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「ジブリ作品=宮崎アニメ」のイメージはいつできた? 『海がきこえる』と『耳すま』に転機が

マグミクス / 2023年12月24日 21時50分

「ジブリ作品=宮崎アニメ」のイメージはいつできた? 『海がきこえる』と『耳すま』に転機が

■「宮崎駿氏に続く監督を見つけること」は困難と認めた

 2023年は、スタジオジブリについてひときわ大きな注目が集まった年でした。事前の宣伝活動をほとんど行わないまま公開された宮崎駿監督作品『君たちはどう生きるか』の大ヒット、そして「日本テレビの子会社化」の発表は、多くの人が驚き、関心を寄せたのではないでしょうか。

 スタジオジブリの代表取締役議長・鈴木敏夫氏は、日本テレビの子会社化発表の記者会見の席で、クリエイティブ面での後継者育成は「ことごとく失敗に終わった。宮崎に続く有望な監督を見つける、育成するその困難さを知った」と語りました。

 ここで注目したいのは「宮崎に続く有望な監督」という文言です。確かに、スタジオジブリは高畑勲監督を筆頭に、ほかの監督の作品も数多く手掛けているにもかかわらず、スタジオジブリ作品=宮崎アニメのイメージが強いです。クリエイティブ面での後継者と言われれば、多くの人が「宮崎アニメ」的な作品を作る人を思い浮かべるのではないでしょうか。

厳しい言い方をすれば、それはスタジオジブリが「宮崎アニメ」以外のブランドを商業的に確立できなかったという証左でもあります。 それでは、こうした「スタジオジブリ作品=宮崎アニメ」という認識はどのようにして築かれていったのでしょうか。

 スタジオジブリは宮崎駿氏と高畑勲氏の映画制作の拠点として設立されましたが、かなり早い段階からふたりと並ぶ第三の監督探しと、その前準備としての若手育成に臨んでいました。

 片渕須直氏を監督に、一色伸幸氏を脚本に招き、若手を中心にして制作する予定だった1989年の映画『魔女の宅急便』は、宮崎駿氏自らが監督・脚本・絵コンテを担当し、結果として当時人気が下降気味だったスタジオジブリにとって起死回生のヒット作となっています(そのことは過去記事「ジブリ「後継者育成の失敗」には長い歴史があった 押井守、片渕須直の「監督作品」も幻に?」で書きました)。

 しかし、若手育成への試みがそこで絶えたわけではなく、同作の完成後、スタジオジブリはスタッフの社員化と固定給制度の導入、そして新人の定期採用とその育成に乗り出します。

■若手制作集団が作り上げた『海がきこえる』 ジブリとしては異質な作品に

「スタジオジブリ若手制作集団」とクレジットされたクリエイターが中心となって制作した『海がきこえる』ポスタービジュアル (C)1993 氷室冴子・Studio Ghibli・N

 そして雑誌「アニメージュ」1989年9月号には、宮崎駿氏による「スタジオジブリ新人アニメーター募集おしらせ」が掲載されました。アニメーターと演出助手の志願者を募集するもので、研修期間は1年間です。

 この募集で、後に『かぐや姫の物語』などで作画監督を務める小西賢一氏や、『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』の作画監督の安藤雅司氏ほか、『交響詩篇エウレカセブン』『ガンダム Gのレコンギスタ』のキャラクターデザインの吉田健一氏、『鋼の錬金術師 嘆きの丘の聖なる星』『翠星のガルガンティア』の監督を務める村田和也氏ら、そうそうたる人員を含む16人が採用されています。

 そして、このスタジオジブリ新人アニメーターたちが実力を発揮する場となったのが、1993年に日本テレビで放送されたテレビスペシャル『海がきこえる』でした。

 1992年春、『紅の豚』に続く長編企画として、宮崎駿氏と鈴木敏夫氏は、自分たちが極力関与しない若手を主体とした作品制作を立案します。その原作として選ばれたのが「アニメージュ」に連載していた氷室冴子氏による小説『海がきこえる』だったのです。

 監督はかねてより氷室作品のアニメ化を希望していた亜細亜堂の望月智充氏。キャラクターデザインと作画監督はかつてスタジオジブリに所属していた近藤勝也氏。脚本は「アニメージュ」編集部に所属していた中村香氏(現:丹羽圭子氏)と、基盤となるスタッフこそ外部から招きましたが、それを取りまとめるのは、本作が初プロデュースとなったスタジオジブリ所属の高橋望氏です。

 プロデュースについても若手の自主性に任せたいと考えた鈴木敏夫氏は、前述のスタッフの推薦こそしたものの、打診や交渉、それ以降の実作業は高橋望氏に一任したそうです。

 ジブリ初となる宮崎駿氏も高畑勲氏が関わらない作品を任された高橋望プロデューサーは、企画書内で本作の特徴のひとつとして「スタジオジブリ若手制作集団」という新ブランドの設定と、その制作体制を挙げています(ちなみに、この「スタジオジブリ若手制作集団」の命名者は宮崎駿氏)。

 その中で「スタジオジブリ若手制作集団」を設立した目的として、募集から3年間かけて養成してきた新人アニメーターたちに作画の中心を担わせ、作品としての完成度よりも、若手ならではのパワーと思いを前面に押し出した作品の制作を目指すと記してあります。

 テレビスペシャルとしての制作が決まっており、劇場作品ほどの予算もスケジュールも見込めない前提があったとはいえ、これまで完成度を重視してきたスタジオジブリとしては、異色のコンセプトです。

 実際、前述のスタジオジブリ新人アニメーター陣の1992年当時の年齢は、本作で演出助手を務めた村田和也氏が20代末。制作中に原画から作画監督補佐に抜擢された安藤雅司氏、吉田健一氏、小西賢一氏は20代半ば。また同募集での入社ではありませんが、スタジオジブリ所属で準備段階から参加した美術監督の田中直哉氏も20代末でした。

 またキャラクターデザイン・作画監督の近藤勝也氏が20代末、望月智充監督にしても30代半ばと宮崎駿氏、高畑勲氏らの作品に比べれば、大幅に若手ぞろいのスタッフィングです。

 望月智充監督の意向もあり、本作では、彼ら若手スタッフが役職の垣根を超えてアイデアを出し合い、それらの意見は内容に色濃く反映されたそうです。

 そうして若手スタッフが力を集結させて、青春時代の繊細な心の動きを、より現実的に、より同時代性を打ち出して映像化した『海がきこえる』は、スタジオジブリ作品としては異質な仕上がりとなりました。 スタジオジブリの関係者からは、主人公たちの性格が脆弱すぎるとの批判の声があがったとも伝えられています。

 実際、未成年者の飲酒・喫煙シーンなども含むリアルな描写の文芸路線である本作は、普遍的で寓話性に富んだ宮崎アニメとは対照的といえるでしょう。

■『耳をすませば』で宮崎駿監督と大喧嘩?

「スタジオジブリ若手制作集団」が主体的にアイデアを出し合って作り上げた『海がきこえる』は、ジブリ作品のなかでは異質の仕上がりに (C)1993 氷室冴子・Studio Ghibli・N

 しかし、だからこそ今となっては、あったかもしれないリアルで同時代性を持った「スタジオジブリ作品」という方向性の萌芽を、本作に見出すことができます。

 1993年5月5日の初放送時『海がきこえる』は、17.4パーセントの好視聴率を記録しました。ですが当初1億2000万円の予定だった製作費は、2倍強の2億5000万円にまで膨らみ、テレビアニメではその回収が困難だったこともあり、「スタジオジブリ若手制作集団」のブランドは本作で潰(つい)えてしまいました。

 同時に、スタジオジブリが元請となってのテレビスペシャルやテレビシリーズ作品の制作も2020年の宮崎吾朗監督作品『アーヤと魔女』まで途絶えることになります。

 先の記者会見で鈴木敏夫氏は、新人育成に重要なのはテレビシリーズだとも発言しています。本作を契機に、テレビスペシャルやテレビシリーズへの進出がなされていれば、と考えると、内容面においても人材養成の観点からも『海がきこえる』が秘めていた可能性は、まことに惜しむものがあります。

 そして宮崎駿氏も高畑勲氏も冠しなかった『海がきこえる』は、皮肉にもスタジオジブリ作品=宮崎アニメのイメージ確立の遠因にもなります。

その布石となったのが、1995年の公開の近藤喜文監督作品『耳をすませば』です。 『ジブリの教科書9 耳をすませば』によれば、宮崎駿氏が同作の企画を提出したのは『海がきこえる』放送から半年後の1993年11月です。

 これまで自分と高畑勲氏が交互に担ってきた劇場用作品の制作ローテーションに加わる新監督として、かねてより仕事をともにしてきた名アニメーターの近藤喜文氏を抜擢します。
 以前より、近藤氏が話していた「少年少女のさわやかな出会いの作品を作りたい」との願いを受けての監督登用でした。

 当初、宮崎駿氏は『耳をすませば』を「佳作小品シリーズ第一作」と称し、企画段階では上映時間も90分目途で、上映館数もこれまでのスタジオジブリ作品より絞った数を想定していました。

 これは、これまでの完成度を重視した大作志向で疲弊した現場を整えるためでしたが、小規模での制作を目標とするコンセプトは、頓挫した「スタジオジブリ若手制作集団」と通じるものがあります。

 実際、『耳をすませば』の企画の際、宮崎駿氏が『海がきこえる』を意識していたのは確かでしょう。前述の『ジブリの教科書9 耳をすませば』には、企画を固めるにあたり、宮崎駿氏は『海がきこえる』の淡々とした恋愛描写について「やらなくてはいけないのは、恋愛を通じて、人生は生きるに値する素晴らしいものだという肯定的なメッセージを送ることだろう」と不満を漏らしたと記されています。

 同時に、Blu-ray『海がきこえる』の特典映像での鈴木敏夫氏によれば、宮崎駿氏は自分では決して作ることのできないその内容に嫉妬を感じていた、とも。

 企画当時の規模感、思春期における男女の出会いと相似する点も多い『耳をすませば』と『海がきこえる』ですが、両作の大きな違いは、その制作システムにあります。前述の通り『海がきこえる』は、宮崎駿氏と高畑勲氏が関与しない初のスタジオジブリ作品で、「スタジオジブリ若手制作集団」を主軸に若手スタッフがアイデアを出し合って作るシステムでした。

『耳をすませば』では、近藤喜文氏が監督未経験なこともあり、宮崎駿氏が製作プロデューサー・脚本・絵コンテを担当することになります。

 鈴木敏夫氏は、こうした制作システムの変化について、これまでが宮崎駿氏や高畑勲氏の創造力に依存した監督中心主義であったとすれば、『耳をすませば』のそれはプロデューサー側で企画やシナリオ、絵コンテを用意して、監督に渡す企画中心主義の制作システムだ、と語っています。

 もちろん、宮崎駿氏の絵コンテも、監督である近藤喜文氏の希望や意図を十分にくみ取った上でのものですが、これにより近藤喜文監督の実作業は、動画の調整によりキャラクターにどんな芝居をさせるか、という演技面の充実にあてられることになりました。

 しかし絵コンテ完成後も、制作を完全に近藤喜文監督に託したわけではなかったようで、主人公の月島雫に絵コンテと異なる芝居をさせた際、宮崎駿氏が「違う」と怒り、作中劇『バロンのくれた物語』のシーンは自分が演出すると言い出します。

 象徴的なのは、主題歌『カントリーロード』の訳詞をめぐるふたりの対立です。もともとは家出をして故郷を思う心情が前面に出ていた訳詞を、宮崎駿氏がそのニュアンスがぼやけるよう手を加えました。

 それに対して近藤喜文監督は、元の方がいいと反論し、ついには怒鳴り合いの喧嘩になったそうです。最終的には宮崎駿氏の案が採用されましたが、後に鈴木敏夫氏は近藤喜文監督から、実は自分自身が家出同然に故郷を出てアニメーターになった過去があり、いまでも元の訳詞のほうがいいと思っていると明かされ、「心を深くえぐられ」た、と『ジブリの教科書9 耳をすませば』の中で語っています。

 こうして宮崎駿プロデューサーのもと近藤喜文監督が作り上げた『耳をすませば』は、配給収入18億5000万円以上をあげる、1995年の邦画最大のヒット作となりました。

 同書では『耳をすませば』について、鈴木敏夫氏が「この作品は近藤喜文監督作品であると同時に、「宮崎アニメ」でもあります。宮さんが絵コンテで近ちゃんが監督をすれば、もうひとつの宮崎アニメを作れるということが分かってしまった」とも語っています。

 残念ながら近藤喜文氏は、1998年に47歳という若さで逝去されてしまい、同作が唯一の監督作品となりましたが、 『耳をすませば』で確立した企画主義作品の制作システムは、宮崎駿氏が企画や脚本、絵コンテに参加することで、宮崎駿監督以外の監督でも宮崎アニメを作れることを証明すると同時に、「スタジオジブリ作品=宮崎アニメ」のイメージを強化しました。

 スタジオジブリのもうひとりの雄、高畑勲氏も、同作公開時に雑誌コミックボックスに寄せた文章の中で「近藤監督指揮のもとに、こういう「宮崎アニメ」がちゃんとできあがったことへの感慨です。力量を見せた近藤監督以下のスタッフには大きな自信を、宮さんには大作以外に、ありあまる構想力をこういう形で活かす可能性を、それぞれ見つけたにちがいありません」と記しています。

 そして宮崎駿監督が次作『もののけ姫』と『千と千尋の神隠し』で、日本の歴代興業収入を立て続けに更新し、その地位を確固なものとしたことで、観客側にもスタジオジブリ作品に「宮崎アニメ」を求める思いが強まっていきます。

『海がきこえる』で「スタジオジブリ若手制作集団」が見せた宮崎・高畑路線とは異なるスタジオジブリ作品の可能性は、結果として『耳をすませば』での他監督による宮崎アニメ制作の成功の前に霞(かす)んでしまったと言えます。

【参考・引用文献】
『ジブリの教科書9 耳をすませば』スタジオジブリ 文春文庫編(株式会社文藝春秋)
『スタジオジブリ物語』鈴木敏夫責任編集(集英社)
『日本のアニメーションを築いた人々』叶精二(復刊ドットコム)
Blu-ray『海がきこえる』

(倉田雅弘)

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