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「お母さん、泣いたらあかん」事故死した7歳娘にハイジの結末、伝え続けた母親の壮絶49年間

京都新聞 / 2023年11月22日 18時0分

事故が起きる数日前、自宅の庭で山中さんが撮影しためぐみさんの写真

 滋賀県湖南市のパート山中喜代子さん(78)は、小学1年だった長女を交通事故で亡くした。

 当時29歳の母親は、これから先の長い人生をどう歩めばよいのか分からず、途方に暮れた。

 「あの子をひとりぼっちにさせたくない」

 生きる気力がわかず、自ら命を断とうと思うことも一度や二度ではなかった。それでも今日まで生きてこられたのは、娘が最期の時にささやいた、あの言葉があったからだ。

 山中さんは中学卒業後、地元の計器製造工場に就職した。そこで同じ町内出身の夫と出会い、18歳で結婚した。第一子が誕生したのはそれから3年後の1967年。夫婦で「子宝に恵まれた」と喜び、その気持ちのままに「めぐみ」と命名した。

 優しくてしっかりした子どもだった。家事に忙しい母親を手伝い、3人の弟妹の面倒もよく見てくれた。小学校に入学してからは勉強に一所懸命で、学校の先生からも「めぐみちゃんはしっかり者」とほめられた。

 一家が暮らした地域は「湖南三山」にほど近く、夏が過ぎると山々が鮮やかに色づく。めぐみさんは黄色いイチョウの落ち葉を拾って帰って来ては「はい、お母さんにプレゼント」と渡してくれた。

 幸せな暮らしが暗転したのは74年11月12日、秋真っ盛りの頃だった。

 めぐみさんは遠方にある小学校への登下校に通学バスを利用していた。

 通学バスの発着場は自宅から100メートルほど先。そこはバスがぎりぎり通れるぐらいの狭い路地だった。

 下校途中のめぐみさんはバスを降り、いつものようにバスを避けようと道路脇に退避した。ところがこの日は運悪く、背中のランドセルがバスの車体に引っかかった。めぐみさんはバスの底に引きずり込まれ、巨大なタイヤに踏みつけられた。

 山中さんが事故現場に駆け付けると、めぐみさんは血だらけで、ビニルの肥料袋にくるまれて横たわっていた。119番したが救急車はなかなかやって来ない。しびれを切らした山中さんは小さな体を抱きかかえ、夫の車の後部座席に乗せた。

 最初に運び込んだ近所の病院では手に負えず、めぐみさんは草津市内の病院に移された。

 処置室の寝台下に置かれた洗面器は、すぐに血でいっぱいになった。

 「この子だけは死なさんといて!」

 山中さんは痛々しいわが子の姿に混乱し、叫び声をあげた。

 その時、めぐみさんが、ぽつりとつぶやいた。

 「お母さん、泣いたらあかん。泣いたら、あかんで」

 ぽつり、ぽつりとつぶやいた。

 「お医者さん、ありがとう。看護婦さん、ありがとう」

 それからまもなく、めぐみさんは静かに息を引き取った。

 悲嘆に暮れる山中さんに追い打ちをかける出来事が3年後に起きた。自宅が火災に見舞われたのだ。家族は無事だったが、めぐみさんの遺品はことごとく焼失した。お気に入りのブルーのセーターも赤いランドセルも全部…。

 山中さんは生きていることがしんどくなり、娘の眠る墓地で自ら命を断とうとした。しかし、幼い子どもたちを置いて自分だけがこの世を去る覚悟はどうしてもつかなかった。

 いつしか、命を落とした娘に親として何をしてやれるか、ということだけを考えるようになった。

 まず、めぐみさんが遊び場にしていた近所の寺でイチョウの落ち葉を拾い、仏前に供えることから始めた。

 「めぐみ、お母さんにプレゼントしてくれたお返しやで」

 次に、お金をためてお墓を建て替えてやろうと考えた。

 最初に建てられた墓は木製で10年、20年と年月が過ぎるとボロボロになり、ついには戒名も読めなくなってしまった。山中さんは新聞販売店やクリーニング店で仕事に励み、2018年、ピカピカの墓石を建てた。

 墓石にはめぐみさんが亡くなった年にテレビ放映されていた人気アニメ「アルプスの少女ハイジ」の主題歌の歌詞を刻んだ。めぐみさんは毎週日曜日の夜、ハイジが始まるのを心待ちにしていた。物語の幸せな結末を見届けることができなかった娘に対し、山中さんは力いっぱい伝えた。

 「めぐみ、クララが歩いたで」

 娘の死後、がむしゃらに走り続けた母親も78歳。

 そんな山中さんが最後に掲げた目標がある。49回目の命日に営む「五十回忌」だ。

 山中さんは五十回忌にかける思いを何度も文章にし、京都新聞の読者投稿欄「窓」に送った。

 「娘の三十七回忌終えて」 枯葉舞う冬の季節となり、今年も残りの日を数えるようになった。新しいカレンダーが届くと、娘の命日に印をつけている。ついこの間のように思えることも36年の歳月が過ぎ、三十七回忌の法要を勤めてやることができた。いくら年月がたっても、7歳2カ月の姿のままで私の胸に残る娘であった。(中略)どうか元気でいて、娘の五十回忌を勤めてやりたいと願っている。(2010年12月25日付)

 「亡き娘へ 46年目のイチョウ」 生きていたら、53歳になっている。でも、私には、その姿が分からない。(中略)年齢を重ねてきた私に、娘はどんな言葉を掛けてくれるだろう。「五十回忌を勤めてやるまで頑張らないと」と思っている。(2020年11月29日付)

 「娘五十回忌へ 積年の思い」 昨年11月、娘の48回目の命日を済ませ、私の1年の思いが遂げられた。あの日、学校に行く娘を見送り、お互いの姿が見えなくなるまで手を振り合った。そして、夕方、通学バスにひかれ、娘は7歳2カ月で命を奪われた。(中略)次は五十回忌を迎える。この五十回忌、何が何でも勤めてやりたい。その思いで、今まで生きてきた。あと1年、あと1年、どうかかなえられますようにと願っている。(2023年1月19日付)

 記者が山中さんと初めて会ったのは湖南三山の周辺の木々が色づき始めた10月中旬。

 山中さんは初対面であることを忘れるぐらいに楽しい人柄で、「窓」の投稿から受けた悲壮なイメージとは正反対の印象を受けた。

 「もともと明るい性格やったのもあるんですけど、やっぱり、めぐみが死に際にね、『お母さん、泣いたらあかん』って。あれに背中を押してもらえたから、私はここまで生きてこられたんやと思います」

 五十回忌が営まれたのはそれから2週間後の日曜日。その日の夜、山中さんからこんな文面のメールが届いた。

 「お天気にも恵まれ、めぐみの五十回忌を終えることができました。今日の秋晴れのようなさわやかな気分に満足、親の務めを果たすことができました」

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