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ランボルギーニ「ディアブロ」の名前は闘牛ではなかった!! 開発者に聞いた命名理由とは!?

くるまのニュース / 2020年6月28日 19時10分

ランボルギーニ「ディアブロ」の名前は、闘牛からとったというのが定説だが、本当はそれは後付の理由だった。ディアブロの開発者責任者であったマルミローリ氏から、ディアブロという名前が決定した経緯を直接インタビューして分かった、本当の「ディアブロ命名物語」をお届けしよう。

■「ディアブロ」の名付け親は、マルミローリ一家だった

 1990年1月21日、モンテカルロで華々しくデビューしたランボルギーニ「ディアブロ」。その日を境に1974年から続いて来た「クンタッチ」の時代が終わり、ディアブロの物語が始まった。

「ディアブロ」、耳に聞こえて来る音は覚えやすく、記憶に残る。しかし、その意味となると「悪魔」。欧米人にとってはかなり思いきった名前に聞こえただろう。

 ランボルギーニは「ミウラ」以降、クンタッチ以外は闘牛関連の名前が並んでいる。「ディアブロも闘牛の名前から命名」と語られているが、実はそうではない。ディアブロに行き着くまでには紆余曲折があった。

1990年、モンテカルロの発表会にて、生産者第1号のディアブロの後ろに立つルイジ・マルミローリ氏1990年、モンテカルロの発表会にて、生産者第1号のディアブロの後ろに立つルイジ・マルミローリ氏

 命名においてのキーパーソンは、ディアブロの父といわれているルイジ・マルミローリ氏だ。

 彼はフェラーリのサーキットがあるフィオラノで生まれ、小さい頃から〈フェラーリサウンド〉を聞いて育ったクルマ大好き少年だった。

 そんなマルミローリ氏は大学では機械工学を学び、クルマの世界で働きたいと夢を抱いていた。

 大学卒業後、一旦は部品メーカーに勤めたが、憧れのフェラーリからお呼びがかかり、フェラーリのレース部門へ移った。彼が関わったエンジンは、「312P」、「312B」、「312B2」、「312B3」、「312T」、「312T2」である。

 その後はエンジニアリングの会社を立ち上げ、レース界を支えるべく各社に関わった。レース関連最後の仕事はアルファロメオのF1だ。

 そしてアルファロメオのF1撤退とともに彼はレースの世界から、スーパーカーメーカー、ランボルギーニへと移っていった。それは1985年1月のことだった。

 当時のランボルギーニは完全に守りの態勢に入っていて、クンタッチ以降のモデルがなかなか誕生していなかった。常に最先端の技術を追い続けていたレースエンジニアのマルミローリ氏が、そうしたランボルギーニの状況を打ち破るべく、ランボルギーニに新風を吹き込んでいった。

 ここからディアブロ誕生へと繋がっていく。

 1985年12月、待望の新プロジェクト「開発番号P132」がスタートした。

 1986年6月、プロトタイプ1号車の製作開始。1987年4月にはプロトタイプ第1号をランボルギーニ本社の中庭で発表するにいたる。

 さて、ここからネーミング物語が始まる。ランボルギーニ社の誕生時は「350GT」、「400GT」と数字が車名となった。その後、ミウラをはじめとして闘牛の世界に関する名前が採用されるようになった。ミウラ(闘牛)、「イスレロ」(闘牛)、「エスパーダ」(闘牛に使う剣)、「ハラマ」(闘牛場)、「ウラッコ」(小さな牝牛)と、闘牛に関係する名前ばかりだ。

 ちなみにクンタッチは、ピエモンテ州の農家の人が、いままで見たこともない斬新なスタイルのスーパーカーを見て、思わず発した感嘆の言葉「クンタッチ」がそのまま車名となった。クンタッチとは、ピエモンテ州の方言である。

 クンタッチの次世代になるフラッグシップの開発責任者であるマルミローリ氏は、車名も決めなくてはならなかった。

 車名によって世間の関心度も変わる。このまま闘牛を続けるか、または新しい方向に向かっていくか、「どうしたものだろうか」と考えた。

 ランボルギーニの上層部と話し合いの結果、投票で決めることになった。マルミローリ氏があげた車名リストのなかから、ランボルギーニの当時の幹部役20名に投票してもらう。車名はひとり3つまで選ぶことができ、希望があれば自分でつけた名前を書き込んでもよい、ということになった。

■闘牛の名前ではない「ディアブロ」が車名に選ばれた本当の経緯とは?

 投票の前に、マルミローリ氏が車名の候補リストをまとめなければならない。リスト作りこそ、車名選びには重要な過程だ。

 そこで、彼の妻や子供たちを巻き込んで、マルミローリ家総動員での車名探しが始まった。それまでマルミローリ氏は、レースのために世界中を回っていたので、常に家に居ない人だった。

 そんな父親と一緒にクルマの名前を考えることになるとは! マルミローリ家は一丸となって車名探しをスタートした。

 先ずは闘牛の世界から探してみようということになった。闘牛といえばスペイン、ということでスペイン語の辞書を用意。それからは家族中で毎日スペイン語の辞書とにらめっこの日々が続いた。

「名前は音が重要。単語を前後に分けて軽快なリズムに聞こえる言葉、例えば、ウラッコは『ウラ+ッコ』、クンタッチは『クン+タッチ』というように、そのリズム感が記憶に残るんだ」とマルミローリ氏は語る。

 リストのなかには、地方の方言のクンタッチのように彼の故郷であるモデナの方言も入れた。こうしてマルミローリ家で考えたリストには約30の名前が並べられた。

クンタッチの後継モデルとして華々しくデビューを飾ったディアブロクンタッチの後継モデルとして華々しくデビューを飾ったディアブロ

 リストに並んだ車名候補は次のとおりだ。

 CHATO、DUENDE、BOLERO、FULGOR、CORREAL、MACHO、VENDAVAL、PLAZA、HONDO、TRADO、PICADOR、ESTRIBO、ROCIO、CANTO、MIRO、DIABLO、VENTAS、TAURUS、RAZA、RABO、RUEDO、FULMEN、LAMBO、MUCHO、RADA、TODO、STAR、ELREY

 マルミローリ氏は、用意したこのリストを当時のランボルギーニの幹部約20名に配った。

 1987年、夏休みに入る前の6月、密かに投票がおこなわれ、結果ダントツの票数で「DIABLO」がトップとなった。

 マルミローリ氏はその結果を当時の最高責任者のノバーロ氏に報告し、彼から承諾を受け晴れて正式な名前となった。

 ディアブロという単語も「ディア+ブロ」と、軽快なリズム感がある。世の中では、ディアブロという車名は、闘牛の名前から取ったといわれているが、実はそこにはちょっとした物語があった。

 ディアブロはスペイン語で悪魔という意味だ。これはマルミローリ一家が辞書を見ながら音感に惚れて選んだだけだった。辞書から選んだときには、まさか闘牛の名前だとは思ってもいなかった。

 後に、ディアブロという単語について詳しく調べたてみたところ、「悪魔」という意味のほかに、なんとディアブロという名前の闘牛がいたことが判明した。しかも果てしなくアグレッシブな闘牛だった。

 1869年、マドリッドの闘牛場で当時一番人気があった闘牛士、Jose De Laraと戦った記録が残されていた。この偶然は、幸運というか必然というか、奇跡としかいいようがなかった。

 1987年6月、その頃は未だクライスラーの直接介入はなかったため、名前に関してはクライスラーは一切関わらなかった。

 ところがロゴの段階になると、ランボルギーニはクライスラー傘下になっていたので、会議には必ずクライスラー側のデザイナーが出席するようになっていた。

 ロゴデザインにはクライスラー側のデザイナー、主にクルマの内装の担当だったビル・デイトン氏と、ランボルギーニ社と外部契約をしていたパガーニ氏が参加。

 1988年7月、選ばれたロゴはクライスラー側のデザインだった。

 残念ながらパガーニ氏が提案したロゴは、材質が鏡である上に工程が難しく、壊れやすいということで却下になったらしい。

 プロジェクト始まって約4年が過ぎた1990年1月21日、ディアブロはモンテカルロで華々しいテ゛デビューを飾った。

 発表後、アメリカではディアブロという名前に対し、ある宗教団体からかなりの抗議があったらしいが、当時の社長のアイアコッカ氏はそれに屈せず、ディアブロの名前を推し通したそうだ。

 クンタッチの陰に隠れてしまっていたディアブロ。1980年代、停滞していたランボルギーニに新風を吹き込み、クライスラーの傘下に入りつつも、ランボルギーニ魂をしっかり受け継いだディアブロ。

 クンタッチの後継モデルは、候補リストにディアブロと名前が載ったときから、〈アグレッシブな闘牛〉となるべく運命づけられていたのかもしれない。

 ディアブロは誕生30年を迎えた2020年、再び「闘牛ディアブロ」に注目が集まっている。

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