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800キロの荷物運搬に活躍 大津ー京都間の車石について学ぶ「次世代に伝えて」

京都新聞 / 2024年6月1日 14時55分

「車石」の成り立ちや変遷について解説する久保さん(大津市京町3丁目・逢坂市民センター)

 江戸時代に大津と京都を結んだ東海道で、牛車が円滑に通行できるよう敷設された「車石(くるまいし)」についての講演会がこのほど、大津市京町3丁目の逢坂市民センターで開かれた。研究者が絵図や文献を示しながら、大津の繁栄を支えた車石の成り立ちや変遷、種類などを詳しく解説した。

 地域住民らの「大津本陣倶楽部」が主催し、約20人が出席。歴史愛好家でつくる「車石・車道研究会」の久保孝代表(75)=京都市伏見区=が講師を務めた。

 江戸時代の大津は宿場町だけでなく琵琶湖水運の拠点として活況を見せ、1790(寛政2)年の記録では、大津に集まった米のうち約60万俵が京都に運ばれたという。その大量輸送を担ったのが牛車で、本体と積み荷で重さは800キロ以上。久保さんは「事故や道の破損を防ぐため、人馬道と分離させたのが『車道(くるまみち)』の始まり」と指摘した。

 峠などの難所でも車輪がぬかるみに落ち込まないよう、1804~05(文化元~2)年にはレール状に敷石を全面的に設置。もともと石に溝はなかったが、車輪の重みでU字形にくぼみ、車石と呼ばれるようになった。溝は一筋だけでなく、複数や十字、表と裏に見られる車石も写真を交えて紹介した。

 明治に入り、馬車が通れる西洋型の砂利道にした方が良いとの「お雇い外国人」の提案もあり、車石は撤去された。久保さんは、今も逢坂学区には車石が85個残るほか、展示場所が10カ所もあるのは最多だとし、「大津の繁栄を支えた車石を大切に守ってきた。これからも車石への理解を深め、次の世代に伝えてほしい」と語りかけた。

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