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『千と千尋』の陰で… 庵野秀明監督と細田守監督の「ジブリ作品」が幻となったワケ

マグミクス / 2024年1月4日 21時40分

『千と千尋』の陰で… 庵野秀明監督と細田守監督の「ジブリ作品」が幻となったワケ

■庵野監督が「SFの戦艦もの」を手掛ける企画だった?

 2024年1月5日、「金曜ロードショー」で宮﨑駿監督作品『千と千尋の神隠し』が放送されます。2001年に公開された同作は『もののけ姫』に続いて日本の歴代興行収入第1位を更新し、第52回ベルリン国際映画祭で金熊賞を、第75回アカデミー賞ではアカデミー長編アニメ映画賞を受賞するなど、宮﨑駿監督の国民的映画監督の地位を不動のものとし、スタジオジブリのブランド力を確固たるものとした作品です。

 そんな『千と千尋』の制作の陰で企画が進行していながら、陽の目を見ることなく終わった「幻のスタジオジブリ作品」があったのをご存知でしょうか。

 当時スタジオジブリでは、『もののけ姫』が大ヒットした一方、宮崎駿監督と並ぶもう一人の雄、高畑勲監督の制作ペースが落ちていたこともあり、ふたり以外にスタッフを牽引できる若手演出家を探す気運が高まっていました。

 実際、その試みは2002年に森田宏幸監督作品『猫の恩返し』と、百瀬義行監督作品『ギブリーズ episode2』で結実します。しかし同時期にこの2作以外にも、気鋭の若手監督が起用される予定だったスタジオジブリ作品がふたつあります。

 ひとつは、庵野秀明監督が手掛ける予定だったSF特撮映画。もうひとつが今なおファンの間で話題になっている、細田守監督によるアニメ『ハウルの動く城』です。

「スタジオジブリが特撮映画」と聞くと奇妙に感じる人もいるかもしれませんが、2000年前後のスタジオジブリは、「三鷹の森ジブリ美術館」の建設をはじめ、国内外の映画の制作・配給協力などさまざまな分野の開拓、進出に挑戦していました。

 スタジオジブリに庵野秀明監督のSF特撮映画の企画が持ち込まれたのは、庵野監督にとって初の実写劇場作品『ラブ&ポップ』(1998年)を撮り終えた直後です。同作の製作を担当した甘木モリオ(当時、南里幸)プロデューサーからの申し出でした。

 その話に乗った鈴木敏夫プロデューサーが、スタジオジブリ内に準備室を設置。庵野秀明監督、樋口真嗣監督、甘木モリオプロデューサーに、当時スタジオジブリ所属だった高橋望プロデューサーと石井朋彦プロデューサーが参加して、毎週のように企画開発を重ねたといいます。

 この庵野秀明監督の作品は、前述の高橋望プロデューサーが小冊子「熱風」で語ったところによれば「SFの戦艦もの」だったそうです。

 庵野秀明監督の戦艦へのこだわりは有名で、『トップをねらえ!』のヱルトリウム、『ふしぎの海のナディア』のΝ-ノーチラス号、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」シリーズのAAAヴンダーなど自作への登場はもちろん、万能戦艦マイティ号の活躍を描いたテレビ特撮ドラマ『マイティジャック』『戦え! マイティジャック』の資料写真集で責任編集を務め、自社(カラー)から発行しようとしているほどです。

「熱風」記事内で高橋望プロデューサーが「いま思えば『シン・ゴジラ』にも通じるような内容」と語っていることを踏まえると、現代社会を舞台にしたシミュレーションタッチのアクション映画だったのでしょうか。

 しかし1年ほどの検討期間を経て、このSF特撮映画企画は頓挫してしまいました。2014年の東京国際映画祭での大型特集上映会「庵野秀明の世界」トークショーで庵野監督は「僕の力不足でそれを形にすることができなかった」と述べていますが、詳しい事情は不明です。

そして、その後継企画して制作されたのが庵野監督の2作目の実写映画『式日』です。『式日』は、スタジオジブリの別レーベル「スタジオカジノ」制作作品として、2000年に東京都写真美術館で公開されました。

■困難が続いた、細田守監督による『ハウルの動く城』

『ハウルの動く城』 細田守監督による(C)2004 Studio Ghibli・NDDMT

 もうひとつの幻の作品となったのが、細田守監督による『ハウルの動く城』です。『ハウルの動く城』は、2004年に宮崎駿監督作品として公開されますが、当初は若手演出家起用のために考えられた企画でした。

『千と千尋の神隠し』制作中の1999年、スタジオジブリは新作企画立案のため部署を新設しました。そこで宮崎駿監督がダイアナ・ウィン・ジョーンズさんの児童文学『魔法使いハウルと火の悪魔』を取り上げたのです。

 宮崎駿監督自身は『千と千尋』を制作中ということもあり、監督は当時劇場版『デジモンアドベンチャー』で注目されていた細田守監督に依頼したところ、東映アニメーションからの出向という形で参加が実現したのです。

 同時期に企画が進んでいた長編作品に前述の『猫の恩返し』があります。『猫の恩返し』は愛・地球博のイベント映像として企画され、宮崎駿監督と『耳をすませば』の原作者・柊あおいさんが構想したものでしたが、諸般の事情によりイベント映像からOVAに、そして劇場作品へと企画が変更していました。

 そこで宮崎駿監督は、映画『ホーホケキョ となりの山田くん』や、美術館の短編『コロの大さんぽ』に原画として参加していた森田宏幸監督を抜擢したのです。

 当初の予定では、2002年に森田宏幸監督の『猫の恩返し』と併映の百瀬義行監督の『ギブリーズ episode2』が、2003年に細田版『ハウル』が公開するはずでした。

『猫の恩返し』も『ハウル』も、企画こそ宮崎駿監督発ですが、その他の役職には参加しない形で、『海がきこえる』に続く「非・宮崎&高畑」のスタジオジブリ作品です。『猫の恩返し』はスタジオジブリ作品経験者である森田宏幸監督の初監督作品であり、『ハウル』は外部から呼び寄せてスタジオジブリ初参加となる細田守監督に託すという、それまで内製の色が強かったスタジオジブリとしては異例の体制で制作に臨んでいます。

 この時期のスタジオジブリが、いかにどん欲に若手アニメーターを育成し、若手演出家を発掘しようとしていたか、「スタジオジブリ=宮崎アニメ」のイメージから離れようとしていたかがうかがえます。

 プロデューサーには、『ハウル』は鈴木敏夫プロデューサーが、『猫の恩返し』は高橋望プロデューサーが、それぞれ担当していました。

 しかし2000年には細田版『ハウル』の制作に陰りが見え始めます。その理由について鈴木敏夫プロデューサーは、著書『天才の思考』のなかで、細田守監督が宮崎駿監督の助言を真面目に聞きすぎたことを挙げています。

 実はかつて細田守監督は、研修生採用試験を受けるほどスタジオジブリと宮崎駿監督のファンでした。

「宮さんは、企画を立てたら、あとは黙って見守るというタイプじゃありません(中略)しかも、言うことが毎日変わる(中略)それが一週間、一カ月と続くうち、彼はすっかり参ってしまった」

 ちなみに『猫の恩返し』の森田宏幸監督は、こうした宮崎駿監督の干渉を積極的に楽しみ、逆に質問攻めにして、最後は宮崎駿監督が逃げ回るようになったそうです。

 窮地に陥った現場の状況を打開するため鈴木敏夫プロデューサーは、『猫の恩返し』の高橋望プロデューサーに担当作の交換を申し出ます。すでに『猫の恩返し』はシナリオも完成し、メインプロダクションに入ろうとしている段階でしたが、細田守監督から直接の依頼もあり、高橋望プロデューサーは承諾しました。

■「ジブリ作品」を離れたあとに「快進撃」が

細田守監督がジブリ作品の制作から離れた後、フリーとなって初めて手掛けた劇場アニメ『時をかける少女』ポスタービジュアル (C)「時をかける少女」製作委員会2006

 しかしプロデューサー交代後も、細田版『ハウル』の制作は難航しました。吉田玲子さんのシナリオは完成したものの、細田守監督による絵コンテはCパートまで進んだところで壁にぶつかり停滞。それでも2003年公開は発表済みだったため、絵コンテ完成を待たずに作画作業に突入します。宮崎駿監督作品では耳にしますが、従来のアニメーション制作とはかけ離れた工程です。

 タイムリミットが迫るなか、慣れぬ出向先の、それでいて敬愛していたアニメスタジオでの異例の進行を背負わされた細田守監督のプレッシャーとは、いかなるものだったでしょうか。

 また細田守監督は後にWEBアニメスタイルのインタビューで、『ハウル』の準備段階において当時スタジオジブリのスタッフが『千と千尋』の制作に駆られていたため、作画や美術などメインのスタッフを自ら声をかけて集めなければいけなかったと語っています。しかし自分にはプロデューサーとしての権限がなかったので、制作が中止された時になんの保証もできなかったのが辛かった……とも。

『千と千尋』の原画はスタジオジブリ社内が15人、社外・外注が22人の計37人。過去最大だった『もののけ姫』を10人も上回る大規模なもので、美術も社内班が大半を占めました。キャラクターデザインや作画監督などのメインスタッフを外部のアニメーター中心に編成していた『猫の恩返し』でさえ、後に作業を一時中断せざるを得なかったというほど、スタジオジブリは『千と千尋』に注力していたのです。

 引き継いだ高橋望プロデューサーも、過去『海がきこえる』で一緒に仕事をした望月智充監督に助言を仰ぐなど事態の改善に務めましたが、現場の混乱をおさめることは叶わず、『千と千尋』の空前のロングランが続いていた2002年春頃には細田版『ハウル』の制作が頓挫し、スタッフは解散したといいます。

 一方の『猫の恩返し』は、予定通り2002年に公開され、同年最高の興行収入となる64億6000万円を記録しました。前述の小冊子「熱風」のなかに高橋望プロデューサーの興味深い発言があります。

『猫の恩返し』は外部のスタッフが多数参加していることもあり、他のスタジオジブリ作品とはキャラクターや作画のニュアンスが異なる点を指摘した上で「鈴木さんは、それを承知の上で、全編をチェックしてジブリっぽく見える絵を抜き出して、それを使って宣伝していました(中略)その手腕はさすがだと思いました」と。

 そして同年夏には宮崎駿監督の新作として『ハウル』の企画が再始動します。先に2001年公開の『千と千尋の神隠し』によって、スタジオジブリのブランド力は確固たるものとなったと書きましたが、当初新人演出家起用のための企画であった映画『ハウルの動く城』のこの変遷は、「スタジオジブリ作品=宮崎アニメ」というイメージの強化を象徴しているようにも感じます。

 細田守監督は、その後東映アニメーションに復帰して2005年に『ONE PIECE THE MOVIE オマツリ男爵と秘密の島』を、フリーになって2006年には映画『時をかける少女』を監督します。

 高橋望プロデューサーは、細田版『ハウル』の後、森田宏幸監督の新作やアーサー・ランサムさんの児童文学『ツバメ号とアマゾン号』のテレビシリーズ化などの新企画を立ち上げますが実現には至らず、奥田誠治プロデューサーの誘いで日本テレビに出向しました。

 そして正社員となり、庵野秀明監督が「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」シリーズを制作するための会社(カラー)の設立に尽力し、『サマーウォーズ』『おおかみこどもの雨と雪』などの細田守監督作品にプロデューサーとして関わることになるのです。

『千と千尋の神隠し』の大成功の陰で庵野秀明監督と細田守監督、稀代の才能を持つふたりの「ジブリ作品」が頓挫してしまったのは残念ですが、当時の経験が、その後の両監督の活躍の糧となり、その独創性が発揮できているとすれば、日本のアニメ・特撮の世界にとっては喜ばしいことなのかもしれません。

【参考・引用文献】
『スタジオジブリ物語』鈴木敏夫責任編集(集英社)
『宮崎駿全書』叶精二(フィルムアート社)
「熱風」2023年5月号「薪を運ぶ人 もうひとつのスタジオジブリ物語」(株式会社スタジオジブリ)
MOVIE WALKER「庵野秀明が自身のキャリアを振り返る!【実写映画編】アニメで感じた限界と実写でしか撮れない映像とは?Part2」https://moviewalker.jp/news/article/51779/
WEBアニメスタイル「『ONE PIECE ―オマツリ男爵と秘密の島―』細田守インタビュー(2)」http://www.style.fm/as/13_special/mini_050816.shtml

(倉田雅弘)

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