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食パンみたいな形をしたブサイクなフェラーリがあった! 美しくないフェラーリ3選

くるまのニュース / 2021年10月4日 19時10分

美しいクルマの代名詞でもあり、F1をはじめとするレースシーンでも活躍している「フェラーリ」。しかし、跳ね馬のエンブレムをつけたレーシングカーのなかには、機能や理論を優先するあまり、カッコいいとはいい難いフェラーリになってしまったものもあります。そんな醜いフェラーリのレーシングカーを3台紹介します。

■「F430」に受け継がれた「シャークノーズ」

 自動車の世界における「美」の象徴であるフェラーリは、コンペティツィオーネ(レーシングカー)の世界でも数多くの美しき傑作を生みだしてきている。

 しかしその一方で、機能や空力特性の面でそれぞれの時代における最高のものを追求しようとするあまり、異様ともいえるルックスとなってしまったマシンたちも存在する。

 今回は、筆者の独断と偏見による「賛否両論を巻き起こしそうなフェラーリ」第2弾として、コンペティツィオーネ3台をピックアップ。「醜い」ととられながらも独特の魅力を湛える、3台の跳ね馬を紹介しよう。

「シャークノーズ」のフェラーリ「156F1」「シャークノーズ」のフェラーリ「156F1」

●1961 フェラーリ「156F1」

 まず紹介するのは、F1GPが排気量1500cc以下となった最初のシーズンである1961年に投入された、フェラーリ初のミドシップGPマシン「156F1」である。

 現在ではMINIのグレード名として名を残す英国のコンストラクター「クーパー」が、1950年代末のF1GPにて巻き起こしたミッドシップ革命に対応して、この時期フェラーリのレーシング部門技術陣を率いていたカルロ・キティ博士が開発した、保守派フェラーリとしては画期的なF1カーだった。

 クーパーやロータスなど、いち早くミッドシップ化を果たした先達たちは、FR時代に萌芽を見せていた葉巻型スタイルのラジエーターグリルを持っていたが、156F1のラジエーターに続くエアインテークは、まるでサメの鼻孔のように左右分割されていることから「シャークノーズ」というニックネームが奉られることになる。

 これが1960年代初頭には「TR61」や「ディーノ268SP」などのレーシングスポーツにも採用され、2007年デビューの「F430」にも引用されることになったシャークノーズのはじまりとされる。

 1961年シーズンは、アメリカ人ドライバーのフィル・ヒルと、ドイツ人ドライバーのウォルフガング・フォン・トリップス伯爵。156F1に乗るWエースがシーズン後半までタイトル争いを展開するが、終盤戦のイタリアGPでフォン・トリップスが事故死してしまった結果、フィル・ヒルが号泣しながら世界チャンピオンとなった。

 また、コンストラクター(製造者)部門でもチャンピオンを獲得し、1961年シーズンは悲しい事故に見舞われつつも完勝を達成したのだが、このシーズン終了後のマラネッロに起こった大量解雇劇に巻き込まれて、キティ博士は失脚。

 代わって開発責任者となったマウロ・フォルギエーリ技師は、翌1962年シーズン以降に巻き返しを図った英国勢の優れたデザインを取り入れた結果、このシーズン後半以降の156F1はオリジナルの面影を残さないほどの改修を施され、ノーズもコンベンショナルな葉巻型となってしまう。

 蛇足ながらこのシャークノーズは、開発者のカルロ・キティ博士にちなんで「キティノーズ」とも呼ばれ、その名のとおりキティ博士の大きな鼻をモチーフとしたという珍説もあるのだが、さすがにそれはスルーとしておきたい。

■「パン屋のバン」と名付けられたフェラーリとは

 賛否両論のレーシング・フェラーリ3選、2台目はフェラーリ公式のモデルではないが、その異様なスタイリングで知られる「250GT」、通称「ブレッドバン」を紹介しよう。

2012年当時、マラネッロのムゼオフェラーリに飾られていた「ブレッドバン」こと「250GT-SWB」スペシャルマシン(C)西山嘉彦2012年当時、マラネッロのムゼオフェラーリに飾られていた「ブレッドバン」こと「250GT-SWB」スペシャルマシン(C)西山嘉彦

●1962 フェラーリ「250GT “ブレッドバン”」

 1962年春、ル・マン恒例の「テスト・デイ」で初めてこのクルマを目の当たりにしたフランスのスポーツジャーナリストたちは、その異様なスタイリングから「カミオネット(Camionette:小型トラック)」と名づけた。

 しかし、このクルマにつけられたニックネームとしては「ブレッドバン」、すなわち「パン屋のバン」という、英語の呼び名の方が圧倒的に有名だろう。

 この異様なアピアランスと、1962年のル・マン24時間レースに出場。フェラーリ・ワークスの新兵器「250GTO」に勝るとも劣らぬスピードを見せたことで「生ける伝説」となったフェラーリ250GTブレッドバンは、もともとスカリエッティ製のライトウェイト・ボディが架装された「250GT-SWB」(シャシNo.#2819)として、1961年9月にデリバリーされたもの。最初のオーナーは1958年および1960年から1962年のル・マンをフェラーリで制したベルギー人レーサー、オリヴィエ・ジャンドビアンであった。

 ジャンドビアンは、この250GT-SWBを駆って同年の「トゥール・ド・フランス」に出場。みごと2位入賞を果たしている。そののち彼は、有名な「ヴェネツィア映画祭」の創始メンバーのひとり、そしてイタリア有数のプライベートチーム「スクーデリア・セレニッシマ(略称SSS)」を主宰するヴェネツィアの貴族、ジョヴァンニ・ヴォルピ伯爵にこの250GT-SWBを譲渡した。

 一方、当時ヴォルピ伯爵は「ATS」というコンストラクターを新たに設立。その直前、1961年末にフェラーリと喧嘩別れしたカルロ・キティ博士とジョット・ビッザリーニ技師を雇い入れ、F1とロードカーの双方でフェラーリの牙城に挑もうとしていた。

 しかし、この一連の行為がエンツォ翁の逆鱗に触れたのは明らかだった。ヴォルピ伯爵はSSSによる1962年ル・マン参戦を目論んで、フェラーリ最新のレーシングGT「250GTO」を注文したのだが、フェラーリ側にあっさり拒否されてしまう。

 そこで、ヴォルピ伯爵は一計を案じる。フェラーリ時代に250GTO試作車「ラ・パペーラ(La Papera)」の開発を手がけた張本人たるビッザリーニ技師に命じて、すでに旧式となりつつあったSWB#2819をベースに、新しい空力ボディを架装することにしたのだ。

 そして、開発を一手に任されたビッザリーニも、保守的なフェラーリでは許されなかった大胆な空力的アプローチに挑戦。前期型GTOのファストバックではなくテールまで一直線に伸びたルーフラインを持つ、純粋な「カム・テール」を実現してみせた。つまりブレッドバンは、ある意味250GTOの完成形ともいえるモデルだった。

 完成した250GT-SWB「ブレッドバン」は、「SSSレプッブリカ・ディ・ヴェネツィア」チームからアバーテ/デーヴィス組のドライブで、予定どおり1962年のル・マン24時間レースにエントリー。ストレートではワークスGTOを明らかに上回る素晴らしい速さを見せ、4時間目には総合7位まで進出した。

ところが、レース中盤でドライブシャフトのトラブルが発生。残念ながらリタイアという結果に終わってしまった。

「スパッツァネーヴェ」スタイルの「312B3」(C)武田公実「スパッツァネーヴェ」スタイルの「312B3」(C)武田公実

●1972 フェラーリ「312B3」

 1972年8月、炎天下のマラネッロに報道陣を集めて発表された「312B3」は、1960年代初頭から1980年代までフェラーリ技術陣を指揮した名匠、マウロ・フォルギエーリ技師の意欲作だった。

 その設計における基本思想として、荷重を可能な限り前後アクスル間に集中させると同時に、180度V12エンジンの特性を生かした低重心化を旨としていたという。

 この視点からみると、当時のマラネッロの通例にしたがってフォルギエーリがコンセプトを起こした新型312B3は、マッス(ラジエーター、タンク類など)の配置を大幅に変更されるなど、1971年、1972年シーズンを走った「312B2」とはまったく正反対の方向性を示しているようであった。

 312B2は、ジャッキー・イクスやマリオ・アンドレッティらの操縦によって一定の成功を収めたものの、実は重量配分はあまり適切とはいいがたく、重心もけっこう高いものだったのだ。

 また、単なる空力的付加物に過ぎなかった先代312B2のシンプルなフロントウイングは、312B3では先端が垂れ下がる一方、後端は前輪上部をも覆い尽くすように前傾して整形された、巨大な一体型ウイングへと取り替えられていた。

 さらに、この巨大ウイングの前面に一対の巨大なNACAスクープを設けて、サイドボディに収めたラジエーターにフレッシュエアを導入する仕組みになっていた。

 この独特のスタイリングから、当時のモータースポーツ専門誌などからさっそく「スパッツァネーヴェ(Spazzaneve:ラッセル式除雪車)」なるニックネームを頂戴したニューマシンは、低くて幅広、スクエアなボディを持っていた。ニックネームの理由となったのは、特徴的なノーズのみならず全身がラッセル車のように武骨なボディラインを形成していたからと思われる。

 酷暑のプレゼンテーションののち、312B3には1972年シーズン終盤の地元モンツァでのデビューを期して、アルトゥーロ・メルツァリオとマリオ・アンドレッティのドライブで、長期にわたるテスト走行が課せられることになった。

 ところが、サーキットにてたび重なる実走テストをおこなった結果、このマシンには好ましくない特性が発見されることになる。312B3スパッツァネーヴェは、ホイールベースが短すぎるために操縦性が神経質なうえに、エンジンがオーバーヒートを起こしやすく、このままでは正確なセッティングなど取り得ないことが判明したのだ。

 来たるべき1973年シーズンを闘う主戦武器として、1972年のシーズン内に試験的デビューする計画が進められていたこのマシンだが、実戦には一度も投入されることなくお蔵入りになる。そして、設計者のフォルギエーリ技師がフェラーリのロードカー部門へと、一時的ながら左遷されてしまう要因ともなってしまったという。

 そののち社外に放出された312B3は、現在では「モナコGPヒストリーク」や「グッドウッド・フェスティバル・オブ・スピード」などのクラシックカーイベントで大人気を博している。

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