孫の頼みで綴った「おじいちゃんの戦争体験記」 爆弾で飛び散った手足、仲間を荼毘に付した記憶… 「ここまで詳細とは」孫も驚く

京都新聞 / 2020年8月11日 8時0分

孫の求めで執筆した戦争体験記を読み返す山内亨さん(京都府亀岡市畑野町)

 太平洋戦争末期、学徒動員先の名古屋市と京都府舞鶴市で相次いで空襲に遭った京都府亀岡市畑野町の元小学校教諭山内亨さん(92)が、戦争体験記をまとめた。同じ教職の道を歩む孫の頼みに応え、「書いていることは、おじいちゃんの真剣な思いや事実ばかりです」とメッセージを込めた。

■女学生の働く工場に爆弾が直撃、無残な遺体

 山内さんは京都師範学校(現京都教育大)予科2年の1944(昭和19)年9月、名古屋市の住友金属工場に勤労動員された。45年5月17日未明には寮が焼夷(しょうい)弾でやられ、仲間1人が亡くなった。

 6月9日朝には工場が爆撃を受けた。戻った職場で見た光景は忘れられない。「女学生がたくさん働いていた検査場が直撃を受けて鉄骨だけになっていて、飛び散った手や足が引っかかっていました。地獄でした」と、言葉を詰まらせた。

 一方、連日のように爆撃から逃げ回ったが、「スリルを楽しんでいたような面も確かにあった」と明かす。

■舞鶴では爆風に吹き飛ばされた

 山内さんたちは7月中旬に舞鶴市の海軍工廠(こうしょう)に移された。間なしの同月29日、米軍機から大型爆弾1発が投下された。山内さんは爆風に吹き飛ばされて気を失い、トタンの下敷きになったという。

 97人が犠牲になったうち、9人が京都師範学校生だった。数日後、最後に見つかった仲間の遺体を荼毘(だび)に付すよう、上官に命じられた。「仲間をこんな目に遭わさないといけないのか、堪忍してくれって。あれは耐えられませんでしたな」

 父親の言葉も胸に刻まれている。名古屋から帰省した折、爆弾の破片を持ち帰り、家族に空襲の様子を得意げに話したことがあった。黙って聞いていた父親から帰り際に呼び止められた。

 「『自分の命は自分で守らなあかん。十分に気を付けてくれよ』って、目に涙をためていましたね。あれはこたえました」―。

■孫娘も驚く「知らないことがたくさん書かれていた」

 山内さんは、これらの戦争体験を思い起こした体験記を昨年完成させた。きっかけは、孫の高校教諭福山悠加さん(28)=大津市=から「おじいちゃんの戦争体験を書いて」と原稿用紙を渡されたこと。学友から借りた資料や新聞記事も参照し、120ページにもなった。

 「ここまで詳細に書いてくれるとは」。悠加さんは充実した内容に驚いた。子どもの頃に祖父から話を聞いたことがあったが、知らないことがたくさん書かれていた。「私の世代なら戦争を経験した祖父を持つ人もいる。活字になるといつでも読み返せる。機会があれば、生徒たちにも自分の家族から聞いた戦争のことを話せたらいいかな」という。

 山内さんは体験記の「むすび」にこう記した。「悠加先生からの頼みは、最高のプレゼントであった」

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