山形にある奇跡の秘湯...ゲンセンカン主人のモデルにもなった「念仏温泉」
TABLO / 2013年11月17日 17時0分
「南無阿弥陀仏」の幟が浴槽の周りにたなびく。白装束の浴客たちは祭壇に向かい手を合わせ、一心に念仏を唱えながら、何時間も湯につかっている。
そんな光景を保ち続けていた温泉が、かつて日本にはあった。
山形県最上郡の山奥に存在した、「今神温泉(いまがみおんせん)」である。
温泉はいまや、週末観光レジャーとなった感がある。「秘湯」を掲げる温泉宿だって、車ならアクセスも容易、家族や女性のみでも気楽に行ける場所がほとんどだろう。もちろん、観光としての側面も温泉文化の一翼であるのは間違いない。
だがその分、病気治療を目的とする湯治場、あるいは宗教的な霊地という、かつて温泉において重要だった側面が今では忘れられているのではないか。
そういった意味では、今神温泉こそが日本における究極の秘湯だった、といってよいだろう。
西暦七二四年、二人の狩人が発見したという謂れをもつこの温泉。その入浴法は現代人からみれば異様ともとれる。
湯治客は、ぬるい湯にまず五十時間はつからなければならない。もちろん湯あたりを起こすのだが、それは一般的な"湯あたり"と呼ぶには凄まじすぎる。体中がふやけてただれ、皮がむけた部分から体液が滲みだすのだ。
これは体内の毒素が出ている徴であるらしく、今で言うところのデトックス効果だろうか。その様をここでは「花ざかり」あるいは「花が咲く」という独特の表現をする。「花ざかり」自体を治すのも今神の湯以外では不可能であり、さらに五十時間ほどの入浴を必要とする。症状が緩和した後も、さらに仕上げのために五十時間もお湯につかる。
つまり普通でも百五十時間は浴槽内につからなければならず、それを承諾する湯治客しか受け付けない、ハードコア湯治施設なのだ。泉質を楽しみたいだけの温泉マニアなども絶対お断り。今神温泉の案内にも「日帰り、一・二泊の方はお断りします」とハッキリ明示してあった。いわばサナトリウム施設、さらに言えば修行場として捉えた方がよいだろう。
それだけに、この温泉は科学医療からは難病や不治の病とされた人々が訪れるケースが多かった。古くはハンセン病、80年代以降も白血病や末期ガンの患者などが訪れ、その快癒を祈っていたという。
いま「祈る」と書いたが、今神はまさに「念仏温泉」と称されるほど、宗教的な側面も強かった。一日に四回、熊野三社大権現へと向かい、入湯客すべてが念仏唱和を行うのが決まりとされていたのだ。聖なる湯を汚さないため白装束を身にまとい、「南無阿弥陀仏」「南無帰命頂礼懺悔慙愧 六根清浄今熊三所大権現霊地礼拝」などと唱え続ける。
修験道の聖地である出羽三山近くに位置し、あらゆる人々を救済するための熊野信仰がミックスされた宗教地ならではの温泉といえるだろう。
白い幟がはためく中、念仏を唱える温泉......読者の中には、そのイメージに既視感を覚える人もいるかもしれない。そう、つげ義春が『ゲンセンカン主人』のモデルとしたのが、この今神温泉なのだ。湯宿の女将が「グフッ グフッ」とお祈りをする、あの浴場である(ちなみに同作の町並みは群馬県・湯宿温泉がモデル)。つげがこの地を訪れた様子は、『つげ義春とぼく』(新潮文庫)所収「東北の湯治場にて」に描写されている。
90年代には、つげ義春ブームと秘湯ブームがあいまって、今神温泉が注目された時期もあった。中でも、芸術新潮1993年9月号に掲載された「千年湯を行く 山形・今神温泉」(撮影・野中昭夫)は体験記としての臨場感、豊富なカラー写真など、資料としてもっとも直近の「今神温泉の様子」をよく伝える記事だろう。同記事は若干改変され、『日本の千年湯』(新潮社)にも載っている。
温泉マニアなら一度は訪れたい秘湯として、一部で有名になるも、今神温泉は頑なに長期の湯治客しか受け付けない矜持を貫き通した。山深い土地柄、夏季しか営業できなかったにも関わらず、である。
そして近年に入り、今神温泉は入湯そのものを受け付けなくなった。
長期滞在の湯治客が減ってしまったなど、諸々の事情がそこにはあるだろう。ただ、霊水として名高い温泉水の販売は行っており、現地にて買うか通販することは可能とのこと。いかんせん、ご主人の熱意によって支えられているものなので、来年も営業をしているかは分からないが......。
実は僕も昨年、霊水だけでも入手したいと今神温泉に電話での通販を依頼したことがある。しかし、そこはやはり難病を患っている人向けという特性上、温泉側もおいそれと売る訳にはいかないようだ。
「ご健康な方ですか?」
電話ごしにそう質問されたのだが、僕自身はすこぶる健康のため、その旨を告げると
「ご病気の方のための温泉ですので、販売いたしかねます」
とのことで、断られてしまったのである。
この厳格な姿勢には、さすが今神と感服させられた。レジャー温泉施設も確かに大事だが、ハードコア路線を貫く温泉も必要だろう。もはや絶滅危惧種の文化とすらいえる今神温泉が、長く続くことを祈るばかりである。
Written by 吉田悠軌
Photo by ゲンセンカン主人―つげ義春作品集
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