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業界騒然!! クーペより安価なチシタリアのカブリオの数奇な運命とは

くるまのニュース / 2021年4月4日 19時10分

ピニンファリーナが架装したチシタリアは、MoMAにも永久保存されるほど有名な歴史的名車だが、スタビリメンティ・ファリーナが架装したとされる希少なカブリオレには、オークション・マーケットはどのようなジャッジを下すのだろうか。

■イタリアの小さな宝石、「チシタリア」とはどんなメーカー?

 COVID-19の影響によりオンライン限定とされた「OPEN ROAD FEBRUALY」オークションは、同社の北米本社および欧州本社の双方から出品がおこなわれ、そのアイテム数は自動車だけでも108台に及んだ。

 今回VAGUEが注目したのは、イタリア発祥の伝説的ブランド「チシタリア」が初めて少量製作・販売したロードユーズ用スポーツカー、「202SC」のなかでも希少なカブリオレである。

 ディーラー販売/オークションを問わず、「For Sale」を明示して国際マーケットに出てくる事例の極めて少ないチシタリアには、2021年現在でいかなる評価が下されるのだろうか?

●1950 チシタリア「202 SC カブリオレ」

 イタリア・トリノでチシタリア社を創立したピエロ・ドゥシオは、第二次世界大戦前のイタリアにて繊維産業で財を成した実業家。

 その一方でサッカーをこよなく愛し、ビジネスに精を出す傍らでプロの「ジョカトーレ(サッカー選手)」としても活躍。地元トリノの名門クラブチーム「ユヴェントス」ではセンターハーフを担当していたという。さらに後には、自らチームオーナーとしてユヴェントスの運営に関与するほど力を注いでいた。

 そのドゥジオが、サッカーにも劣らぬ情熱を懸けていたのがモータースポーツである。アマチュアながらミッレ・ミリアなどの大レースに参戦し、1934年にはイタリア国内選手権チャンピオンにまで上り詰めた彼は、次なる目標として、自らのレーシングマシーンを創ることを考え始めた。

 そして、その夢の実現のために製作されたのが、今や伝説ともなっているチシタリアなのである。

 第二次大戦終結の直後、1945年にチシタリアが最初に手掛けたモデルは、フィアットからレンタル契約で一時的に参画したダンテ・ジアコーザ博士の設計による、1.1リッターの小排気量フォーミュラマシン「D46」だった。

 そしてD46用を拡大した鋼管スペースフレームに同様のサスペンション、あるいはエンジンなどのメカニカルコンポーネンツを共用する「202SMM」などの2座席レーシングスポーツを開発。戦後初めて開催された1947年の「ミッレ・ミリア」で大いに注目を集めることになる。

 北イタリアの公道1600kmを一気に走破する壮大なレースにて、チシタリア202SMMは、タツィオ・ヌヴォラーリによるパフォーマンスとともに一気に名を挙げた。

 大戦前に世界を制覇した往年の名手ヌヴォラーリは、1100ccの小さな202SMMスパイダーで、エミリオ・ロマーノ/クレメンテ・ビオンデッティ組のアルファ ロメオ「8C 2900Bベルリネッタ」と壮絶なバトルを展開。惜しくも敗れたものの、僚友たちのチシタリア202とともに2−3−4位を占め、新しいブランドの名を全欧に轟かせた。

 そして、レース以外のロードユースも見越した初の市販モデルとして開発されたのが「202SC」あるいは「202GT」と呼ばれる、快適さも追求した小さなグラントゥリズモだった。

 202SCのシャシは、202SMMとほぼ共通のものとされた一方、心臓部は同時代のフィアット「1100(508C系)」用の1089cc直列4気筒プッシュロッド(OHV)エンジンをベースとし、主にヘッドを中心に大規模なチューンナップを施したもの。60bhp/5500rpmという、当時の小型スポーツカーとしては充分に満足すべき数値をマークした。

 ところが、202SCの販売価格は同時代のキャデラックにも匹敵する高価なものとなったことから、生産はごく少数に終わる。さらに、ポルシェにマシン開発を依頼して進めたF1計画の失敗でチシタリア社は経営破綻。ドゥジオはアルゼンチンへ失意の移住を図り、トリノに残されたスタッフたちが「アバルト&C.」社を興すことになる。

 しかし、そんなはかなさが現在においては伝説性と希少性、ひいてはクラシックカーマーケットにおける高評価に繋がっているのも事実なのだ。

■わずか60台しか生産されなかったチシタリアのカブリオレとは

 RMサザビーズ「OPEN ROAD FEBRUALY」オークションにオーストリアから出品されたチシタリア202SCは、わずか60台が製作されたといわれるカブリオレの1台である

●1950 チシタリア「202 SC カブリオレ」

4気筒ながら、現在のクルマのデザイン源流でもあるチシタリアは、オークション・マーケットでは高額で取引されている(C)2021 Courtesy of RM Sotheby's4気筒ながら、現在のクルマのデザイン源流でもあるチシタリアは、オークション・マーケットでは高額で取引されている(C)2021 Courtesy of RM Sotheby's

 当時のイタリア製高級車の例にもれず、202SCには複数のカロッツェリアによってボディが競作された。そのなかでももっとも有名かつ歴史的な評価も高いのは「自動車デザイン史の記念碑的な1台」と称され、のちに「MoMA(ニューヨーク近代美術館)」にも永久展示されることになったピニンファリーナ製のクーペであろう。

 一方カブリオレ版は、ピニンファリーナ創始者であるバッティスタ・ファリーナ(のちのバッティスタ・ピニンファリーナ)の兄、ジョヴァンニ・ファリーナが率いる「スタビリメンティ・ファリーナ」と、同社出身の名職人アルフレッド・ヴィニャーレの2社が大部分を担当。2社とも同一に見えるボディを架装していた。

 今回の出品車、シャシNo.「#118 SC」にはスタビリメンティ・ファリーナのエンブレムがつくとともに、1976年に「チシタリア国際クラブ」がまとめたレジストリーでも同様の記述がされているものの、興味深いことに最近の研究ではコーチワークが「カロッツェリア・ヴィニャーレ」によっておこなわれた可能性があると指摘されているという。

 ヴィニャーレは1948年にスタビリメンティ・ファリーナから独立し、自らのカロッツェリアを興したばかりの時期で、当時は古巣からの下請け仕事も請け負っていたと推測されている。それゆえ、このような混同は充分に起こり得ることなのだ。

 チシタリア202SC「#118 SC」は、南米ウルグアイにチシタリアを輸出していたことで知られるイタリア人ディーラー、アダルベルト・フォンタナを介して、ウルグアイ在住の初代オーナーに納車。その後は半世紀以上にわたってウルグアイ国内に生息し、いずれかの時期にいったんボディをレッドに塗り替えられたという。

 2000年代初頭にイタリアへと帰還したのちは、ウルグアイ時代に欠品となっていたナルディ社製インテークマニホールドが装着され、ツインキャブレターが復活。その後はドイツやオーストリアの歴代オーナーのもとを渡り歩き、一時期はホワイトに塗装されていた。

 そして2011年に、やはりオーストリア在住の現オーナーが入手。その買収後、「#118 SC」はドイツの工房に持ち込まれ、ダークブルーのボディにベージュのインテリアという、現在のカラースキームでレストア。ボラーニ社製のワイヤーホイールも取り付けられた。

 チシタリア202SCは、復刻版「ミッレ・ミリア」を含む多くのクラシックカーラリーやコンクール・デレガンスで「Eligible(対象)」、つまり参加可能とされる一方、購入の機会は非常に限られたものとなる。

 そこでRMサザビーズ欧州本社は40万−45万ユーロ(邦貨換算約5200万−5850万円)という、かなり強気のエスティメートを設定していた。ところが、2月末におこなわれたオンライン競売では入札が進まず、落札価格はエスティメート下限に満たない37万5000ユーロ、日本円に換算すれば約4880万円に終わったのだ。

 わずか1100ccのスポーツカーとしては驚くほど高価に映るこの価格だが、実はもしも同じ条件で202SCピニンファリーナ製クーペが出品されていたら、おそらくはもっと高価な価格が付けられたと推測される。

 クラシックカーの世界では、クローズドよりもオープンボディが絶対有利。しかも202SCカブリオレはクーペ以上に希少なのだが、それでもクーペの方が高く評価される理由は、ひとえにピニンファリーナ製ボディの圧倒的な美しさにある。

 ルーフの有無を除いても、ややポッテリした感のあるスタビリメンティ・ファリーナ/ヴィニャーレ製よりも、スタイリッシュな緊張感のあるピニンファリーナ製こそがチシタリア202SC、という評価はそうそう崩せるものではないようだ。

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