10円玉でおなじみ「平等院鳳凰堂」の落書きでわかった庶民たちの苦悩

まぐまぐニュース! / 2016年6月12日 19時0分

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毎週古都の魅力を余すことなく伝えてくださる人気の無料メルマガ『おもしろい京都案内』。今回は、「【京都】白砂と石の小宇宙。観る側の心を映す『枯山水』を観に行こう」に引き続き、日本庭園の鑑賞に役立つ情報を配信してくださっています。「平等院鳳凰堂」といえば、世界遺産でもあり10円玉に描かれていることでもおなじみですが、その美しい庭園には、避けられない死を恐れる貴族、そして疫病や大飢饉と戦いながら労働を強制された庶民たち両者の苦悩が秘められていました。

浄土式庭園 宇治平等院鳳凰堂の秘密とその魅力

今回は前回に続き日本庭園の魅力をもう一つお伝えしたいと思います。浄土式庭園の観賞をより実りあるものにして頂くためにもその時代背景や歴史的考察もご案内します。そして日本を代表する浄土式庭園・宇治平等院鳳凰堂をその例にとりあげて詳しくご紹介します。

庭園や絵画などの美術品などがテーマの時は皆さまと一緒に観賞するか、絵や写真を見ながらご紹介したいものです。将来随行ガイドや講義などでそのような機会を持つことが出来るようになったら是非ご一緒させて頂きます。それまではまだまだ勉強頑張ります! さて、まずは時代背景からご説明して参ります。

浄土式庭園が造られるようになった背景

それまで主流だった寝殿造庭園をベースに、当時の思想の変化を受けて造営されるようになったのが浄土式庭園です。それらは主に平安時代から鎌倉時代にかけて築かれた日本庭園の形式のひとつです。現存する一番有名なものは宇治平等院鳳凰堂とその前庭である園池がその典型です。

その様式は仏教の浄土思想の影響を大きく受けたもので、極楽浄土の世界を再現しようとしたものです。主に金堂や仏堂をはじめとした寺院建築物の前に園池が広がる形をとっていることが特徴です。

寺院の主要建築である金堂や阿弥陀堂の前面に池をつくり蓮を植え、花園を設けるなどしたものでした。平安期に流行した寝殿造の庭とは違って、中心建築が寝殿から阿弥陀堂に変わっているのが特徴です。そして庭園の池の占める割合が非常に大きいのも特徴の一つです。きらびやかなお堂などの建築物が池面に映る姿で浄土を空想させる工夫がされていたようです。

浄土式庭園と末法思想

このような庭園が造られるようになった時代背景には末法まっぽう思想という考え方が存在します。末法思想では、釈迦が説いた教えと己の修行と悟りが三つ揃っている時代を正法としました。そして、その時代が過ぎると教えと修行だけは残るものの悟る人がいない時代が来るとされていました。この時代を像法といいます。そしてその後は教えだけが残り、修行も悟りもなくなる時代が来ます。人も世も最悪な状態となり正法がまったく行われない時代でこの時期が末法と呼ばれるものです。

この末法の時代が始まるのはお釈迦様が入滅して2,000年後の1052年にあたると言われ、当時の人々は恐れていました。この時代は藤原氏など貴族の摂関政治が衰え院政へと向かう時期です(摂関政治というのは貴族が摂政や関白といった天皇を補佐する要職を代々世襲で独占し続けた政治体制です。院政は在位する天皇の父親などが上皇として天皇に代わって政務を行う政治体制です)。

また平安後期は武士が台頭しつつある時期でもあり、治安の乱れが激しく、民衆の不安は増大しつつありました。仏教界も天台宗を始め寺院全般に腐敗が広がり、僧兵武装した僧侶の出現によって退廃していった時代でした。

このように平安末期のこの時期は仏の末法の予言が現実の社会情勢と一致してしまったのです。そのため、人々の現実社会への不安は一層深まり、この不安から逃れるために広まっていったのが末法思想だったのです。

仏法は、仏教を広めた釈迦の没後、2,000年は平穏に過ごせるが、その後は恐ろしい末法の世がはじまると説きました。末法思想は平安貴族を震え上がらせました。表向きは華やかな生活を送りつつも、死という切実な不安から逃れることが出来なくなっていったのです。

平等院が創建されたのはちょうどこの頃でした。この時期は末法の年の接近にともない、大飢饉や疫病が起こり都は地獄さながらの状況だったようです。末法の世では、死後成仏出来なくなるという不安が強まりました。貴族たちは死後の世界である浄土のなかで最も美しい極楽浄土に往生出来ることを願いました。その願いをかなえるために造られたのが浄土式庭園と呼ばれる庭園建築だったのです。

宇治平等院鳳凰堂

平等院は、末法が始まるギリギリの釈迦入滅2,000年目にあたる1052年関白藤原頼通によって創建されました。藤原頼通と言えば「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の かけたることもなしと思へば」の歌で有名な藤原道長の長男ですよね(この世は自分のためにあるようなものだ。満月の欠けたことがないように)。満月の欠けたことがないようにとは、もう自分の思うようにならないことは一つもないということです。いかにも栄華を極めているといった勝者の歌ですね。

平等院は京の都から見て宇治川の向こう側に位置しています。当時は宇治川を三途の川に見立てその西にある西方浄土にたとえられた場所だったということです。西は日が沈む方角なので死者が住む場所、すなわち浄土がある場所と考えられていたのです。

古来から貴族が死を迎えるまで晩年を心安らかに過ごす場所としてもこの地が選ばれてきました。かつては、陽成天皇の隠御所があり、宇多天皇や朱雀天皇もこの地を晩年の御所としていた場所です。

現在の平等院の地は、源氏物語のモデルとなった源融(みなもとのとおる・嵯峨天皇の皇子)の宇治院があった場所とされています。この地は999年に藤原時代の栄華を築いた藤原道長が手に入れ、息子の頼通によって平等院が建てられたのです(ちなみに源融はこの地の他に現在の嵯峨清凉寺付近と渉成園付近にも邸宅を構えていたそうです)。頼道がこの地にこだわったのは、近郊の小幡(こはた)の地が藤原一門の埋葬地だったことに関係しているとも伝えられています。

創建当時は金堂、講堂、五重塔など多数の建築が立ち並ぶ大寺院でした。しかし、この辺りは交通の要衝だったため京都の南の防衛線でもあり、合戦や戦火が絶えない場所でした。そのため往時を忍ばせるものは、鳳凰堂と正面の灯籠、前庭の阿字池(あじのいけ)しか残っていません。

鳳凰堂(阿弥陀堂)には阿弥陀如来像が祀られていて、当時最高の腕をもつ仏師定朝(じょうちょう)の作です。日本の彫刻、仏師の歴史はこの人から始まるといっても過言ではありません。

阿弥陀如来像は極楽浄土の主人で亡くなった人の魂を救いとるとされている仏様です。その姿は亡くなった人をこの世に迎えに来た来迎の瞬間を表しています。

内部の壁の側面には阿弥陀如来像に寄り添うように52体の雲中供養菩薩の木像が舞っています。現在は何体かが残され、それ以外は隣接する鳳翔館という展示館でも見ることが出来ます。雲の上に乗る菩薩様の彫刻は一体ずつ違う楽器を演奏している姿をかたどっています。何体かは舞踊を踊っている姿です。これらの菩薩像は阿弥陀像と一緒に臨終を迎えた人のすぐ側に来迎し極楽の世が華やかで楽しい場所だということを表現しています。阿弥陀様はすでにこのころから救いを求める人達の思いを深く受け止めてきたのです。

堂内の天井には、螺鈿と銀箔を張った円鏡が施されています。本尊は東向きに建てられています。そのため正面の扉を開くと、池の水に反射した朝日の光が堂内天井の円鏡に集められるように設計されています。そしてその光が本尊をスポットライトのように照らす計らいが施されています。

宇治川を挟んで向かい側の仏徳山の麓には世界文化遺産で国宝の宇治神社宇治上神社が鎮座しています。当時は平等院阿弥陀堂から宇治上神社の正面を拝むことが出来たようです。

6月には平等院から見て仏徳山に夏至の日の太陽が昇ります。一年で最も勢いのある夏至の太陽の光が日の出の瞬間に、堂内の阿弥陀如来像を黄金色に浮かび上がらせるよう計算されて建てられています。

また、平等院から見て、冬至の日の日没の方角には平等院の鎮守社である県(あがた)神社が位置しています。このように昔の重要な建築物は太陽や月などの通り道などを意識して設計されているものが少なくありません。日の差し方や太陽の通り道などで農耕作業の開始や収穫の目途などが分かるようにしていたのです。

昔の人は物もなく便利な世の中ではなかったのでものすごく頭を使っていたことがよく分かります。歴史を勉強していると昔の人の知恵がいかに豊かだったかということにとても驚かされます。

近年、阿弥陀堂内の修復中に創建当時に工事をした人達の落書きが多数見つかったそうです。その絵はどれも庶民の訴えが描かれたものだったようです。大通りを泣きながら裸足で走る庶民の姿や苦痛にあえぐ貧民の顔などが多数描かれていたと言います。貴族の華やかな生活の陰で大飢饉と疫病に苦しみながら強制的に奉仕させられていた名もなき庶民の訴えが描かれているのです。

我々の学ぶ歴史は為政者、権力者が時代をリードしていくという視点によって伝えられています。平安時代、ひたすら自らの極楽往生を祈っていた貴族たちはこのような下層庶民たちを顧みることはなかったのでしょう。

きらびやかな平等院鳳凰堂は日本が誇る国宝であり世界遺産にも指定され世界的にも有名な場所です。10円玉にも描かれていて我々日本人ならその存在を知らない人はいないでしょう。この豪華で贅沢な平等院を拝観する際には忘れず思い出してください。それは、飢えや病に苦しみ、造営中に石や木の下敷きとなって死んでいった多くの下層庶民の血と汗の結晶だということを。無名で歴史に名が刻まれていない大勢の人達の行動や思いもまた我々が大切にしなければいけないものだと思います。そのことは我々が名もなき先人たちに捧げられる唯一の供養だと思います。

いかがでしたか? 京都は日本人の知識と教養の宝庫です。これからもそのほんの一部でも皆さまにお伝え出来ればと思っています。

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出典元:まぐまぐニュース!

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