1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. ライフ

なぜフェラーリに「アメリカ」の車名がつく? 2億6700万円のリーズナブルなクラシック跳ね馬とは

くるまのニュース / 2021年2月1日 11時50分

フェラーリには、車名に「アメリカ」とつく車種が以前から存在していた。どうしてイタリアンブランドであるフェラーリに、アメリカの名前がつくのだろうか。

■どうしてフェラーリに「アメリカ」の名がつくのか?

 フェラーリでは、近・現代においてもしばしば「アメリカ」を名乗るモデルが誕生する。生粋のイタリア製スーパーカーブランドであるフェラーリに、なぜ「アメリカ」と名づけられるかについて、疑問を抱いている読者諸兄もいらっしゃることだろう。

 しかしフェラーリにおける「アメリカ」には、創業間もない時期から継承された伝統があるのだ。

 今回は2021年1月22日、クラシックカー/コレクターズカーのオークションハウス最大手のRMサザビーズ北米本社が、アメリカでは冬の避寒リゾート地として知られているアリゾナ州スコッチデールにて開催した大規模オークション「ARIZONA」に出品された、1954年型フェラーリ「375アメリカ」のゴージャス極まるヴィニャーレ製クーペを俎上に載せ、フェラーリとアメリカ、そして「カロッツェリア・ヴィニャーレ」について、解説しよう

●1954 フェラーリ「375アメリカ クーペ by ヴィニャーレ

 フェラーリは1947年、ジョアッキーノ・コロンボ技師の設計したV型12気筒1500ccの「125S」からスタートし、レースにおける戦闘力アップを図るべく、比較的早い時期から排気量の拡大を図っていた。

 また、現在に至るまでフェラーリのレゾン・デートルであるグランプリレースに参加するため、当初は社主エンツォとコロンボ技師の古巣であるアルファ ロメオと同じく、スーパーチャージャーによる過給システムと組み合わせる方策も採っていた。

 ところが、4500cc以下の自然吸気/1500cc以下の過給機つきと規定されていた当時のレギュレーションでは、王者「アルフェッタ158/159」に歯が立たなかった。そこで、コロンボ技師からフェラーリ技術陣を引き継いだアウレリオ・ランプレーディ技師は、コロンボ系ユニットとはまったく関連のない、より大排気量のV12エンジンを開発。1951年シーズンには、4.5リッターの「375F1」で一定の成果を得ることに成功する。

 このランプレーディV12は、「250(のちのコロンボ系250GTとは別)」からスタートし、「340」や「342」などのレーシングスポーツや、ごく少数生産の超高級ロードカーにも採用され、新たなマーケットとしてもっとも有望視されていた国の名から、それぞれ「340アメリカ」、「342アメリカ」と名づけられた。

●レーシングエンジンを搭載したスペチアーレ

 そして1953年には「375アメリカ」が、全フェラーリ製ロードカーの最高峰として誕生する。そのシャシとサスペンションは、ヨーロッパ市場向けモデルとして対極をなす「250 GTエウローパ(Europa)」と多くを共用していたが、エンジンフードの下にはレースカー由来の4.5リッターV12が潜んでいた。

 約300psを発生したこのユニットは4速ギアボックスを介して、フェラーリ375アメリカを当時の世界最速車の1台、そしてもっともエクスクルーシヴな市販車とした。

 375アメリカは11台が製作されたといわれ、そのうちの8台はピニンファリーナが架装。残りの3台はカロッツェリア・ヴィニャーレに託された。

 ヴィニャーレは、ピニンファリーナの母体である「スタビリメンティ・ファリーナ」で修行したアルフレード・ヴィニャーレが、1948年に興したボディ工房である。ヴィニャーレは、非常に優れた能力を持つボディ製作職人であり、同じくスタビリメンティ・ファリーナ出身のジョヴァンニ・ミケロッティとの名コラボで数多くの名作を上梓した。

 ヴィニャーレは、まるで一心同体のような存在であったミケロッティの描いた、下描き程度のデザインスケッチを正確な設計図へと変身させた上で、アルミ板から見事なボディラインをたたき出したという。

 この時期、ヴィニャーレ−ミケロッティのコンビは、実に140台ものフェラーリ・ボディを架装したとされる。そのなかの数台は、とくに3回にも及ぶ「ミッレ・ミリア」優勝を筆頭に、1950年代の重要なレースで栄冠に輝いた。

 またこのコンビは、ピニンファリーナが一括してフェラーリのボディワークを担うようになる1950年代半ばまでに、アート作品のごときフェラーリ・ストラダーレも数多く制作。そのなかでも今回の375アメリカは、格別のワンオフ車両だったのだ。

■超一流コンクール・デレガンス招待資格車としてはリーズナブル!?

 このほど「ARIZONA」オークションに出品された個体は、フェラーリ375アメリカにヴィニャーレが架装した2台のうちのひとつで、シャシNoは「0327 AL」。もう一台の「0337 AL」とは、ファストバックのプロポーションこそ共通するが、ノーズとヘッドライトの処理などのディテールが大きく異なる。

●1954 フェラーリ「375アメリカ クーペ by ヴィニャーレ

ヴィニャーレが架装したフェラーリ「375アメリカ」は、ピニンファリーナとはまた違った威風堂堂たる迫力がある(C)2020 Courtesy of RM Sotheby'sヴィニャーレが架装したフェラーリ「375アメリカ」は、ピニンファリーナとはまた違った威風堂堂たる迫力がある(C)2020 Courtesy of RM Sotheby's

 1953年にトリノのヴィニャーレ工房で完成したのち、翌1954年1月には当時のフェラーリ北米代理店──1948年にフェラーリ「166」でル・マン優勝を果たしたルイジ・キネッティ率いる「キネッティ・モーターズ」によって、マディソン・スクエアガーデンで開催された「ニューヨーク・ワールドモータースポーツ・ショー」にてデビュー。その後3月には大西洋を渡り、ジュネーヴ・ショーでも展示された。

 そして同じ年の後半、ウィスコンシン州ミルウォーキーの「リーダーカード・レーサーズ(Reader Card Racers)」社の創業者、ロバート・C.ウィルクがモデナのエンツォ・フェラーリを訪ね、この375アメリカを手に入れたという。

 レースカーやドライバーの写真を使用したコレクションカードとステッカーの製作・販売で財を成したウィルクは、この時代のアメリカのレース界における重要人物のひとりである。また、最終的には7台の跳ね馬を入手するほどのフェラーリ愛好家で、エンツォとも親交が深かったといわれている。

 375アメリカは彼の要望で赤/ブラックルーフで再塗装され、のちにメタリックブルーに塗り替えられた。そののち彼は1970年に逝去する直前まで、ほぼ毎日のように高速ドライブを楽しんだとのことである。

 ウィルクがこの世を去ったあと、20世紀末までアメリカの名だたるコレクターたちがそれぞれ長期間所蔵した後、いったんベルギーとオランダを渡り歩くが、20年ほど前にアメリカに戻り、こちらも有名なフェラーリ・コレクターが2009年まで所有していた。

 これらのヒストリーについては、フェラーリ研究の大家として有名なマルセル・マッシーニによって書かれた、ウィルクと彼のフェラーリに関する記事の一部として、北米のフェラーリ専門誌「Cavallino(カヴァリーノ)」78号にも詳しく記載されている。

●文字どおりアメリカで歴史を刻んだ一台

 その後もこの375アメリカはアメリカ国内に留まり、2011年1月にフロリダ州パームビーチで開催された「カヴァッリーノ・クラシック」に出展されたのち、かつてニューヨーク・ショーとジュネーヴ・ショーで初公開された際のオリジナル、アマラント/メタリックグレーの2トーンボディにベージュ革のインテリアの組み合わせに戻された。

 現状でのコンディションは、ノーズに若干のへこみやペイントの擦り傷が認められるものの、全体像は充分に魅力を保っている。一方インテリアは、レザーシートのひび割れやカーペットの摩耗などの使用感が外観以上に見受けられるが、リペアは比較的容易ではないかと思われる。

 そして重要なことは、2018年7月に認定申請を受けた「フェラーリ・クラシケ」によって、製作時のオリジナルエンジンの搭載が確認されたことである。すべてがマッチングナンバーであることは、この種のクルマにとってきわめて大切な出生証明となるのだ。

 今回の「ARIZONA」オークション出品に際して、RMサザビーズ北米本社が設定したエスティメートは(推定落札価格)は240万ドル−340万ドル(邦貨換算約2億5000万−3億5500万円)であった。

 2021年1月22日におこなわれた対面型/オンライン併催の競売では、エスティメートをクリアする255万7000ドル、日本円に換算すれば約2億6700万円で落札されるに至った。

 内外装のちょっとした手直しを施すことで、おそらくは「ヴィラ・デステ」や「ペブルビーチ」などの超一流コンクール・デレガンス招待資格も狙えるであろう「一品モノのフェラーリ」としては、なかなかリーズナブルではないだろうか。

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください