駄菓子「都こんぶ」の元ネタは倉庫でかじった切れ端だった?

まぐまぐニュース! / 2017年7月30日 19時23分

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どこか懐かしい食べ物を愛情込めて紹介する無料メルマガ『郷愁の食物誌』では今回、著者のUNCLE TELLさんが、酢こんぶ菓子で圧倒的なシェアを誇る「都こんぶ」のサクセスストーリーを紹介しています。なぜ創業者は「都こんぶ」を思いついたのか、このネーミングにはどんな想いが詰まっているのか、興味深いエピソードが満載ですよ。

都こんぶ物語

今回は、酢こんぶと言えば、誰しも思い浮かべる「都こんぶの歴史秘話を、作っている会社・中野物産株式会社のホームページから要約、多少アレンジしてお届けしよう。サクセスストリーだが、なかなか興味深い。

キヨスクなどで売っていて、酢こんぶと言えば、誰しも思い浮かべる「都こんぶ」。

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1912年(明治45年・大正元年)に京都で生まれたという中野物産の創始者、中野正一氏によって考案され、世に出た。中野正一氏は、小学校を出てすぐに大阪府堺市のある昆布問屋へ丁稚として奉公。日々の厳しい生活と商売の中で、倉庫の中にある売りものにならない昆布の切れ端をおやつの代わりとして食べながら、「こんな切れ端のこんぶも、味付けしたらお菓子になるのではなかろうか? もしかしたら売れるのではなかろうか」と頭を巡らしていた。

根っからの創意工夫と商才のある中野正一氏は1931年(昭和6年 )19歳で晴れて独立。堺に中野商店を創業、かねてから温めていたアイデアの昆布を原料としたお菓子を開発。それは今の「都こんぶ」の原型の黒蜜の入った酢漬けの昆布。そしてこの昆布を原料にしたお菓子に自分の望郷の思いを込めて都こんぶ」』とネーミング。

中野商店は生まれたばかりの「都こんぶ」を販売するために、まず駄菓子の販路に目をつけた。当時は子供相手の駄菓子屋が中心であったから、菓子問屋の立ち並ぶ大阪は天王寺や松屋町へ売り込みを開始、さらに中野正一氏は子供たちの娯楽の中心であった人気の紙芝居屋にも目をつけ、強力に売り込みを行った。このことで、少しづつではあるが「都こんぶ」の名前は全国に広まっていった。

だが「もっと人の集まるとこに行かねばならん」そう考えた中野氏の思いついた場所は映画館や演芸場。「都こんぶ」は、いままでの子供相手の商品としての需要だけではなく、大人にも充分受け入れられる菓子であることを確信した中野氏の次に思いついた販売場所は鉄道であった。

「日本全国に広がる国鉄の駅には売店がある。小さい「こんぶ」だったらきっと置いてもらえるに違いない」と考えた中野氏。こうしてサラリーマンのポケットにも女性のハンドバックにも入り、しかも手のひらにすっぽりおさまるサイズを基本に、現在の原型となる小さな縦型の紙箱に目立つ赤い色に桜の花びらと都の文字の「都こんぶ」が誕生。

鉄道弘済会(現在のキオスク)での販売が加わり知名度が全国に浸透していった「都こんぶ」を、どこにでも置いてあるお菓子にしたい。その思いを強力に後押しするために、当時では珍しかったテレビCMやラジオ放送も積極的に活用。CMには当時のお茶の間で人気があった落語家の林家三平氏(1980年に故人)や、知名度の高い知性派女性タレントのイーデス・ハンソンさんを起用、テーマソングを用いたCMによる広告宣伝活動を行った。

大阪市内の南北の交通手段の要である大阪地下鉄御堂筋線の各駅(新大阪~西田辺)の改札口への広告、大阪ナンバ駅前のネオンサインなど工夫してを実施。大阪万国博覧会前後という当時最大のイベントと絡み合ったこともあり、「都こんぶ」は知名度は更に上がった。

これら宣伝活動の効果もあり、水産庁長賞(昭和40年)・第17回全国菓子大博覧会大臣賞(昭和43年)を受賞し、昆布菓子では不動の地位を占めることに…。1997年(平成9年)に完成した大阪府貝塚市にある二色浜工場では「都こんぶ」「おしゃぶり昆布」シリーズが、約100人のスタッフの手によって、昔ながらの方法で手作りを基本に、両シリーズでニーズに合わせた30数種類が製造されている。

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出典元:まぐまぐニュース!

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