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なぜメディアスクラムは起きたのか 小山田圭吾さん問題「Quick Japan」を編集者目線で総括してみた

TABLO / 2021年10月13日 6時0分

なぜメディアスクラムは起きたのか 小山田圭吾さん問題「Quick Japan」を編集者目線で総括してみた

写真はイメージです。

もう、旬の話題ではないとは理解しつつも、先日ニコ生「噂のワイドショー」でプロインタビュアー・ライター吉田豪君とのトークがYouTubeにアップされたので、それを受けて一編集者として総括してみたいと思います。https://www.youtube.com/watch?v=dJ10ly5WR7c&t=301s
上記YouTubeの通り、吉田君は当初から小山田圭吾さん問題は「ロッキンオンジャパン」で悪ノリしたものをインタビュイー(この場合は小山田さん)のチェック無しで掲載(厳密に言えば著作権違反だと思いますが)し、それを読んだ当時はライターだった村上清さん(現・太田出版)が小山田さんにインタビューを申し込み、打合せの談話を「Quick Japan」(以下「QJ」)にてインタビューとして掲載。90年代悪趣味ブームと相まって、イジメを助長・面白がる記事として構成した結果、小山田さんが約20年間にわたって攻撃されているという「メディア内での立場」を指摘しています。

その後週刊文春の小山田圭吾さんインタビュー(インタビュアー・中原一歩さん)での回答が掲載され、吉田君の指摘と小山田さん記事を読むと、答え合わせが出来ている、という事で良いかと思います。

大前提として、小山田さんがイジメたり、傍観者だったりした事は事実なので、そこを擁護する気は全くありません。本稿はそれとは別の問題です。

版元の太田出版は、2021年9月16日に【1995年執筆記事「いじめ奇行」に関しまして】というタイトルで村上さんのコメントを掲載しました。

その前に、ですが、記事を執筆・掲載する際は、プロの編集者なら必ず「掲載動機」を頭に入れて記載します。商業誌における記事には公共性・公益性などが付帯します。これがないと、例えば「隣の家の掃除機の音がうるさい」といった個人的な理由での私怨記事も許されてしまう事になります。最近、「どうでも良い」との共通認識が世間に広がっている芸能人の不倫記事は、芸能人は「準公人」あるいは「みなし公人」とされているからです。ですから例え建前であっても商業誌には公共性・公益性、真実性があるものを掲載する訳です。

ではこの記事の掲載動機は何だったのか。

今回の「QJ」記事の掲載動機を村上さんの「コメント」から読み取ると、
・記事の目的はいじめを助長されたりするものではなかった。(文中では「いじめを支持したり、ましてや揶揄する意図は、当初から全くありませんでした」と掲載)
・「いじめはやめよう」と言った言葉をどれだけ重ねても現実のいじめはなくならない
・元々の企画は「いじめ側といじめられた側の対談」だった
・「毒には毒をもって対するしかない、当時は考えた」(文中より)
・「いじめってエンターテイメント!?」という記述は皮肉・反語

あとは炎上のきっかけとなったブログに対する「切り取り」への指摘です。
上記の僕の箇条書きも「切り取り」と言ってしまえば「切り取り」なので原文URL
を貼り付けておきます。https://www.ohtabooks.com/press/2021/09/16200000.html

コメントを読んでまず、思ったのが「週刊文春の記事を受けて反省の文を出す」という事について。その前に出すべきだったのでは、という対応の不味さ。あるいは潔くはない態度に疑問を抱きました。なぜ、ここまで引っ張ってしまったのか。反省文を読むと、なるほどそういう意図だったのか、と納得はしました。が、それを読んで改めて、「QJ」記事を全文読んでみました。
どうした事でしょう。反省文のようにとてもではないですが、これが「いじめをなくそう」とした記事なのか。全くそうは読めませんでした。

食堂で「俺はマスクをしない!」で逮捕の男性 法廷でもマスクを拒否 さらに裁判官に自説をお説教 | TABLO 


村上さんのコメントにある

【「いじめはいけない」「いじめはやめよう」といった、正しいけれど素朴な言葉をどれだけ重ねても現実のいじめはなくならないのでは、という苛立ちが募った末、あえて極端な角度からいじめという重大な問題の本質を伝えることで事態をゆさぶり、何らかの突破口にできないかと思うに至りました。】

が後付けではないかとすら思えてしまいます。

コメントと当時の「QJ」の記事の整合性が取れていないように映った訳です。この記事の主体は村上さんです。村上さん執筆記事であり、この人の主張が全面に出ています。小山田圭吾さんの談話は村上さん執筆記事の中に放り込まれているという構成です(長いけれど)。何度読み返しても「QJ」記事がイジメを無くそうとして掲載された、とは感じられません。その点については【執筆者の未熟の極みと言う他ありません】とコメントの前の方に書かれている通りです。

未熟の部分は【でも『いじめスプラッターには、イージーなヒューマニズムをぶっ飛ばすポジティブさを感じる。小学校ま時にコンパスの尖った方で背中を刺されたのも、今となってはいいエンターテイメントだ。『ディティール賞』って感じだ。どうせいじめはなくならないんだし。】

【記事原文では冒頭から私の露悪的な文章が続きますが、それは本来の対談相手でもない筆者が「いじめはよくない、やめよう」と書いたり態度に示すことは、彼らにとっては一気に、安心できる教科書的記事になってしまい、それでは何も伝わらない、毒には毒をもって対するしかない、と当時考えたためです】(コメントより)

といった記述あたりでしょうか。何度も言いますが「コメント」はなるほどと思います。が、記事原文(4、5回は読みました)を読むと不愉快とおぞましさ、しか残りません。

確かにいじめはなくならないでしょう。僕のいた明大中野中学・高校も小山田さんがいた和光中学・高校と同様の都内の私立一貫校です。形態は似ています。が、これほどのいじめが合ったという話は聞きません。違う点はどちらが優れているとかではなく、恐らく暴走族の同級生や体育会系の学生たちが校内ヒエラルキーのトップにいて、彼らが一般生徒を相手にしなかったという校風もあると推測しています。

いじめはなくならない。けれど、村上さんは記事原文で批判していましたが、それが偽善であろうが何であろうが、正論はずっと、恥ずかしげもなく吐き続けるべきだと思うのです。「いじめはやってはならない」と。さらに加えるなら「差別は許されない」。これは我々の先達が命を賭して得た、貴重な思考です。偽善であろうがなかろうが、関係ありません。

そして、頭の良い人が陥りがちなチートはとことんダメだなと、改めて「QJ」問題を考える上で思いました。2011年東日本大震災でも「チートだけど結果が良ければOK」という考えの元、怪し気なジャーナリストの煽りに乗っかってしまった知識人たちもいました。コロナ禍の現在でもそうです。陰謀論が、なぜかSNSを中心として浮遊しています。東日本大震災時で、僕らは「そういう意見は要らない」と学んだはずではなかったのか。頭の良い人(皮肉です)が言う、一見深味がありそうなひねった意見には黄色信号をつけるべきではないでしょうか。

「論破カッケー」の弊害 論争ではなく「言い負かせただけ」の印象操作 | TABLO 

今も、そして「QJ」記事掲載当時も、必要なのは「真っ当な意見」です。偽善と呼ぶ人がいれば偽善と呼べば良い。必要なのは愚直で真っ当な言葉です。それはいつの時代でも変わらないと思います。90年代悪趣味ブームにおいても、現在でも。(文@久田将義)

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