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「ワクワクして着たのかな」被爆の学生服を再生し、女性は涙した「生命の輝き」伝えるレプリカ

京都新聞 / 2024年8月6日 7時0分

被爆資料のレプリカを作り続ける和久田優子さん。「物が手に入らない時代だからこそ、持ち物への愛着が感じられる」と話す(7月16日、京都市伏見区)

 広島市の広島平和記念資料館が所蔵する被爆資料のレプリカを作り続ける女性が京都市にいる。劣化のため輸送や展示が難しい実物に代わって国内外に被爆の実相を伝える役割を担う。女性は、資料に長期間向き合うことで見えてくる「人が生きていた生命の輝き」を残したいと願う。米国による広島への原爆投下から、6日で79年を迎える。

 和久田優子さん(60)=伏見区=は2年前まで医学や看護の教材などを手がける京都科学(同区)に勤めていた。同社は当時、埋蔵品など文化財のレプリカ制作も行っていた。

 ■資料はもともと損傷が激しく

 戦後50年が過ぎた1995年頃、広島平和記念資料館から被爆資料の複製依頼が入った。資料館は国内外から貸し出し要請を受けていたが、資料はもともと損傷が激しく、運搬や長時間の展示に耐えられる状態ではなかった。

 当初は原爆の威力を伝えることにレプリカの意義があると考えていた。転機は10年前。それまで手がけていた花瓶などの遺物から、犠牲者が身に付けていた衣服や靴のレプリカを作るようになっていた。これらの資料は型取りができず、似たものを買って加工してもリアルな雰囲気は出ない。実物に近づけるために一から作り上げることにした。

 ■ある学生服との出会いが

 その時に接したのが、ある学生服だった。13歳で亡くなった大下靖(のぶ)子(こ)さんが、物資がない中で母親の服を再利用したものだった。和久田さんたちは型紙を作り、似たような布を捜して縫い合わせた。

 完成させた時、大下さんの気持ちを追体験した。「母親に見せて一緒に喜んだのかな。ワクワクして学校に着ていったのかな」。被爆した状況にするため完成品を破壊する中で悲しさが募り、涙が流れて作業が中断することもあった。だが、生前の姿に思いをはせたことには確かな手応えがあった。原爆の悲惨さだけでなく、人が生きた痕跡を残すのがレプリカの役割だと思った。

 ■2歳で犠牲、そのパンツは

 レプリカ制作部門の閉鎖に伴い独立した。

 昨年、広島で開かれた先進7カ国首脳会議(G7広島サミット)の前に手がけたのが、2歳で犠牲になった太尾田洋夫(たおだ・ひろお)ちゃんのパンツだ。

 生地に使われていたのは長襦袢(じゅばん)。だが、絹素材はぬれると固くなるので2歳の男の子が履くと痛いはず。だから股の部分だけ木綿が使われていた。苦労して縫ったに違いない。母親の深い愛情を感じ取った。

 ■「レプリカなら可能」

 サミットでは、他のレプリカとともに各国の報道の拠点となる国際メディアセンターに展示された。資料館の学芸係長、落葉裕信さん(47)は「損傷が激しく展示できなかった資料も、レプリカなら可能になる」と、さらなる広がりに意欲を示す。

 昨年までに作られたレプリカは40点。時を超え、国境を越え、被爆者たちが生きた証しを伝えている。

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