機能です。本能よりも優先させなければならない事がある時、人間は義務感で行動します。すなわち「義務感こそ人間を人間たらしめるものである」。これは記憶が正しければ花村萬月著『笑う山崎』に出てきたフレーズだった気がします。
話を戻すとメディアの末席を汚すものとして、「自由」と言うと僕とっては「言論の自由」(「表現の自由」)をまずは思い浮かべます。拙著『生身の暴力論』(講談社新書)でも書いた事と重なりますが、憲法で保障されているこの「言論の自由」。絶対、守るべき「精神」ですが実は非常に残酷な面を持っている点に留意しなければなりません。
言論の自由とは時として人を傷つけます。軽い例だと書物や映画・ドラマや美術作品に対する批判です。痛烈な批判を放つ論者もいます。書かれた側は傷つくでしょう。とは言え、クリエイターも表現・言論の自由に基づいて作品を世に出しているのですし、その時点で「公共物」として扱われる訳ですから批判の対象になり得るのです。
その批判に対する言い分を言いたい、あるいは書きたい場合。反論権を人は持っている訳です。ですから特にメディアの人間は自社媒体を使って反論に打って出るべきです。しかし、そういった話は最近聞きません。
近年、芸能人の裁判が目立ち、大体、媒体側が敗ける訳ですがそもそも、なぜ芸能人は反論権を行使しないのでしょうか。
紀州のドン・ファン事件で気になる「ウラの司法取引」という捜査手法|李策 | TABLO
これは書く側の問題が大きいと考えています。新聞、テレビは巨大になり過ぎました(最近は売り上げが右肩下がりだとは言え)。こんな事を思い出しました。かつて「個人情報保護法に反対するアピールの会」というフリーライター、版元の編集者らが横断的に作った会がありました。僕も末席を汚していました。かれこれ15年以上前の事です。
そこで、海外の新聞社などを入れた記者会見を神楽坂の日本出版クラブ会館で催しました。記者らから「アピールする会」の面々(僕も隅っこで座っていました。取材される側は初めてでした)に質問があるのですが、未だに印象に残っている質問がありました。確か、フランスの新聞だったと思います。
「日本では反論を掲載しないのはなぜでしょうか」といった主旨でした。
ここは重要なポイントです。本来、言論の自由とは極論を言えば「何を書いても良い」。その代わりに「何を書かれても(反論されても)良い」というのが大原則なはずです。
が、新聞・テレビはおろか大手出版社の媒体は反論文を掲載しなくなりました。たまに「遺憾に思います」といった定型文を電話口で言うか手紙を送るくらいです。僕が実際にそういった態度を取られました。本来は、そこで論争が起こり、議論を戦わせているうちに本来のイシューが読者に形として見えてくるはずなのです。これが「言論の自由」の本質の一部であります。マスコミと化した大手媒体のツケが回ってきたと思います。墓穴を掘ったのかも知れません。
しかし、そういった論争はここしばらく大手媒体では見かけません。中小の出版社では見る事がありますが。つまり新聞やテレビのカウンターメディアとしての雑誌社が巨大になり過ぎ、雑誌社自体も新聞、テレビと同じ巨大メディア(マスコミ)枠に組み込まれてしまいました。言論の自由をアピールするのなら反論権も同時に保障しなければならないはず。
メディア人同士ならば自分の媒体で反論すれば良いでしょう。しかし、芸能事務所は、反論文が掲載されないのであれば、裁判という手段に訴えるほかなくなってしまいます。僕などは芸能人の反論があれば是非、読みたいと思うのですがメンツなのか、大手媒体はよほどの大事でないと反論は前記のフランスの新聞社が指摘した通り掲載しません。これをメディアの問題点の一つとして挙げておきます。
そして「言論の自由とは」と書いた手前、これについて僕の見解を述べておきます。先に書いたように「言論の自由は何も書いても良い。その代わり何を反論されても良い」というものだと思います。が、反論で済めば良いのですが、それ以上の反撃があり得るます。
暴力です。
これは「『噂の真相』襲撃事件」(右翼が編集部を襲撃)や、「深沢七郎著『風流夢譚』事件」(天皇を侮辱したとして右翼が版元社長宅を襲撃)などが思い浮かびます。
ネット言論においては、ツイッターやインスタやYahoo!ニュースにYouTubeのコメント欄で、差別や罵倒、中傷が飛びかっています。が、先の原則論で言えばそれさえも「言論の自由」の範疇に入り得るのです。しかし、その代わりに脅迫や名誉棄損などで逮捕されたり、提訴されたりするというしっぺ返しが待っています。
それどころか、前例のように「言論の自由の向こうには暴力が存在するかも知れない」。そういった覚悟や想像力がない書き込みが目立ちます。
「言論の自由」と「暴力」はコインの表裏と言えるかも知れません。
『映画秘宝』はなぜ失敗したのか 権威化した人々がやるべき事|久田将義 | TABLO
暴力は絶対振るってはいけません。ふるった側も振るわれた側もデメリットしかないのです。ふるった側は逮捕それたり社会的地位が奪われる可能性があり、ふるわれた側はプライドが傷つけられたりトラウマになってしまう事もあるからです。それでも関係ないとばかりに暴力に訴える輩はいるでしょう。それと同時にネット上のヘイトや中傷もなくならないでしょう。ネットで書き放題書いている人は言論の自由の元にそれが出来る訳です。が、言論の自由の向こうにはもしかしたら暴力さえ存在した(これからもし続けるだろう)歴史を学んでおくべきです。(文@久田将義)
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