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引退・吉田拓郎 「野外フェスはこの人が日本で最初だったのでは」後輩ミュージシャンが語る伝説の数々

TABLO / 2022年7月26日 11時0分

引退・吉田拓郎 「野外フェスはこの人が日本で最初だったのでは」後輩ミュージシャンが語る伝説の数々

天才シンガーだった(写真はイメージです)。

 

KinKi Kidsの堂本光一、堂本剛、あいみょん等にも多大な影響を与え、日本の音楽シーンを牽引したシンガーソングライターで音楽プロデューサーの吉田拓郎(76)が7月21日放送の音楽特番『LOVE LOVEあいしてる 最終回・吉田拓郎卒業SP』(フジテレビ系)の出演を最後に引退しました。1970年に「イメージの詩」で歌手デビューして以来、52年間の音楽活動に終止符を打ちました。

番組を始めた頃には、吉田拓郎のことをあまり知らなかったことをKinKi Kidsは、「ミュージックフェア」(フジテレビ)で暴露していました。そんな吉田拓郎をデビュー前から知る後輩アーティストに話をうかがいました。
1974年に吉田拓郎の全国ツアーのバックバンドとして、「愛奴」というバンドで帯同したキーボード、ボーカルの劉哲志(当時は山崎貴生名義)は、こう回想しました。

「ツアーに入る前に、よく新宿の御苑スタジオでリハーサルをしていました。リハーサルが終わると、よく原宿の『ペニーレイン』というお店に連れて行って頂きました。当時、拓郎さんの曲『ペニーレインでバーボンを』がブームになっていましたが、まさに『ペニーレインでバーボンを』を地で行っていました。『かぐや姫』『風』の伊勢正三(正やん)、『ガロ』の大野真澄さん、『猫』の常富喜雄さんや、いろんなミュージシャン達がよく集まっていました」

吉田拓郎の魅力については、こう話します。

「拓郎さんは、とにかくバイタリティあふれていました。拓郎さんがいるとパッと明るく、皆んなを惹きつける魅力的な人でした。会場から会場への移動ばかりのツアー続きで、ほとんどスケジュールはいっぱいなのに、いつ数々の名曲を作っていたのか不思議に思ったことがあります」

天才は時間の使い方が上手いのでしょうか。隙間時間にヒット曲も誕生したようです。

「ツアー中に打ち上げで拓郎さんとスタッフさんとバンドメンバーで飲んでいたら、マネージャーの渋谷さんが、電話に呼び出されました。『襟裳岬』(森進一歌唱、吉田拓郎作曲)がレコード大賞に内定したという朗報が入ったのです」
携帯電話が普及する前は、出先の電話番号を伝えて、呼び出しということもありました。実は、『愛奴』のドラマーは、後にシンガーソングライターとして大ヒットした浜田省吾でした。

「神田共立講堂でのコンサートの時に、本番中に浜田省吾のドラムのシンバルスタンドがガシャーンと大きな音をたてて倒れ落ちました。その後、『オーナイトニッポン』(ニッポン放送)で、拓郎さん自身が話されていましたが。」倒れないように今ではスタッフが支えたりもしていますが、それだけパワフルなドラマーでもいらしたのでしょうか。

今では、各地で開催されている野外フェスのパイオニアも吉田拓郎だそうです。

「おそらく五万人くらいの観客だったと思いますが、今から思えば拓郎さんが日本で初めて野外ステージでの大きなイベントライブをやられたんだと思います。1985年の、『つま恋コンサート』(静岡県掛川市)は、セッティングにあまり時間をかけることができずに、本番演奏を始めなければなりませんでした。モニターのキーボードの音が爆音で他のメンバーの音がほとんど聞こえず、すごく緊張して演奏しました。何より、ステージからの客席の眺めは、地平線の彼方まで、人がいて圧倒されたのを覚えています」

吉田拓郎と劉哲志の出会いは、広島フォーク村でした。

「広島フォーク村の最後のコンサート『帰郷』に自分たちも『グルックス』として出演させて頂きましたが、拓郎さんのアコースティックギター一本のコーナーは、圧巻のステージでした。中山千夏さんの、『あなたの心に』という曲の替え歌も最高にウケてました! なるべくして、ビックになられたと思います!その時のコンサートは客席はもとより、階段にも人が座っていて、広島フォーク村のコンサートの中でも最後を飾る、大盛況のステージでした!1974年に全国ツアーに帯同させて頂きましたが、『愛奴』コーナーとして20分ほど、やらせて頂いたわけですが、その中で歌ってた私の『君がいれば』という曲も、君のいれば♫〜と茶化しておられたのを覚えています」

吉田拓郎の東京デビューへの旅立ちを広島駅で見送った一人が劉哲志です。

「フォーク村の村民の仲間でどこかの教会のようなところで、送別会を開いて、終わった後、広島駅のホームまで皆で見送りに行きました。拓郎さんを胴上げして万歳三唱をして見送りました。寝台特急『あさかぜ』(広島20時発、翌朝8時東京着)。今も鮮やかに覚えています。まさに、あの瞬間がすべての始まりでした。送別会の時に、男同士でジョンとヨーコのように、手を繋いでワルツを踊った事も覚えています」

デビュー後も縁は続きました。

「拓郎さんが、エレックレコードからデビューされた後、凱旋ライブで広島に戻られた時に、『グルックス』で広島の西の山奥にあった少女院で慰問ライブを一緒にやらせて頂きました」

テレビでも共演なさいました。「1974年の「ミュージックフェア」(フジテレビ)で、『シンシア』という曲のバックで『愛奴』とで演奏させて頂いたことがあります。『シンシア』は南沙織さんの事をイメージして作曲されたようです。南沙織さんを囲んで、拓郎さんとかまやつひろしさんが歌うシーン懐かしいです。同年の別の回で『襟裳岬』の演奏を『愛奴』でやらせて頂いたことがあります。確か1番は吉田拓郎さんで、2番から森進一さんが歌われたと思いますが、その時、歌の最後のところで、森進一さんが、インテンポではなく自分のペースで大きくリットされて歌われて、バンドのメンバーは、とても焦ったことをよく覚えています。

それまでは常日頃、吉田拓郎さんのバックで演奏してたので、演奏はインテンポですることに慣れてたので、歌に合わせるべきかとても焦ったわけです。結果的には、演奏はインテンポで演奏するのが正解だったわけですが、ある意味既成概念にとらわれない、森進一さんの独自性というが凄さを感じた場面でした」

吉田拓郎の元で学んだ劉哲志は、桜田淳子、早見優、渋谷哲平、太川陽介、香坂みゆき、竹本孝之等のツアーバンド、楽曲提供を経て、最近では、慶応大学理工学部出身のスウィートボイスシンガー小夜(さよ)をプロデュースし、若手に伝承しています。
吉田拓郎の音楽DNAは様々な形で若手に伝承されていくのです。(文@霜月潤一朗)

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