人間魚雷・回天搭乗員、最後に「ありがとう」 母艦乗組員証言、冥福祈り続ける

京都新聞 / 2020年10月12日 11時30分

回天搭乗員の最後の言葉を振り返る中村松弥さん。この証言の翌月に体調を崩して入院し、7月に亡くなった(2月27日、京都市伏見区の自宅)

     太平洋戦争末期、人間魚雷「回天」搭乗員の最後の言葉に耳を澄ましていた元潜水艦乗組員の男性が、7月に94歳で亡くなった。艦長と特攻兵器との連絡員だった。男性は戦後、未成年もいた搭乗員たちの冥福を祈り続けてきた。生前の今年2月、京都新聞社の取材に応じ、当時の心境や平和へを思いを語り残していた。

     京都市伏見区の中村松弥さん。東山区の青果店に生まれ、「琵琶湖で泳いだり船やボートで遊んだりするのが好きだった」ことから1944年5月に海軍を志願した。当時18歳。山口県平生町の潜水学校で半年間教育を受け、回天の母艦となった大型潜水艦「伊58」の乗組員となった。

 「潜水学校ではよく『海軍精神注入棒』で殴られたけど、(艦内では)みなむちゃくちゃ優しい。食べ物は学校や基地隊の麦飯と違って白米。牛肉の缶詰もあった」と振り返る。
 伊58の艦長は、京都市出身で戦後に梅宮大社(右京区)の名誉宮司を務めた故橋本以行(もちつら)さんだった。積んでいる回天は6基。1基ごとに電話が付いていた。

 「艦長が潜望鏡に食らいつきながら(敵艦の)方角や距離、回天が走る時間を言うので、私がレシーバーを持ち、艦長の言葉を伝える。例えば『敵艦右45度、距離5千、30分』。一言も間違えたら駄目です」

 回天の搭乗員は復唱しながら「了解しました」と言い、「よーい」という号令でエンジンを掛ける。艦長はいつも「最後に言うことはないか」と聞いた。中村さんの記憶は鮮明だ。「出撃した(18歳~23歳の)5人のうち4人は『お世話になりました。ありがとうございました』、1人は『天皇陛下万歳、後続の者よろしく』と言った」

 回天が離艦すると電話線がちぎれて通信は途絶える。「後は回天の人任せ。私は何とか当たれ当たれと願っていた」。敵艦に命中すると「あー良かったと思ったものです。みんなが一つの棺おけに入っているようなもん。私もいつでも死ねると思っていた」。

 1945年7月29日夜、フィリピン沖を浮上して航行中、米艦を発見した。広島原爆の部品を運び終えた「インディアナポリス」だった。艦長は潜行を指示。距離を縮めてから魚雷6本を扇形に撃ち、3本が命中した。回天からは「まだ沈みませんか。とどめを刺させてください」と催促がきた。艦長は「行かずとも良い。今に沈む」と出撃を許さなかった。米艦はその後、沈没した。

 8月15日ごろ、戦果の報告のため回天基地に戻ると、電信長が泣きながらメモを艦長に持ってきた。艦長は「破って捨てろ。まだ誰にも言うな」と厳命したという。中村さんが敗戦を知ったのは17日朝。伊58の甲板上に約100人全員が集合し、全員で軍艦旗が燃え尽きるまで敬礼した。「俺の体はどうなるのか、考える余地がなかった」

 戦後は東山区の実家に帰り、結婚。青果店の商売が落ち着いた1960年代から、基地があった山口県周南市の大津島を毎年訪れ、冥福を祈るようになった。「出て行ってそれきりですやん。そら忘れられません。これからも戦争がないと良いなと思います」。中村さんは慰霊の旅を亡くなる前年まで続けた。

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