幻の本になってしまうのか ヘイト本?回収騒動 『中野正彦の昭和九十二年』問題を考える
TABLO / 2022年12月28日 9時20分
「中野正彦の昭和九十二年」(樋口毅宏著)は幻の本となってしまうのか。
最近、「ヘイト」という表現が拡大解釈されている気がします。ヘイトとは文字通り憎悪であり、僕の感覚では在特会(在日特権を許さない市民の会)が出現した時の、差別街宣などを指しています。差別街宣では伝わりにくいので、「ヘイトスピーチ」という表現で浸透していったと捉えています。
在特会が出現して、朝日新聞(2010年5月7日)で取り上げられる少し前でしょうか。僕は「実話ナックルズ」(大洋図書)という雑誌の編集発行人だったのですが、彼らの差別発言満載のYouTubeを見て、憤りのまま公式サイトのブログに批判の文章をアップしていっていました。また右翼の某会長に在特会のYouTubeを見せてインタビューしたものを掲載。ネット右翼(とは当時呼ばれていなかったかも)と右翼とは明確に違う旨を読者に訴えるなどの編集をしていました。
それから約10年あまり。言葉は年月ともに拡大解釈されていくものもありますが、痛烈に批判されたりすると「ヘイトだ」と安易に使ってしまう人がいます。批判とヘイトは違います。ヘイトとは差別を指す用語と明確にここでは定義しておきます。
樋口毅宏著「中野正彦の昭和九十二年」が発売後、回収されました。容易ならざる事態です。SNS上では「炎上商法か」といった声も散見されましたが、とんでもない。回収する上での費用や取次・書店などの信頼など、版元にとっては痛手でしかありません。当然、作者の樋口氏にとっても世の中に出るべき自分の表現物が、瞬間にして回収されてしまったのですから、心情的にも尋常ならざるものがあると思います。
幸いにして僕は献本して頂いていたので読了する事が出来ました(感想はネタバレしないような形で後述します)。一部書店には前述したように「瞬間」的に置かれたようなので、それを購入した人。あるいは現在Amazonでは4000円~5000円あたりの値がついていますが入手した人もいるでしょう。が、いずれにせよ「幻の本」化してしまうのかなと、思ったりします。
版元のイーストプレスは回収の説明を自社サイト「お詫びと訂正」に掲載しています。そこには「ヘイト」という言葉は出ていません。ざっくり言えば「社内プロセスやコンセンサスの問題」という、少し分かりづらい内容になっています。ただネット上では「ヘイト本だから回収」という事でまとまっており、作者の樋口氏もツイッターでそういった反応に対して「自分の過去のツイートなどを見て差別主義者かどうか判断して欲しい」(大意)旨、発言しています。
僕もそう思います。
【少し話がそれます。
表現の自由・言論の自由とは極論を言えば、何を書いても良いのです。しかし、何を反論されても致し方ないのです。そこで言論と言論をぶつけ合わせて、読者がどう思うのかに委ねるのが言論の自由の理想形だと思っています。あるいは反論で済まない場合もあります。提訴され、裁判沙汰になる事もあります。訴訟の自由のもと現在はこちらの方が主流です。「論争」というものが最近見ない原因でもあります。
ただし、言論の自由は何を書いても良いのですが、その向こう側に歴史が示すように暴力が存在するリアルを忘れてはいけません。あってはならない事ですが、それが起きるのが世の中です。】
ネタバレするので詳細は書きませんが、この問題に関しては
1・作者が差別主義者なのか
2・差別主義者である登場人物を作者が描写しているのか
この二点に絞られると思います。
差別主義者が書いた本を回収するのなら、まだ分かりますが「差別主義者の心情を描いた」という事ならそれは表現の自由であり言論の自由です。
実際に答えは「2」です。本書は小説らしい仕掛けが施されており、前半から中半の酷い差別表現は、実は作者の狙いはヘイト言論を批判しているのだ、と読み進めていくうちに気づくはずです。
なので、ノンフィクション畑の僕が言うのもおこがましいですが小説として成立していると考えています。
で、あるならなぜ回収という出版社にとっては一大事にイーストプレスは踏み切ったのでしょう。第一に考えられるのは(というかこれが一番の理由だと思います)登場人物が全員実名であるという点です。安倍晋三元首相を初め、政治家は全員実名。文化人、評論家、ジャーナリストも実名。一部、ネット右翼とされる著名病院長は仮名であること以外、全員実名です。
なので、版元としては名誉棄損などを考慮したのかとまずは、考えます。そう捉えるとイーストプレス社長の「お詫びと訂正」の文も「差別」「ヘイト」「表現」などいった文言が一つも入っていなかった事に善し悪しは別にして理解がいくのです。
差別かどうか。これも確かに問題となるかも知れません。ただ、これは版元が「出す」と決意したのなら「小説として成立している」「表現の自由内である」そして「差別本ではない」という事を仮に抗議が来たら根気よく説得していくのが発行権と編集権を持つ版元の役割だと思うのです。これは前述の通りです。
が、イーストプレ側は「出すと決意」をしていないという旨を公式サイトにアップしました。少し引用してみると
「今回刊行に至るプロセスにおいて社内で確認すべき法的見解の精査や社の最終判断を得ることを行っておりませんでした。」(イーストプレス公式サイト「お詫びと訂正より」)
「法的見解の精査」とはこれが名誉棄損などで提訴された時、法的にどうなるのかを発売する前に弁護士に相談などして、OKが出なかったと本稿では解釈します。その後に続く文章で、
「同時に刊行時においても契約書の締結が終了しておらず、刊行における責任の所在が曖昧だということが発覚しましたので、社内協議の上、回収対応といたしました。」
は、抗議や裁判沙汰になった時、著作者である樋口氏が原告になるのか、編集権と発行権を持つイーストブレスが裁判費用を持つのか等といったことの合意がなされていなかったという風に読み取れます。
ヘイトかそうでないかと言う問題ではない旨を版元では「公式に」発表しているので、これを素直に解釈すればこうなるでしょう。
この本が差別本か否か。これはもう本稿で結論を出している通り「否」です。それを発行するのかは発行権を持つ版元の判断です。また、この本に書かれた文章の所有権は著作者の樋口氏にあります。なので、別の版元から出版も出来る訳ですが、それを待つのは作者にとっても読者(特に樋口ファン)にとっても酷なような気がします。(文@久田将義)
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