誰の墓なのか不明な古墳を「天皇陵」に指定する、宮内庁の石頭ぶり

まぐまぐニュース! / 2016年7月9日 1時0分

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河野太郎行政改革担当大臣が、宮内庁により「仁徳天皇陵」と指定される大仙陵古墳を視察し、「天皇陵の指定を再考すべき」と発言したことがニュースになりました。太田茶臼山古墳を代表に、歴史家や専門家が「天皇陵ではない」と断定しているにも関わらず、宮内庁はなかなかそれを改めようとしないことは有名です。無料メルマガ『古代史探求レポート』では、宮内庁の姿勢を「死者への冒涜」と苦言を呈し、古代日本人にとって古墳とは何だったのかを説明し、正しい認識をもつことの重要性を説いています。

正確な調査もせず「天皇陵」を指定する、宮内庁の奇妙なご対応

●学説と異なる天皇陵「指定再考を」(毎日新聞 7月1日)

河野太郎行政改革担当相は30日、堺市堺区の大仙陵古墳(仁徳天皇陵)を視察した。その際、継体天皇陵を例に、「天皇陵と言われているものに間違いがあってはいけない」と述べ、歴史学や考古学の定説と異なる陵墓については、指定を改める必要があるとの考えを示した。

河野氏は観光資源として価値のある国の施設の開放を進めており、視察はその一環。宮内庁は太田茶臼山古墳(大阪府茨木市)を継体天皇陵と指定しているが、学説上、継体天皇陵として有力なのは、大阪府高槻市の今城塚古墳とされる。

河野氏は視察後の取材に「天皇陛下が参拝される場所が間違っているというのは、大変失礼なことになる」と述べ、「専門家から見て時代が合わないところは、宮内庁も謙虚に耳を傾けていかなければならない」と指摘。同行した宮内庁陵墓課の担当官は「現在の陵墓の治定(指定)をしっかり守るのが基本。100%の証拠があれば変更するが、学説や時代によって陵墓の治定が変わるのは望ましくない」と反論した。

古墳の治定(じじょう)の問題が久し振りに取り上げられました。古墳の埋葬者の問題は、いつも多くの議論を呼び、実際、8割方の古墳の治定が間違っているとも言われています。以前にも、このテーマで古代史探求レポートをお届けしたことがあったと思います。

今回の口火は河野太郎行政改革担当大臣でした。この人のお父さんは、本当によくできた人でした。私の世代の人にとっては、新自由クラブの党首であって、衆議院議長を務めた河野洋平氏でした。その人の子供ですから期待感は大きくなるのですが、いつもちょっとピントが外れているように思います。

天皇陵の治定の問題は、行政改革とは関係ないと思いますが、よりによって仁徳天皇陵を視察する理由がわかりません。加えて「天皇陛下が参拝される場所が間違っている」から問題なのではなくて、埋葬者と違う人の墓を別の人の墓としていることが問題なのです。私は、死者への冒涜(ぼうとく)だと思っています。許されるべきことではないですよね。それが自分の親族の墓だと考えたら、絶対に許せないことです。しかし、それが平然と行われているのが現実なのです。

そもそも、治定(じじょう)とは、決定するとか意見が収斂(しゅうれん)されてその内容で落ち着く事を言う言葉です。宮内庁陵墓課による「学説や時代によって陵墓の治定が変わるのは望ましくない」という日本語の使い方もおかしいです。意見が割れているということは、治定していないということなのですから、候補として言うならともかく、XXXX陵と言ってしまうのはおかしいのです。

最近は、その呼称も変えることになったようで、頭に「伝」をつけて呼ぶのが正しいようです。伝)仁徳天皇陵です。これはある意味最もなことで、例え、本当は仁徳天皇の墓ではなかったとしても、そのように長い間伝わってきたのは事実ですからそれで良いのではないかと思います。

大切なのは陵墓を決める前に、事実を整理することが大切であって、日本書紀、古事記に書かれていることのみを頼りに、その場所にある墓を決めていくのではなく、キチンとした調査を行い、いつ頃作られた墓なのかを明確にし、埋葬者を特定し、尊敬と安寧の気持ちを込めて祈りを捧げることが大切なのだと思います。「墓を暴くのは、死者の冒涜だ」と反論した人がいましたが、「墓を暴く」のではなく「調べる」のです。

他人を、それも天皇陵に指定される程、大きな陵墓であるわけですから、その時代に政権を争ったライバルであったかもしれませんし、敵であった可能性も大きいわけです。そういう埋葬者に向かって、古代の日本の一時期を治めた天皇として手をあわせるというのは、本当に失礼な話だと思います。まずは、その天皇が実在したのかどうかということを、もう少し精査するべきなのです。いつまでも、藤原不比等の架空小説を、これこそ日本の歴史であると言い続けていることこそやめるべきなのではないかと思います。

古墳は、ご存知のように盛り土をし、小山のようになった墓を指します。3世紀頃作られ始め、約400年間に渡り作られ続けました。全国に40万基とも、80万基とも言われる数の古墳があると言われています。

出現の仕方から、特殊な一族が北九州や奈良の纒向地方に移り住み、そこで始めた墓の作り方が、稲作集団の長のための墓の作り方として広まるとともに、ヤマト政権の拡大とともにその形が模倣され広まったと考えられます。

では、なぜ、そのような墓を作ることになったのでしょうか。私は、当時の日本人が持っていた死生観というものに大きく関わっていると考えています。では、古代の人々はどのような死生観を持っていたのでしょうか。

魏志倭人伝には、「喪主は泣き叫び、他人は歌舞・飲酒する」と書かれています。私は、この表現にどうしても天の岩戸の神話の光景が重なるのです。天照大御神を隠れた岩屋から呼び出す光景です。そこには、現実の世界に呼び戻そうとする意図があるのではないかと思うのです。これは、現代の通夜にもつながるものと思います。通夜とは、夜通し泣き叫び、もしくは、歌舞飲酒することから付けられた名称だと思います。

実際、古代においては仮死状態にあった人間が蘇るということがあったのかもしれません。死の定義も、現代とは大きく違っていたでしょうから、呼び起こすという行為が行われていたのかもしれません。

また、「埋葬が終わると、一家をあげて水中に詣り、体を洗い、練沐のようにする」とも記載されています。つまり、「禊(みそぎ)」をした記録が残されているわけです。やはり、死者には「穢れ」があると思われていたのだと考えます。穢れを落とさないと、自分も同様に死に至ると考えたのかもしれません。伝染病を伝染病だと認識できなければ、死者の穢れが病気にすると考えたのも理解できるのです。

これらは、邪馬台国の時代の日本の記述です。ちょうど、古墳が作られ始めた頃の日本なのです。呼び起し続け、もう戻ってこないという確認は、肉体の腐敗により断定したのかもしれません。だとするなら、その後は穢れを閉じ込める必要があったのだと思います。伝染病を予防するには、隔離するしかありません。死者を焼くという習慣がなかったとするなら、死体を遠くに離して埋葬するしかないわけです。それが小山を作る行為に結びついたのではないかとも思うのです。

その後、死者への扱いはどのように変わったのでしょうか。魏志倭人伝に比べ、あまり知られていないのですが、「隋書倭国伝」にも当時の日本の風習が記載されています。そこには、「殯(もがり)」が実施されたと書かれています。もがりとは、死者の遺体を直ぐには埋葬せずに、しばらくの間安置しておくことを言います。しばらくと言っても、「貴人は3年」と記載されています。3年もの間、埋葬せずに部屋に放置したのです。

放置したという言い方は、正しくないかもしれません。遊部と呼ばれた死体を処理する職業人達が存在していたのです。

それでも、3年もの間放置すると、遺体は腐敗を通り越し、白骨化していると考えられます。つまり、もう二度と復活できないと確信が持てるまで、放置されていたことになります。ただ、その確認だけのためだとするなら長すぎます。やはり、その期間を利用して大きな墓である古墳を築造したのだと思います。その頃は、大きさが生前の権威の大きさを表すようになっていたからです。

日本書紀によると、ちょうど隋書倭国伝に記された頃の日本の天皇であった、敏達天皇の殯(もがり)は、5年8ヶ月もの期間であったと記載されています。その期間に、大きな古墳を築いたのではないかと言われていますが、それだけではないようです。

敏達天皇のもがりは、歴代天皇の中で一番長いものですが、なぜこのように長くなったかというと、そこには政治的な争いがあったからだと考えられます。

この時代には、「しのびごと」と言われる、今でいう弔辞を述べる儀式が持たれたことが書かれています。日本書紀には、この時、蘇我馬子と物部守屋が罵りあった様子が記録されています。もがりの期間の中で次の天皇を決めたらしく、その期間が延びるということは、なかなか次の天皇が決まらなかったことを意味しています。

敏達天皇の時には、候補の一人であった穴穂部皇子が、なんとかして天皇になりたいと思い、もがりの宮で喪に服している敏達天皇の皇后であった炊屋姫(かしきやひめ)を犯そうとします。どうやら、もがりの宮に入ることこそ、次の天皇になることを意味したようです。それを阻止したのが、蘇我馬子です。

大きな古墳を増築するために時間を費やすことが、政治的な不安定期間を作り出すということを理解したのでしょうか。もちろん、唐の制度を真似たと言えばそれまでですが、敏達天皇でヤマト政権の墓の形であった前方後円墳は終了し、この後、古墳は小さくなっていくのです。推古天皇の時には、薄葬令が出されたことになっていますが、これは大宝律令が最初ではないかと思います。それ以上に、仏教の影響が強かったのではないかと考えるのです。

仏教が教える死後の世界や、輪廻転生が、大きな古墳に埋葬することに意味がないことを気付かせてくれたのではないかと思うのです。それだけでなく、合理的な考え方が定着し出した影響があるのではないかとも思います。死者のための大工事をするくらいなら、生存者のための都や道路を作ろうという発想が強くなったのかもしれません。人々は藤原京の造営に夢中になったのです。

古墳というものに込められた各時代の為政者の想いを、適切に汲み取ってやることが残された古墳を眺める私達の務めであると思います。そのためにも、やはり誤った治定の元で埋葬者を理解しようというのは、根本的に間違っています。歴史を正しく認識することなく、国の発展も、真の平和も訪れてはこないと思います。

古墳の治定と、河内王朝の存在については、「隠された系図」の中でも一つの説を紹介させていただいています。興味がある方は、ぜひ一度読んでみてください。

宮内庁によると、現在治定されている古墳は、100パーセント間違いでない限りは修正しないそうですが、一度、文部科学省と宮内庁で議論していただきたい内容です。教科書で否定したものに対して、墓が存在し国の予算でそれを保護するのはおかしくはないのでしょうか。宮内庁には、そもそも、古墳とは誰のためのものかを考えていただきたいと思うのです。

image by:Wikimedia Commons

 

『古代史探求レポート』

著者/歴史探求社

どのような場所にも、そして誰にでも歴史は存在します。その場所は、悠久の昔より地球上に存在して多くの人々が生活し行き交った場所です。また、皆さんは人類が始まってから、延々と受継がれて来た遺伝子を継承している一人なのです。歴史探求社は、それぞれの地にどのような歴史があったのか。また、私達のルーツにはどのような人々が存在し、どのような行動をおこしたのかを探求し、それを紹介する会社です。もっとも、効果的と思われる方法を用いて、皆様に歴史の面白さをお届けします。「まぐまぐ」を通じて、メールマガジン「古代史探究レポート」を発行、購読は無料です。大きな歴史発掘報道や、企画展情報、シンポジウム等の情報を提供しています。

出典元:まぐまぐニュース!

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