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モータースポーツ界注目の日本人ドライバー! 勝田貴元選手ってどんな人? 世界で活躍するトップ選手の生い立ちとは?

くるまのニュース / 2023年10月10日 13時30分

TOYOTA GAZOO Racing(TGR)ワールドラリーチームに所属している勝田貴元選手は、どのような人物なのでしょうか。

■ラリー界注目の日本人トップドライバー 勝田貴元選手とは

 TOYOTA GAZOO Racing(TGR)ワールドラリーチームに所属している勝田貴元選手は、昨年に引き続いて「ラリージャパン」をはじめ、WRC(FIA世界ラリー選手権)での活躍が期待されています。
 
 今シーズンの第9戦では総合3位を獲得するなど、モータースポーツ界では注目の若手選手ですが、一体どのような人物なのでしょうか。

 モータースポーツのなかでももっとも過酷ともいえるラリー競技は、屈指の人気を誇っています。

 その世界大会であるWRCで注目の的ともいえる選手が、トヨタのラリートップチームTGRワールドラリーチームに所属している日本人ドライバー、勝田貴元選手です。

 2022年、12年ぶりに日本で開催されたWRC日本大会「ラリージャパン」では総合3位で表彰台に立ち、2022年シーズンのドライバー選手権5位を獲得。さらに2023年シーズン第9戦「ラリー・フィンランド」でも総合3位を獲得するなど、その活躍ぶりはモータースポーツファンからは外せない存在です。

 そんな勝田選手ですが、1993年3月に愛知県長久手市で産まれました。

 国内ラリーのパイオニア的存在ともいえる祖父・勝田照夫氏と、全日本ラリー参戦経験のある父・勝田範彦氏を持つラリー一家に生まれました。

「もともと、祖父(勝田照夫氏)がやっているチューニングショップがあり、物心がついたころからクルマがそばにありました。

 なので、スポーツカーとか競技車両、ラリー競技は近くにあった環境で育ちました。本当に小さい頃からクルマは好きでした」

 そうした環境で育ったことから、クルマは身近だったようですが、実はもともとラリードライバーになることは目指していなかったといいます。当時はどんなことに夢中だったのでしょうか。

「最初幼稚園から小学校中学年にかけてはBMX(自転車競技)に熱中していて、小学校高学年では部活でサッカーをやっていたので、元はサッカー少年でしたね。

 クルマは好きだったんですが、免許取ったらクルマに乗ってお父さんみたいなことをするのかな?くらい、(ラリードライバーが)夢で絶対になるとか全く思っていなくて。それよりも自転車やサッカーに夢中でした」

 クルマに興味がある「サッカー&BMX少年」時代を過ごした勝田選手。では、モータースポーツに目覚めたきっかけは何だったのでしょうか。

「モータースポーツのキャリアはレーシングカートからスタートしました。はじめたのは12歳、小学校6年生の頃なんですね。

 たまたま父(勝田範彦氏)が友人と乗ってきたレーシングカートが子どもも乗れるということではじめてその存在を知りました。

(遊具の)ゴーカートには乗ったこともあるんですけど、レーシングカートに1回乗ったらずっと乗っていたいと思うくらい本当に楽しくて。そこから熱中して『カートって走るだけじゃなくレースがあるんだよ』っていうところを知りました」

 モータースポーツ界では、幼少期から一流ドライバーを目標に掲げ、カートに乗って技術を学んでいくのは一般的ともいますが、勝田選手は少し違っていました。

「実をいうと(モータースポーツ)業界のなかで(カートを始めたこと)は結構遅いほうで、F1を目指す子とかはもう3歳とか4歳から乗っているとか、早い歳から始めるんですけど、僕は小学校6年生のときにたまたま始めただけでした。

 ただ、出るからには勝ちたいとか、そういう思いが強くなって、そこからどっぷり浸かっていきましたね」

幼少期の勝田選手はクルマやモータースポーツが身近だった(画像:勝田貴元公式X(@TakamotoKatsuta)より)幼少期の勝田選手はクルマやモータースポーツが身近だった(画像:勝田貴元公式X(@TakamotoKatsuta)より)

 元々サッカーやBMXでも「負けず嫌い」の性格が人一倍強かった勝田選手は、カートの世界でもその性格をフルに出し切っていきます。

「カート始めて2年くらいのときはもう本格的にやっていて、全日本ジュニア選手権というカテゴリに出場していたんですが、その頃になっても正直プロのレーシングドライバーになるっていう意識はあまりなかったです。

 とにかく眼の前の試合とかレースに優勝する、とにかく勝ちたいっていう気持ちばっかりだったので、同年代のドライバーのように将来目指しているという感じではなかったです」

 しかし、思春期ごろから徐々にプロへの意識も向き始めたといいます。

「結果的には15歳くらいで(モータースポーツ活動を)支援してくれる色々なスカラーシップがあって、そこで自分の将来を考えるようになり、ちょっとずつ何やりたいのか、そのために何をすべきなのかなということを考え始め、目標も見えてきました。

 カートを始めて、プロを意識しはじめてからはF1とかGTとか、スーパーフォーミュラとかレースのことを考えていましたが、それでもまだラリーのことは視野に入っていなくて、とにかくレース1本でした。

 なので、祖父とか父に『ラリーいつやるのか?』とかいわれても、『多分やらない。1回やってみたいけど、(ラリードライバーではなく)レーシングドライバーでプロになりたい』ということを当時言っていましたね」

■ラリーを目指したきっかけは「思い切り」だった

 ようやくプロドライバーとしての意識が向きはじめた一方、20代になるまでラリーには本気ではなかったようです。

「15、16歳のときにカートの世界選手権に出場しました。そのときに日本では勝てたけど、やっぱり世界に出るともっと速い人がいっぱいいて、勝てない経験もしました。

 こういう人たちを相手にして勝ちたいなって、そこから勝ちにこだわる性格が出て、ただプロというだけでなく、世界で活躍するプロになりたいなっていう思いがありました。

 そこが(プロへの)原点ですね。21歳のF3までは本当にレース1本でした」

豊田章男会長(左)勝田貴元選手(中央)元WRCドライバーで祖父の勝田照夫氏(右)豊田章男会長(左)勝田貴元選手(中央)元WRCドライバーで祖父の勝田照夫氏(右)

 こうして勝田選手はプロ入りを果たし、めきめきと頭角を現していきます。その一方で、今住んでいるフィンランドとは意外な接点もあったといいます。

「実は中学校3年生(15歳)のときにWRCのフィンランドに見に来ているんですよ。

 そのときに祖父と古賀さん(モータースポーツジャーナリストの古賀敬介氏)が『貴元をちょっとでもラリーに興味持たせよう』みたいな話があって、ラリーを見てすごいとは思ったんですが、そのときもやっぱりレースをやりたいということを話しました。

 結果、こうやってフィンランドに住んでいるので、運命的なものは感じますね」

 のちに勝田選手は、18歳でFCJ(フォーミュラチャレンジ・ジャパン)チャンピオンを獲得。

 20歳では全日本F3選手権シリーズ2位となり、翌2014年はシリーズ4位のポジションにつくなど、フォーミュラレースで結果を残し続ける勝田選手ですが、徐々にこの先のキャリアについて悩み始めます。

「レースを続けていましたが、2009年にトヨタがF1を撤退してしまったことなど、F1の世界に行ける路線が現実的になくなっていたこともあり、自分は何を目指しているのかなってわからなくなったこともあります」

 フォーミュラレースのなかでもトップに君臨するF1は、モータースポーツ界の最高峰ともいわれています。

 しかし、2000年代後半ではホンダやトヨタのF1撤退など、日本のフォーミュラ界ではあまり良いニュースが続きませんでした。フォーミュラレースに専念しながらも勝田選手は再び悩みます。

2017年シーズンの「ラリー・イタリア・サルディニア」に出場した勝田選手2017年シーズンの「ラリー・イタリア・サルディニア」に出場した勝田選手

「自分のなかでもやもやしている部分があったなかで、トヨタが本格的にラリーに復帰するというウワサを聞きました。

 父も祖父もずっとラリーをやっていますし、なにかチャンスがあるかもと思い、そこからからはちょっとずつラリーに参戦したりして楽しさも知り始めていたので、2015年、トヨタが世界で戦えるラリードライバーの育成をすると知って今までのキャリアをぜんぶ捨てて、転向を決めました。本当にいろんな過程があって決めました」

 ラリー一家に生まれるも、これまでほとんどラリーに触れてこなかった勝田選手が悩んだ末に決めたのはラリーの道でした。

「もともと、めっちゃ優柔不断なんですよ。でも勝ちにはめちゃくちゃこだわっていたというか。とにかく勝ちたいっていう性格が根底にあって、そういう積み重ね(の結果がラリー転向への選択)だったかもしれません」

■未経験の難しさに挫折も… 乗り切った強さは「糧」となった

 ついにラリー転向を決めた勝田選手ですが、これまでのレースとは全く異なる競技の特性に心を折れそうになることもあったようです。

「辛いときはいっぱいあって、向いていないのかなと思うときもいっぱいありました。

(調子が)いいときもあるんですが、悪いときには考えすぎちゃって。『もう辞められたら楽になるのかな』とかそういうことはもちろん考えました。

 ただ、辞めた瞬間にそれまでの努力はもちろん、応援してくれている人、家族はもちろん、スポーツはひとりじゃできなくて、自分が走るためにはサポートしてくれる人がいっぱいいて、その人たちを裏切ることになるので、なんとかして結果を出したい。

 応援を(形として)返したいっていうのが、辞めたい気持ちのブレーキにも原動力にもなりました」

家族の存在は辛いときの支えになっているという(画像:勝田貴元公式X(@TakamotoKatsuta)より)家族の存在は辛いときの支えになっているという(画像:勝田貴元公式X(@TakamotoKatsuta)より)

 一番辛かった時期は2016年から17年の時期、TGRラリーチャレンジプログラム(現:WRCチャレンジプログラム)の育成ドライバーとしては2年目のころだったと振り返ります。

「一番辞めたいと思ったのが、ラリーに転向して2年目のとき。難しさに直面して速さを出せない中でクラッシュが続いてしまったときです。

『自分はラリーに来るべきじゃなかったのかな。こんな辛い思いをするならレースを続けていたほうが良かったかな』っていうのは本当に思っていました。

 それでも、諦めてレースにぱっと帰ったら超ダサいし、転向するときに『レースは大好きだけど(レースを)辞めるって決めたんだから、行けるところまでいこう。ラリーを辞めるときはモータースポーツ全部辞めるときだ』と思いました」

 辛い状況では、ラリーへの転向した覚悟や応援してくれる人の存在を思い出して乗り切り、さらに勝田選手を奮い立たせる出来事がありました。

「2017年の一番辛いときに、17年末に僕は結婚しているんですよ。2018年に子どもが産まれて、そのときに責任感というか、この子のためにも本当にこの世界でやりきらないとっていうモチベーションも生まれました。

 奥さんの存在と娘が産まれたこと、それはすごく大きかったと思います」

 こうしたなか、WRC2018年シーズン第2戦「ラリー・スウェーデン」ではWRC2カテゴリで初優勝を果たしました。

 続く2019年では、WRC第6戦「ラリー・チリ」で同カテゴリ優勝、トップカテゴリマシンであるWRカーで参戦した「フィンランド・ラリー選手権」では2戦2勝、初のトップカテゴリ参戦となった「ラリー・ドイチュラント」でも10位入賞を記録。

 以後も、勝田選手の活躍はとどまることを知らず、2020年ではトップカテゴリで5戦に出場し、2021年には第6戦「サファリ・ラリー・ケニア」で総合2位に入り初表彰台獲得という快挙を見せ、ドライバー選手権でも7位を獲得しています。

今年のラリージャパンでも注目すべき存在(写真は2022年WRC)今年のラリージャパンでも注目すべき存在(写真は2022年WRC)

 2022年では、12年ぶりに開催されたラリージャパンで総合3位に入るなど母国の表彰台に立つことができました。

「日本人選手として責任感とかプレッシャーがあったなかで、昨年のラリージャパンでは表彰台に乗れたっていうのは良かったと感じています」

 2023年ではついにトヨタのトップチームへと昇格を果たした勝田選手は、第9戦ラリー・フィンランドで今季最上位となる3位を獲得するなど、すでにトヨタチームを支えるドライバーとしての地位を確立しました。

「今年のラリージャパンでは、昨年で新しくラリーのことを知ってくれた人もたくさんいると感じたので、この流れがずっと続いてより大きな『輪』になればいいなと感じますね」

 覚悟を決めたラリー転向から9年目。カート競技から始まり、今や世界で活躍するトップドライバーとなった勝田選手は、9月7日から10日にかけて開催された第10戦「アクロポリス・ラリー・ギリシャ」でも総合6位を獲得。

 2023年シーズン最終戦を飾る地元開催のラリージャパンをはじめ、残る3戦での活躍にますます期待が高まっています。

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