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ジブリ「後継者育成の失敗」には長い歴史があった 押井守、片渕須直の「監督作品」も幻に?

マグミクス / 2023年11月4日 6時10分

ジブリ「後継者育成の失敗」には長い歴史があった 押井守、片渕須直の「監督作品」も幻に?

■早くから若手育成に力を入れるも、宮崎監督主体の路線にシフト

 去る2023年9月、スタジオジブリが日本テレビの子会社になることが発表されました。子会社後、宮﨑駿監督はスタジオジブリの取締役名誉会長に、鈴木敏夫氏は代表取締役議長に就任。代表取締役社長は、日本テレビの上席執行役員である福田博之氏が就きました。

 子会社化の背景には、スタジオジブリの「後継者養成」の失敗があると、鈴木敏夫氏は語っています。特にクリエイティブな面で「ことごとく失敗に終わった。宮崎に続く有望な監督を見つける、育成するその困難さを知った」と。

 それではスタジオジブリは、これまで如何に宮崎駿監督の後継者を育成しようとしてきたのでしょうか。

 ご存知の方も多いと思いますが、スタジオジブリは宮崎駿監督の映画『風の谷のナウシカ』の成功を受けて、宮崎駿監督と同作でプロデューサーを務めた高畑勲監督の作品を作るための拠点として設立されたアニメスタジオです。

 しかし実はスタジオジブリは宮崎駿監督や高畑勲監督に続く、第3の監督をかなり早い時期から探していたのです。宮崎駿監督と親交の深い押井守監督は、鈴木敏夫氏から『アンカー』という作品の監督を依頼されています。時期は1985年の『天使のたまご』の後ということですから、1986年くらいでしょうか。

 同作では宮崎駿監督と高畑勲監督の両名がプロデュースを担当する予定でしたが、制作前のブレスト中に意見が合わずに企画は中止となりました。その後も酒見賢一さんの小説を原作とした『墨攻』の監督を、スタジオジブリから打診されますが、こちらも企画段階で頓挫したそうです。

 当時のアニメスタジオは、作品ごとにスタッフを収集・解散する方式が主だったためか、後継者の育成というよりも、信頼して監督業を任せられる外部スタッフを確保しようという意図が強かったのかもしれません。

 そうした意図が強く感じられる作品が、1989年に発表された映画『魔女の宅急便』です完成した同作では、宮崎駿氏が監督・脚本・絵コンテを担当していますが、当初の企画では監督と脚本は別の人物、それも新進気鋭の外部スタッフが担当する予定でした。

 もともと『魔女の宅急便』はスタジオジブリ発の企画ではなく、原作者と出版社から映画化権を取得した別の企画・制作会社から、電通を通じて持ち込まれたものでした。その時点でヤマト運輸とのタイアップは確定しており、企画側は監督に高畑勲氏を希望していたものの、『火垂るの墓』を制作中なこともあり、宮崎駿氏がプロデューサーとして立ち、現場は若手の監督に任せるという方向で企画は進行していきます。

 その際、宮崎駿氏が同作の監督に抜擢したのが、かつて『名探偵ホームズ』の脚本も手掛け、後に『この世界の片隅に』を監督する片渕須直氏でした。スタジオジブリの音響監督を数多く担当した斯波重治氏が推薦したと言われています。

 また脚本はアニメ『宇宙船サジタリウス』や映画『私をスキーに連れてって』などの話題作を担当した一色伸幸氏に依頼しました。しかし一色氏が提出した第一稿を、宮崎駿氏はその面白さは認めつつも想定していた作品像と違うと却下。自身で脚本を書く決意を固めます。

 一方の片渕氏も角野栄子さんの原作小説をもとにプロットを作成、メインキャラクターのデザインや美術設定の作成が進んだ時点で監督を降板。後に片渕氏は、当時を振り返った自身のコラムの中で、制作の可否を決める立場の企業から「当方としては『宮崎駿監督作品』としてのもの以外に出資するつもりはない」と告げられた、と記しています。以降、片渕氏は演出補として作品を支えることになります。

■「ヒットの方程式」と「監督の育成問題」が続くことに?

スタジオジブリ若手制作集団」が手掛け、1993年に公開された『海がきこえる』 (C)1993 氷室冴子・Studio Ghibli・N

 当初の目的であった若手監督起用は潰(つい)えたものの、日本テレビの製作参加による大量告知、企業とのタイアップ広告などの成果もあり、本作は『風の谷のナウシカ』以降、興行成績が低下していたスタジオジブリにとって、『魔女の宅急便』は久々のヒット作となりました。後にスタジオジブリが定石とする宮崎駿監督主体の制作、宣伝・告知の大型化などの手法は、本作が礎となっていると言っていいでしょう。

 後にスタジオジブリにもたらされる陽と陰、ヒットの方程式と若手監督の育成問題は、『魔女の宅急便』の制作に起因しているのかもしれません。

 また、スタッフの疲弊を考えると、ひとつのスタジオで制作できるのは3作品が限界、を持論とする宮崎氏は『魔女の宅急便』の制作後、スタジオジブリの解散も考えていました。

 しかし鈴木敏夫氏との話し合いの末、スタッフの社員化および固定給制度の導入、新人の定期採用とその育成を掲げて、スタジオジブリは継続することになります。

 スタッフの社員化は、当然固定費の高騰に直結し、制作費の増大を招きます。それを覚悟しての後継者育成案でした。そしてその際、入社したジブリ研修生の第1期生と第2期生は、1993年に日本テレビで放送されたテレビスペシャル『海がきこえる』で、その才能を開花させるのです。

(倉田雅弘)

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