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なぜ「カートレイン」廃止された? 夜行列車で愛車と移動出来た「カーフェリーの鉄道版」 衰退の一途辿った理由とは

くるまのニュース / 2022年10月27日 7時10分

「カーフェリー」のように、クルマと人を一緒に運んでくれる「鉄道」がかつて日本にもありました。廃止されてしまった意外な理由について紹介します。

■カーフェリーの鉄道版!? クルマごと運ぶ「夜行列車」があった時代

 かつて日本では、1985年から1999年までクルマと人を鉄道で運ぶ「カートレイン」というものが全国各地に点在しました。
 
 現在でもクルマを船で運ぶ「カーフェリー」は存続していますが、なぜカートレインは廃止されたのでしょうか。

 クルマと一緒に船に乗るカーフェリーは、例えば夜間に港から乗船して、翌朝到着の際にクルマとともに降りれば、ハンドルを握らずに数百キロの移動ができるため、首都圏を発着する北海道ドライブなどでたいへん重宝します。

 一方で、フェリーの航行速度はおおむね25ノット前後(時速約45km/h)のため、移動に時間がかかるという難点もあります。

 日本の鉄道でも同様のサービスを行えば、もっと早くクルマと目的地に着けて便利なのに……と思った人もいるのではないでしょうか。

 しかし2022年現在、日本の鉄道では、それに類する列車の運転は行われていません。ではなぜ「カーフェリーの鉄道版」は存在しないのでしょう。

 結論からいえば、かつては、人とマイカーを同時に運ぶ列車が走っていました。

 それが「カートレイン」で、まさにカーフェリーの鉄道版でした。

 カートレインのデビューは1985年7月。東京の汐留駅(のちに恵比寿駅、さらに浜松町駅に変更)と、福岡県北九州市の東小倉駅間で臨時列車として運転を開始しました。

 クルマを載せる貨車と、乗客が乗る客車(寝台列車のいわゆる「ブルートレイン」)を併結した列車を、電気機関車が牽引しました。

 カートレイン用の貨車は最高時速100km/h対応で、かつ当時貨物列車のコンテナ化で余っていたワキ10000形有蓋車(ゆうがいしゃ:屋根で囲まれたタイプの貨車)を用意。有蓋車には「囲い」があるため、載せたクルマを汚さずに運べるメリットもありました。

 ワキ10000形は、カートレイン用にガソリン漏れ対策として連結面に通気口の設置を行い、客車と連結できるよう、配管などの変更を実施。

 屋根を支える支柱の本数を減らすなどして、パレットに載せたクルマを1両あたり3台積むことができました。

 客車は、こちらも余剰車となっていた「ブルートレイン」20系寝台客車のA寝台車(通常のB寝台に対し広い寝台をもち、料金体系としては座席車のグリーン車に相当するクラス)ナロネ21形と、照明や冷房の電源を供給する電源車 カヤ21形を使用しました。

 運転開始当初は、ワキ10000形4両にナロネ21形2両+カヤ21形の7両編成。万が一クルマが燃えてしまった場合に貨車をすぐ切り離せるよう、貨車の連結位置は必ず列車後部とされていましたが、これは後年までルールとして徹底されました。

■好評を受け「カートレイン北海道」など複数区間での運転を開始

 春・夏・冬の臨時列車として運転をスタートしたカートレインは、行楽・帰省に用いるマイカーユーザーに好評を持って受け入れられました。当時は指定券の確保が困難だったほどです。

 そこで1985年12月には両数を増やし、貨車7両・A寝台車3両体制に。

 さらに1987年からは、途中の広島駅で乗降を可能とするために、同駅発着の貨車を2両増結することに。その結果、貨車9両・寝台車3両・電源車1両の13両で組成するようになりました。

写真は「カートレイン九州」。牽引機は、ブルートレインの機関車としてもお馴染みEF65PF形。カートレインでは機関車の次位に必ず客車が連結される(画像提供:毘牙憂螺氏)写真は「カートレイン九州」。牽引機は、ブルートレインの機関車としてもお馴染みEF65PF形。カートレインでは機関車の次位に必ず客車が連結される(画像提供:毘牙憂螺氏)

 1985年7月時点での時刻は、下りが汐留18:25発、北九州・東小倉10:15着。上りが東小倉18:05発、汐留10:18着。途中、乗客が乗降可能な停車駅はなくノンストップです。

 座席は全席指定で、運賃はクルマ1台・大人2人・子供2人の場合、合計約6.8万円でした。

 当時の東京から小倉間の新幹線移動が大人2人・子供2人で約6万円かかったことを思うと、カートレインはとてもリーズナブル。人気が出たのもうなずけます。

 当初、東京と九州の間のみの運転だったカートレインは、その好調ぶりから、1986年に中京エリアと九州(熱田駅ー東小倉駅)を結ぶ「カートレイン名古屋」を新設。

 クルマを積む車輌を、パレットを乗せられる荷物車マニ44形に変更したほか、客車に欧風のジョイフルトレイン「ユーロライナー」を用いていました。

 そのためマニ44形も、ユーロライナーとあわせた白+青帯をまとう凝り様でした。

 1988年には青函トンネルが開通。本州と北海道が鉄路で結ばれたことを受け、恵比寿駅(のちに浜松町駅に変更)と白石駅(北海道札幌市)間で「カートレイン北海道」の運転がスタートしました。

 編成は、ワキ10000形9両+24系25形寝台車4両。こちらはB寝台車オハネ25形3両+電源車カニ24形)の13両でした。

 なおカートレインにクルマを積む際は、パレットに自走で載ったあと車輪をロックして動かないようにして、そのパレットをフォークリフトで貨車に積み込むために手間がかかりました。

 積めるクルマには、全長4670mm×車幅1700mm×車高1985mm以下というサイズ制限があったため、5ナンバー規格いっぱいの全長4695mmのクルマも積めませんでした。

 また、カートレイン北海道利用時には、青函トンネルの安全規則で石油製品の輸送量制限があったため、積み下ろしの移動に支障がない程度までクルマから燃料を抜く必要がありました。

 その際は、積み込み駅近隣の指定ガソリンスタンドに立ち寄るよう指示がされていました。

■好調なカートレインが衰退! 意外な理由は「3ナンバー車の流行」!?

 前述のように、カートレインは複数列車が運転されるほどに発展しました。

 そのため元祖カートレインは1988年「カートレイン九州」に改称。客車も、1993年からは14系寝台客車にスイッチしています。

 A寝台からB寝台へとサービスは下がりましたが、B寝台化で定員は増加し、寝台料金も下がりました。

カートレイン北海道のワキ10000形に収まった三菱「パジェロ」。この2代目パジェロのロングボディの全長は4656mmだが、背面スペアタイヤは全長に含まれない。そのため、写真を提供していただいた方によると、スペアタイヤは外して車体の下に置いたとのこと(画像提供:UAフィンガー氏)カートレイン北海道のワキ10000形に収まった三菱「パジェロ」。この2代目パジェロのロングボディの全長は4656mmだが、背面スペアタイヤは全長に含まれない。そのため、写真を提供していただいた方によると、スペアタイヤは外して車体の下に置いたとのこと(画像提供:UAフィンガー氏)

 しかし、カートレイン九州とカートレイン名古屋は1994年に、カートレイン北海道は1997年に廃止されてしまいました。

 その後、JR北海道のみが「カートレインくしろ」「カートレインさっぽろ」という道内で完結する列車を走らせて、カートレインの利便性をアピールしましたが、その奮闘むなしく1999年にすべて運転を取りやめてしまいました。

 カートレインが廃止されてしまった理由はいくつかあります。そのひとつが、「クルマの変化」です。

 1989年に自動車税制改正が行われ、それまで8万円超だった3ナンバー車の税金が大幅に安くなりました。その結果、クルマ全体の大型化が進行。

 それまでカートレインで十分に運べたクラスの三菱「ギャラン」や、マツダ「カペラ」の後継車も「クロノス」などの3ナンバーに移行してしまったのです。

 さらに1990年代半ばからは、車体が大きく背の高いミニバンやSUV(当時はRVやライトクロカンと呼ばれていた)も台頭を始めており、パレットに載らない車種が次第に増えていきました。

 そのほかにも、国鉄が民営化してJR各社が発足したことも、廃止の契機となりました。

 JR各社はカートレインが運転されるキロ数に応じ、運賃の配分を受ける決まりを作ったのですが、JR九州区間は下関から東小倉間という短区間。

 そのため運賃収入が少なく、JR九州がカートレイン九州の運転継続には乗り気ではなかった、と一説ではいわわれています。

■北海道新幹線に搭載の仰天計画も!? カートレイン復活への模索は今も続く

 ところで筆者(遠藤イヅル)は、1993年に広島から浜松町まで、カートレインを利用したことがあります。

 自分のクルマ(当時は、ルノー「サンク」に乗っていました)を貨車に載せるドキドキや、マイカーと一緒に鉄路を移動するワクワク、いにしえの名車20系寝台客車の、しかもプルマン式A寝台車に乗れた嬉しさは、今でもよく覚えています。夜行列車という旅情もありました。

カートレイン用に改造されたワキ10000形有蓋車。カートレイン北海道に使用されたワキ10000形は、「カートレインさっぽろ」「カートレインくしろ」運転に合わせ、1998年に連結面からクルマの積み下ろしが可能なシャッターを新設した。写真のワキ10157はシャッター設置後の姿(画像提供:モデルあい子。モデルアイコン公式。氏)カートレイン用に改造されたワキ10000形有蓋車。カートレイン北海道に使用されたワキ10000形は、「カートレインさっぽろ」「カートレインくしろ」運転に合わせ、1998年に連結面からクルマの積み下ろしが可能なシャッターを新設した。写真のワキ10157はシャッター設置後の姿(画像提供:モデルあい子。モデルアイコン公式。氏)

 カートレインの欠点だった積み込み方法の煩雑さ、積載できるクルマの大きさ制限をなくし、通年で走らせられれば、再び旅行者から人気を得る列車になるのでは、と願うことしきりです。

 そのカートレインですが、復活への模索も続いています。

 2006年には、JR北海道が、自動車専用新幹線「カートレイン」の導入構想を発表しました。

 本州と北海道を結ぶ青函トンネルは、複線の線路上に線路幅や最高速度、車体の大きさが異なる北海道新幹線と在来線貨物列車が共用する問題があります。

 これを解決するため、新幹線の大きな車体にコンテナを積む貨物列車をまるまる積みこむ「トレイン・オン・トレイン」という大胆なプランが考えられました。

 そしてこの車両を応用し、道外からの観光需要に応えるべくカートレインを復活させよう、という案も出ているのです。

 このほか2017年になって、日本プロジェクト産業協議会が第二青函トンネルを新たに作り、鉄道用トンネルにカートレインを走らせようという壮大な計画を、国土交通省に提出しています。

 2022年現在、「トレイン・オン・トレイン」構想は技術・費用面の問題が多く、実用化はまだ先になりそうですが、カートレインの復活は期待したいところです。

■バイクを運んだ「MOTOトレイン」「モトとレール」も

 最後に、関連する列車について触れたいと思います。

 カーフェリーの鉄道版という意味では、このほかにもライダーに向けた「MOTOトレイン」「モトとレール」がありました。

DD51牽引で、北の大地を行く「カートレイン北海道」。機関車の次に連結されているオハネフ25形は、寝台側窓の上下幅が狭い100番台(画像提供:吉原勇樹氏)DD51牽引で、北の大地を行く「カートレイン北海道」。機関車の次に連結されているオハネフ25形は、寝台側窓の上下幅が狭い100番台(画像提供:吉原勇樹氏)

 1980年代から90年代は一大バイクブームで、北海道を巡るツーリング旅を楽しむ人も多くいた時代でした。

 MOTOトレインやモトとレールと、乗用車を積むカートレインとの違いは、専用の編成や臨時列車を仕立てるのではなく、定期列車にバイクを積む荷物車マニ50形を連結していたことでした。

 MOTOトレインは急行「八甲田」(上野駅-青森駅)および臨時快速「海峡」(青森駅-函館駅)に、モトとレールは寝台特急「日本海1・4号」(大阪駅-函館駅)に併結していたのです。

 ちなみに青函トンネル開通前の時代からMOTOトレインはありました。

 そのころは荷物車を青函連絡船で航送して、函館までバイクとライダーを運んでいました。

 フェリーよりも早く着くことから評判が良く、指定券が取りにくい列車と言われていましたが、平成10年の急行 八甲田廃止を受け、MOTOトレインも消滅。

 それに合わせるように、モトとレールも運転を終了しています。

 そもそも東京や大阪と北海道を結ぶ定期運行の夜行列車が全廃されてしまった今、なかなか復活は難しいでしょうが、前出のカートレイン復活との合わせ技はあり得る話かもしれません。

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